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小林多喜二(こばやしたきじ)

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小林多喜二(こばやしたきじ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1903/10/13 小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年10月13日 - 情報源のサイトへ
1907/12 下旬、小樽市に移住。 情報源のサイトへ
1919 16歳。校友会誌『樽商』の編集委員にえらばれる 情報源のサイトへ
1921 18歳。小樽高等商業学校に入学 情報源のサイトへ
1923 などで注目され、『人を殺す犬』 情報源のサイトへ
1924 21歳。北海道拓殖銀行に勤める 情報源のサイトへ
1924/10 不幸な境遇にあった田口タキと知る。 情報源のサイトへ
1926 23歳。「人を殺す犬」(『校友会誌 情報源のサイトへ
1927 24歳。社会科学の学習をはじめる 情報源のサイトへ
1927/8 労農芸術家連盟に加盟。 情報源のサイトへ
1927/9 古川友一が主宰する社会科学研究会に参加。 情報源のサイトへ
1928 総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説にく。この経験がのちの作品『東倶知安』に生かされている 情報源のサイトへ /20030409-2.jpg /20030409-3.jpg
1928/3/15 』や『蟹工船』等の代表作の装幀を手がけている。後年は北海道の自然を題材にした作品も多い 情報源のサイトへ /yabebig.jpg /suyama.jpg
1928/3/15 』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に殺害される引き金となった 情報源のサイトへ
1928/5 中旬、10日間の予定で上京、蔵原惟人らと会う。「防雪林」を未定稿のままにし、「 情報源のサイトへ /img20081116_t.jpg
1928/12 号に発表。「東倶知安」(『改造』 情報源のサイトへ
1929 書いた『蟹工船』が今ブームになっています。文庫本は重版を重ね、テレビ・新聞が相次いで特集 情報源のサイトへ
1929 『蟹工船』を「戦旗」に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め 情報源のサイトへ
1929/3 「蟹工船」を完成し、『戦旗』5 情報源のサイトへ
1929/4/20 小樽警察に拘引、家宅捜査された。 情報源のサイトへ
1929/6 号に発表。4・16事件が起きる 情報源のサイトへ /f79772191f23faf16fcfaa90fdcad3bc.jpg /%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%B0%8F.JPG
1929/7 土方与志らの築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された。だが同時に警察(特に当時の特高警察)からも要注意人物としてマークされ始める 情報源のサイトへ
1929/11 号に発表。 情報源のサイトへ
1929/11 「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇される。 情報源のサイトへ
1930/2 「工場細胞」を完成、『改造』4、5 情報源のサイトへ
1930/3 末、小樽から上京し、東京中野区上町に下宿。 情報源のサイトへ
1930/5 中旬、『戦旗』防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵、大宅壮一らと京都大阪三重をまわり、大阪日本共産党への財政援助の嫌疑で逮捕。 情報源のサイトへ
1930/5/30 春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる 情報源のサイトへ
1930/6/7 一旦釈放された。 情報源のサイトへ
1930/6/24 帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され 情報源のサイトへ
1930/7 「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴をうける。 情報源のサイトへ
1930/8 治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。 情報源のサイトへ
1931/1/22 保釈出獄。3− 情報源のサイトへ
1931/1/22 保釈出獄。その後神奈川県・七沢温泉に篭る 情報源のサイトへ
1931/4 療養をかねて神奈川県・七沢温泉の福元館に逗留、「オルグ」を執筆。 情報源のサイトへ
1931/7 作家同盟第4回臨時大会で中央委員、書記長にえらばれる。 情報源のサイトへ
1931/7 末、杉並区馬橋に一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟三吾と暮らす。 情報源のサイトへ
1931/11 上旬、奈良志賀直哉を訪ねる。 情報源のサイトへ /letter.jpg
1932 春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。 情報源のサイトへ
1932/4 上旬、宮本顕治らと地下活動にうつり、文化運動の再建に献身する。 情報源のサイトへ /2007-04-08-NZ-05.jpg /2007-04-08-NZ-01.jpg
1932/6 文化団体党グループの責任者になる。 情報源のサイトへ
1932/7 日本反帝同盟の執行委員になる。 情報源のサイトへ
1932/8 下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。 情報源のサイトへ
1933 死顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。中央公論編集部は、多喜二から預かったまま掲載をためらっていた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4- 情報源のサイトへ
1933 独房の中で小林多喜二の死の知らせを聞いた。 情報源のサイトへ
1933 カテゴリ: 日本の小説家 | 政治犯 | 戦前・戦中の言論弾圧 | 秋田県出身の人物 | 日本共産党の人物 | プロレタリア文学 | 小樽市 | 1903年生 | 1933年没 情報源のサイトへ
1933/1 「地区の人々」を書き、『改造』 情報源のサイトへ
1933/2/20 日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。秋田県北秋田郡川沿村(現大館市)生まれ 情報源のサイトへ
1933/2/20 共産党に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定にしていた。しかし、今村恒夫とともに訪れたその待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していて、多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕されてしまった 情報源のサイトへ
1933/2/20 正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、今村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高らの拷問により午後7時45分殺される。検察当局は死因を心臓まひと発表 情報源のサイトへ
1933/2/21 「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った 情報源のサイトへ
1933/2/22 通夜 情報源のサイトへ
1933/2/23 告別式参会者を総検束した。 情報源のサイトへ
1933/3/15 築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。弾圧、拷問により死亡した強い印象からか、強面ともイメージされるが生前の多喜二は大変明るく話し好きな人物で、彼の周りでは笑い声が絶えなかった 情報源のサイトへ
1933/3/15 労農葬が築地小劇場でおこなわれた。魯迅をはじめ、内外から多数の抗議と弔文がよせられた 情報源のサイトへ /family.gif /luxunguju.jpg
1933/3/31 築地小劇場で新築地劇団により追悼公演「沼尻村」が上演された。「党生活者」が『中央公論』4 情報源のサイトへ
1933/5 号)に、遺作として発表した。 情報源のサイトへ
1933/5 号に「転換時代」の仮題で発表された。 情報源のサイトへ

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