| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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1828 |
哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった |
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1828/1/23 |
すべきだと言う声も上がっている。 |
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1828/12 |
頃としていて、説得力がある。 |
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1828/12/8 |
口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載 |
| 1836/2/5 |
鹿児島城下に生まれる。 |
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1839 |
郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めたが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した |
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1841 |
元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町郷中(したかじやまちごじゅう)の二才組(にせこ)に昇進する |
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1844 |
18歳 郡方書役助の役職につく  |
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1852/11 |
母マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。 |
| 1853 |
従兄である薩摩藩主・ 島津斉彬の養女となり |
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1853 |
27歳 ペリー来航 |
| 1853 |
御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依り当春 |
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1853/2 |
家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた |
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1853/2/9 |
兄の隆永(のちの西郷隆盛)が家督相続。 |
| 1853/3 |
厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙り |
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| 1853/4/5 |
至り、都合 |
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| 1853/8/21 |
鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。 |
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| 1853/10/6 |
伏見を出る。 |
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| 1854 |
横須賀に上陸した際に、将軍へ献上したものらしく、アメリカの外交官として始めて江戸を訪れ、徳川将軍に謁見した、タウンゼント・ハリス外交官を通じて、篤姫はウイーラー&ウイルソン社へ返礼の品を贈ったようで、当時の日本では大変貴重なミシン(ソーイング・マシーン)をもらったようだ。 |
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1854 |
28歳 藩主・ 島津斉彬に従って江戸に行く藤田東湖と親交  |
| 1854 |
将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に |
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1854 |
西郷隆盛が樺山三円と共に東湖の許を訪れ、彼の印象を次のように記している。「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」(彼(東湖)の御宅に伺った時は、まるで清水を浴びたような、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした) |
| 1854/11 |
既に大石寺に帰依していた八戸藩主・南部信順(のぶゆき・島津重豪の十男)の強い勧めにより斉彬とともに大石寺(現在の 日蓮正宗総本山、静岡県富士宮市)に帰依し、同塔中遠信坊再々興に貢献した。また家定の死後には |
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1855 |
29歳 橋本佐内と出会う  |
| 1856 |
^ 「前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事、各の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公(鹿児島藩11代藩主)の姫君にして、御幼名篤姫君と称し奉り、此の御方不思議の御因縁にて当門流御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り、而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年(安政3年) |
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| 1856 |
右大臣・近衛忠煕の養女となり |
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| 1856 |
篤姫を、 島津斉彬の姉が嫁いでいた右大臣・近衛忠煕の養女とした。 |
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| 1856/1 |
渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや |
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| 1856/11 |
第13代将軍・ 徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った(輿入れの経緯・詳細については後述)。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった |
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| 1856/11/19 |
結納。 |
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| 1857 |
篤姫付きの御中臈になる。しかし |
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| 1857 |
世界情勢を見据えてアメリカと日米和親条約を結び下田と函館を開港するなど、日本がアメリカの植民地になることを防ぎ「日本を救った政治家」とされる。 |
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1857/4 |
参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物、津田山三郎と会い、国事を話し合った。 |
| 1858 |
生まれたばかりのの皇女・富貴宮が第一候補となったが、富貴宮が |
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1858 |
32歳 京都にて一橋慶喜将軍継嗣工作にあたる月照と共に入水自殺を図るが一人助かる奄美大島に潜伏 安政の大獄 |
| 1858 |
幕府は次期将軍には紀州藩慶福にすると決定。その決定からまもなく将軍・ 徳川家定が死去 |
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| 1858 |
慶福( 徳川家茂)が就任。 |
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| 1858 |
後で致仕したものと考えられる。 |
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1858/2 |
橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し |
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1858/3 |
篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。 |
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1858/6 |
鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。 |
| 1858/7/6 |
しかし安政5年7月6日 |
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1858/7/27 |
京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。 |
| 1858/8/14 |
家定が急死し |
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| 1858/8/24 |
斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか |
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1858/9/16 |
再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため |
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1858/12 |
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。 |
| 1859 |
死去したために、結果的に 徳川家茂と |
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| 1860 |
孝明天皇もやむなく承諾。 |
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1860 |
34歳 桜田門外の変( 井伊直弼暗殺) |
| 1860/2/23 |
入京)  |
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| 1860/5/1 |
