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年表トップ > 山上憶良と大伴家持の年表を比べる

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山上憶良(やまうえのおくら)

 

大伴家持(おおとものやかもち)

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山上憶良(やまうえのおくら)と大伴家持(おおとものやかもち)に関する本・DVD

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山上憶良   大伴家持
年月日 できごと   年月日 できごと
702 遣唐使(第7回)>・山部赤人・大伴家持=(大伴旅人の子)情報源のサイトへ      
      718 元正大伴家持、生(『大伴系図』、『公卿補任』情報源のサイトへ
      720 隼人の反乱←大伴旅人→cf、(子)大伴家持=「万葉集」情報源のサイトへ
733 山上憶良(万葉歌人)情報源のサイトへ      
733/3/3 山上憶良(第6次遣唐使)が大使多治広成の船出に際し、万葉集の長歌と反歌2首を贈りました。情報源のサイトへ      
      738 内舎人と見え情報源のサイトへ
      741 正月橘諸兄に命じ、遷都して「大養徳恭仁大宮(やまとノくにノおおみや、京都府相楽郡加茂町)」と命名され、内舎人の大伴家持が「久邇(くに)の京」を讃(ほ)め湛えて作った歌が万葉集にあり、歌碑は泉川(木津川)に架かる恭仁大橋の袂にあり情報源のサイトへ
      744/2/24 天皇は叔母の元正太上天皇や橘諸兄を難波宮に残して紫香楽宮へ向われましたが、大伴家持に詠われた「久邇京」をわずか情報源のサイトへ
      745 従五位下に叙せられる。情報源のサイトへ
      746/3 宮内少輔。情報源のサイトへ
      746/7 越中国国守となる。情報源のサイトへ
      751 までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ情報源のサイトへ
      754 少納言となって帰京後、天平勝宝6年情報源のサイトへ
      754/11/30 難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている情報源のサイトへ
      755 (天平勝宝7)の防人(さきもり)たちの歌など、宴席における遊戯的な歌の多いこの時期にあって率直な叙情が注目される。大伴家持の作品は情報源のサイトへ
      758 因幡国国守。翌情報源のサイトへ
      758 (天平宝字2)初頭までに巻17、18、19の3巻が成り、そののち巻20が加えられた。20巻本を集成した立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものができたのは情報源のサイトへ
      759 (天平宝字3)正月の大伴家持(おおとものやかもち)の作だから、最終的な編纂(へんさん)はそれ以後となる。山田孝雄(よしお)は、東歌(あずまうた)のなかで武蔵(むさし)国を東海道に編入していることに注目し、同国の東山道から東海道に移された情報源のサイトへ
      759/1 因幡国国府で万葉集の最後の歌を詠む。情報源のサイトへ
      767 大宰大弐に転じ情報源のサイトへ
      770 民部少輔となるまでの間に宇佐八幡宮神託事件が起きているが、どのように関わったのかは不明。情報源のサイトへ
      776 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では情報源のサイトへ
      780 参議に昇進したものの、氷上謀反事件氷上の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。情報源のサイトへ
      783 中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。情報源のサイトへ
      784 朝廷は、公然と長岡遷都に踏み切った。情報源のサイトへ
      785 生まれました。祖父の安麻呂(やすまろ)も父の旅人(たびと)も、ともに大納言という、名門の家柄です情報源のサイトへ
      785 大伴家持(万葉歌人)情報源のサイトへ
      785 没 | 越中国の人物 | 東北地方の歴史隠しカテゴリ: 文人関連のスタブ情報源のサイトへ

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