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年表トップ > 小野妹子と蘇我馬子の年表を比べる

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小野妹子(おののいもこ)

 

蘇我馬子(そがのうまこ)

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小野妹子(おののいもこ)に関する本・DVD

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小野妹子   蘇我馬子
年月日 できごと   年月日 できごと
      584 蘇我馬子が百済渡来の弥勒石仏(みろくせきぶつ)を仏殿(石情報源のサイトへ
      585 馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た情報源のサイトへ
      585/3 排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた情報源のサイトへ
      585/6 馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した情報源のサイトへ
      587 病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという情報源のサイトへ
      587 蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます情報源のサイトへ
      587 用明天皇の皇位継承問題をめぐって両者の対決は決定的になるのですが、実質的には宗教問題が大きく関係していました。物部氏は日本古来からの神道の信奉者で、仏教に対しては消極的、というより排仏的な立場をとっていました情報源のサイトへ
      588 蘇我馬子が飛鳥真神原で法興寺(飛鳥寺)の建立を開始。情報源のサイトへ
      588 (崇峻元年)蘇我馬子が渡来系豪族・衣縫樹葉(きぬぬいノここノは)の屋敷を壊して、法興寺(飛鳥寺)の建立を始めると、太子15歳はその造営を助けました。情報源のサイトへ
      592 天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した情報源のサイトへ
      592 崇峻天皇を暗殺し、欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳)情報源のサイトへ
      592/11 馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした情報源のサイトへ
      593/12/8 敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫39歳が豊浦宮で我が国初の女帝として大臣蘇我馬子ら群臣百官を従え、第33代推古天皇に即位され、飛鳥地方に宮都が営まれ、桜井市池之内の磐余池上陵(いわれノいけのへノみささぎ)に埋葬されていた太子の父・用明天皇の御遺体を河内磯長陵に改葬しました。情報源のサイトへ
607 其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法情報源のサイトへ      
607 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年情報源のサイトへ      
608 遣隋使小野妹子に従い8人の留学生の一人として隋へ留学、32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して情報源のサイトへ      
608 裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し、(紛失に関しては諸説あり、[要出所明記]とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。情報源のサイトへ      
608/8/3 遣隋使・小野妹子が隋使・裴世清を伴って帰国し飛鳥京に入るとき、飾り馬75頭をもって迎えられたのも、この港でした。正にここは日本文化を生み出す源流の地だったのです情報源のサイトへ      
608/11/30 返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安らと再び派遣された。情報源のサイトへ      
      612 堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した情報源のサイトへ
      622 死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています情報源のサイトへ
      622 聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた情報源のサイトへ
      622 推古女帝摂政のままで聖徳太子が没すると、太子と共に担ってきた蘇我氏の権力は一気に増大します。蘇我馬子は太子の後継者として、自分の娘と太子の子である山背大兄王を推薦します情報源のサイトへ
      623 蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も百済、高句麗、さらには隋の後に中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます情報源のサイトへ
      623 新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した情報源のサイトへ
      626 カテゴリ: 蘇我氏 | 飛鳥時代の人物 | 奈良県の歴史 | 626年没情報源のサイトへ

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