12時間(4時間×3回)の唱題祈念を行なっている[3]。また、薩摩藩江戸藩邸奥女中小ノ島(篤姫入興後密偵役を務めた)の墓は、同じく 日蓮正宗妙縁寺にある |
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| 1860/5/25 |
までの51日間、常泉寺に在住していた大石寺第51代法主・日英上人をして |
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| 1860/6/20 |
孝明天皇は「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで、やむなく降嫁を認めた。大奥の上臈御年寄だった姉小路も和宮の降下も自ら京に赴き要求したと言う |
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| 1860/8/5 |
アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠 |
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| 1860/11/15 |
江戸・清水邸に入る。) |
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| 1861/10/20 |
京都を発ち |
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| 1861/11/4 |
要したと言う。 |
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| 1861/11/15 |
江戸に到着。江戸幕府は衰えぬ威勢を示すため諸藩による警護2万人を和宮のお迎えに動員 |
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| 1862 |
御中臈増人に降格となり、致仕したと考えられる。 |
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1862 |
36歳 島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流される |
| 1862 |
後までには大奥で致仕。 |
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1862 |
西郷隆盛が2回目に配流された沖永良部島は終身流刑地で、配流時には知行や家財が没収されたという。西郷家も例外ではなかったが、石高41石余りはこの時までに処分済みだったので影響しなかったという |
| 1862 |
幼い 徳川家茂に正室として朝廷より 仁孝天皇の妹・和宮が大奥へ入る。 |
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| 1862 |
孝明天皇の勅命が下され、将軍後見職に一橋慶喜が就任、大老には同じく一橋派の福井藩主・松平慶永( 松平春嶽)がつき、安政の大獄で弾圧した者を処罰し、幽閉されていた者を釈放するなど、今度は開国し一橋派が勢力を盛り返してきた。 |
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| 1862 |
朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ |
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| 1862 |
家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった 徳川家茂が14代将軍に就任することとなった。その後さらに幕府は公武合体政策を進め、文久2年 |
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| 1862/3/25 |
付(日付は諸説あり)ニューヨーク新聞(現在のニューヨークタイムズ)で、駐日の記者マン・エンさんの記事で下記のような報道があった。 |
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1862/4 |
同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている |
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1862/7/2 |
西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の |
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1862/7/2 |
愛加那が菊草(菊子)を生んだ。 |
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1862/8 |
初め、徳之島岡前を出発し |
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1862/8/26 |
徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから |
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1862/8/26 |
さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の |
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1862/12 |
藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[4]。 |
| 1863 |
家茂の上洛に際して、江戸への無事帰還の祈祷を日英上人に願い出ている。家茂の期間後、日英上人へ手許金の15両を奉納 |
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1863 |
37歳 薩英戦争 |
| 1863 |
江戸城火事で、西の丸、本丸・二の丸が焼失した際に、他の多くの女中たちとともに暇を出されたが、3年間は諸手当を保証されていたと言われる。 |
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| 1863/4 |
家茂への書状には、「厳しく信心のみ致し、御帰城のところ祈り祈り参らせ候、その御地にても御一大事の事ゆへ御信心第一と存じ参らせ候」と、自身の強い信仰 心を書いている。 |
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| 1864 |
京都御所で起こった 禁門の変で、幕府軍を指揮し長州勢を追い払った手腕などの実績もあった為、業を煮やした 孝明天皇は |
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1864 |
38歳 赦免され京都に入る 蛤御門の変で長州軍を撃退 勝海舟と会談第1次長州征伐に参謀として随行  |
| 1864 |
御中臈筆頭になっている。 |
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| 1864 |
体調を崩し医師の診断を受けおり |
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1864/5/9 |
大番頭・一身家老組に任命された[4]。この頃、将軍 徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主 徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏 |
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1864/6/24 |
京都で 坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ |
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1864/7/23 |
長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出 |
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1864/10/1 |
前尾張藩主徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び 徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、 国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった |
| 1865 |
和宮生母・観行院も江戸城でなくなっており、続けて親近者を亡くすのである。 |
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1865 |
3度目の妻は慶応元年 |
| 1865 |
頃奉公を辞めている。 |
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1865 |
岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った |
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1865/6/27 |
朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし |
| 1866 |
引退。大奥の年寄・瀧山も |
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1866 |
40歳 薩長同盟締結 徳川慶喜が将軍となる 明治天皇即位 |
| 1866 |
半までに御年寄を辞した模様。 |
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1866 |
西郷隆盛らと薩長連合(薩摩藩と長州藩の連合)を密約し、倒幕を推進します。維新後は、五箇条の誓文の作成や版籍奉還・廃藩置県など 一連の改革に重要な役割を果たします |
| 1866 |
慶喜の 大奥改革に対しては、家茂の死後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。 |
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1866/1/8 |
西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎(木戸)を伏見に出迎え、翌 |
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1866/1/22 |
いう説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、 坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した |
| 1866/3/15 |
決定。 |
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| 1866/4/10 |
一橋邸へ入る。 |
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| 1866/4/25 |
板橋平尾一里塚で斬首。35歳 |
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| 1866/7/20 |
第二次長州征伐の途上で病に倒れる。天璋院や和宮は急ぎ、医師を江戸から派遣させたが、その甲斐なく、21歳の若さで 徳川家茂は大坂城にて病死した |
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| 1866/12/5 |
徳川慶喜に征夷大将軍の宣下をだし、 徳川慶喜はさすがに断れず将軍に就任した。 |
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| 1866/12/25 |
徳川家茂が亡くなってまだ5ヶ月と言うのに、 孝明天皇が享年37で崩御。滅多に風邪にもならないと言う壮健な 孝明天皇であった為、暗殺説なども多くある |
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1866/12/25 |
孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の |
| 1867 |
徳川慶喜は大政奉還をして、 倒幕運動の大義名分を失わせ、政権を返上しても朝廷に政権担当能力がなかった為、引き続き徳川家を中心に新政府下の実質的な中心役割を果たそうとした。 |
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1867 |
41歳 大政奉還 |
| 1867 |
頃に隠居し、明治には川口(埼玉)で暮らしている。 |
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| 1867 |
慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた 戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した |
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1867/6/16 |
西郷・小松帯刀・ 大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・ 品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、江戸市内へ伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺の放火・強盗による人心攪乱)を行わせ幕府を挑発した |
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1867/10/14 |
討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[4])。 |
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1867/11/20 |
大坂 |
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1867/11/23 |
京都に着いた。長州兵約700名も |
| 1867/12 |
王政復古を宣言=「王政復古の大号令」ほ出す。 |
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1867/12 |
ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 |
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1867/12 |
薩摩藩の出身です。西郷隆盛らとともに 討幕運動を推進し、慶応3年12月 |
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1867/12/9 |
薩摩・安芸・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。 |
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1868 |
李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・ 板垣退助・副島種臣らは、調査のために |
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1868 |
42歳 鳥羽・ 伏見の戦い東征大総督府参謀となる山岡鉄太郎(鉄舟)と会談 勝海舟と会談し江戸城攻撃を中止する 上野戦争で彰義隊と戦う東北鎮定に向かう  |
| 1868/1 |
新政府軍と旧幕府軍は 鳥羽伏見の戦いとなった。 |
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1868/1/9 |
有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。 |
| 1868/1/21 |
土御門藤子を使者として朝廷に派遣し、共に嘆願。 徳川慶喜は罰を受けても仕方ないが、徳川家存続や 徳川慶喜の助命を願い出た |
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1868/2/28 |
東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した |
| 1868/3/10 |
再び土御門藤子を沼津まで来ていた官軍に向わせ、江戸進撃猶予を嘆願。 |
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| 1868/3/11 |
侍女・玉島を蕨(埼玉県)に遣わして、官軍の進撃猶予を再度嘆願した。 |
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1868/3/14 |
勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。当時、“薩摩藩の後ろ盾”となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて“江戸総攻撃に反対”していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった |
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1868/3/20 |
朝議にかけて了承を得た。江戸へ帰った西郷は |
| 1868/4 |
新政府から従三位の位階を剥奪されている。 |
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1868/4/11 |
江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれた。 |
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1868/6/14 |
鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[4] |
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1868/9/29 |
幕末に活躍した薩摩藩士で、西郷吉兵衛の次男。西郷隆盛の弟 |
| 1869 |
天璋院を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとしたが、 明治天皇の東京行幸の際 |
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1869 |
43歳 薩摩藩の参与となる 函館戦争の援軍に向かう 版籍奉還 |
| 1869 |
一方、和宮(静寛院宮)は、1869年 |
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1870 |
若い頃から 朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年 |
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1870 |
44歳 明治政府に出仕  |
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1870/7/3 |
相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は |
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1870/7/27 |
鹿児島藩士・集議院徴士横山安武( 森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[5]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために |
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1870/10/14 |
西郷隆盛家より分家す。幼名勇袈裟 |
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1871 |
正月、 三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。 |
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1871 |
その後は、故郷に退隠したが、明治4年 |
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1871 |
45歳 廃藩置県断行遣欧使節団出発 |
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1871/1/3 |
西郷と大久保は池上を伴い「 政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。 |
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1871/2/8 |
会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年 東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[7] |
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1871/7/5 |
制度取調会の議長となり |
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1872 |
池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 |
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1872 |
46歳 明治天皇の西国巡幸に随行する  |
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1872/3 |
御親兵を廃止して近衛兵を置いた。 |
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1872/7/29 |
陸軍元帥兼参議に任命された。このときに 山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した |
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1873 |
征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。 |
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1873 |
政変 |
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1873 |
政変を主導して、政府の中心として殖産興業などに活躍しました。 |
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1873 |
47歳 陸軍大将になる朝鮮派遣が中止となり辞職して鹿児島に帰る 岩倉具視ら帰国 |
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1873/1/1 |
以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。 |
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1873/6 |
外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は |
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1873/8/16 |
三条実美の同意を得て |
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1873/9/15 |
再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・ 大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った |
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1873/9/23 |
西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌 |
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1873/9/25 |
なると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した |
| 1874 |
再び東京に入り、麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。 |
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1874 |
48歳 佐賀の乱 |
| 1874/2/21 |
熊本城を襲撃。(日本最後の内乱) |
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| 1874/3/1 |
より約1ヶ月間、田原坂で激戦となり、結果的に薩軍は撤退 |
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1874/6 |
頃に旧厩跡に私学校がつくられた[13]。 私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた |
| 1874/11/12 |
徳川家達を招待 |
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| 1874/11/29 |
天璋院、本寿院らを御殿に招待し |
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| 1875 |
隠居) |
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1875 |
この他に、明治8年 |
| 1875/10/30 |
自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。 |
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1876 |
50歳 神風連の乱・ 萩の乱 |
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1876/1 |
かけて |
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1876/10/28 |
萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。 |
| 1877 |
病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32) |
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1877 |
(復刻版、『 福澤諭吉著作集』第9巻、慶應義塾大学出版会 |
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1877 |
』第90巻 |
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1877 |
カテゴリ: 西郷隆盛 | 幕末維新側人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 日本の陸軍軍人 | 日本の儒学者 | 陽明学者 | アジア主義の人物 | 薩摩国の人物 | 1828年生 | 1877年没 |
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1877 |
51歳 西南戦争で九州各地を転戦する鹿児島の城山で自決  |
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1877 |
ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれたその姿[15](1877年) |
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1877/1/29 |
従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った |
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1877/2/6 |
私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌 |
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1877/2/9 |
川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[17] |
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1877/2/14 |
私学校本校横の練兵場[19]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。 |
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1877/2/15 |
薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し( 西南戦争開始) |
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1877/2/20 |
別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した |
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1877/4 |
帰藩、対幕抗戦の藩論決定に活躍した。慶応二(1866)年正月、京都薩摩藩邸において、 坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと薩長同盟密約を結んだ |
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1877/4/14 |
熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から |
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1877/4/28 |
軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった |
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1877/7 |
廃藩置県にも西郷隆盛とならぶ参議として重責を担った。ついで |
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1877/7/17 |
21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 |
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1877/8/17 |
夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[20] |
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1877/9/24 |
享年51歳。 |
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1877/9/24 |
(満49歳没) |
| 1880/9/23 |
から |
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| 1880/10/31 |
熱海・箱根方面で逗留 |
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| 1883 |
東京の徳川宗家邸で死去、享年48歳。天璋院が亡くなった際、手元に残っていたお金は、わずか三円(現在の価値で約6万円)であったとも言われている |
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| 1883 |
カテゴリ: 幕末徳川側人物 | 江戸時代の人物 | 幕末の人物 | 薩摩国の人物 | 島津氏 | 徳川氏 | 大奥 | 1836年生 | 1883年没 |
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| 1883/11/13 |
徳川宗家邸で脳溢血で倒れる。意識が回復しないまま |
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| 1883/11/15 |
で死去した。死後、新政府から従三位の位階を再び贈られている |
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| 1883/11/20 |
江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍 徳川家定御台所となった。 |
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| 1883/11/20 |
享年48歳 |
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| 1883/11/20 |
49歳(満47歳9ヶ月 |
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