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天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)

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天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1836/2/5 鹿児島城下に生まれる。 情報源のサイトへ
1853 従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり 情報源のサイトへ /kagosima497.jpg /kagosima495.jpg
1853 御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依り当春 情報源のサイトへ
1853/3 厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙り 情報源のサイトへ
1853/4/5 至り、都合 情報源のサイトへ
1853/8/21 鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。 情報源のサイトへ
1853/10/6 伏見を出る。 情報源のサイトへ
1854 横須賀に上陸した際に、将軍へ献上したものらしく、アメリカの外交官として始めて江戸を訪れ、徳川将軍に謁見した、タウンゼント・ハリス外交官を通じて、篤姫はウイーラー&ウイルソン社へ返礼の品を贈ったようで、当時の日本では大変貴重なミシン(ソーイング・マシーン)をもらったようだ。 情報源のサイトへ /s-peri03.jpg
1854 将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に 情報源のサイトへ
1854/11 既に大石寺に帰依していた八戸藩主・南部信順(のぶゆき・島津重豪の十男)の強い勧めにより斉彬とともに大石寺(現在の日蓮正宗総本山、静岡県富士宮市)に帰依し、同塔中遠信坊再々興に貢献した。また家定の死後には 情報源のサイトへ /02701_01.jpg /20060721_193160.JPG
1856 ^ 「前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事、各の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公(鹿児島藩11代藩主)の姫君にして、御幼名篤姫君と称し奉り、此の御方不思議の御因縁にて当門流御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り、而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年(安政3年) 情報源のサイトへ
1856 右大臣・近衛忠煕の養女となり 情報源のサイトへ
1856 篤姫を、島津斉彬の姉が嫁いでいた右大臣・近衛忠煕の養女とした。 情報源のサイトへ /img006.jpeg
1856/1 渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや 情報源のサイトへ
1856/11 第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った(輿入れの経緯・詳細については後述)。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった 情報源のサイトへ /sinsyoji_2.jpg
1856/11/19 結納。 情報源のサイトへ
1857 篤姫付きの御中臈になる。しかし 情報源のサイトへ /goryoukaku05.jpg
1857 世界情勢を見据えてアメリカと日米和親条約を結び下田と函館を開港するなど、日本がアメリカの植民地になることを防ぎ「日本を救った政治家」とされる。 情報源のサイトへ /kaisetu0802.jpg
1858 生まれたばかりのの皇女・富貴宮が第一候補となったが、富貴宮が 情報源のサイトへ
1858 幕府は次期将軍には紀州藩慶福にすると決定。その決定からまもなく将軍・徳川家定が死去 情報源のサイトへ
1858 慶福(徳川家茂)が就任。 情報源のサイトへ
1858 後で致仕したものと考えられる。 情報源のサイトへ
1858/7/6 しかし安政5年7月6日 情報源のサイトへ
1858/8/14 家定が急死し 情報源のサイトへ
1858/8/24 斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか 情報源のサイトへ
1859 死去したために、結果的に徳川家茂情報源のサイトへ
1860 孝明天皇もやむなく承諾。 情報源のサイトへ /kazunomiya.jpg
1860/2/23 入京)  情報源のサイトへ
1860/5/1 12時間(4時間×3回)の唱題祈念を行なっている[3]。また、薩摩藩江戸藩邸奥女中小ノ島(篤姫入興後密偵役を務めた)の墓は、同じく日蓮正宗妙縁寺にある 情報源のサイトへ
1860/5/25 までの51日間、常泉寺に在住していた大石寺第51代法主・日英上人をして 情報源のサイトへ
1860/6/20 孝明天皇は「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで、やむなく降嫁を認めた。大奥の上臈御年寄だった姉小路も和宮の降下も自ら京に赴き要求したと言う 情報源のサイトへ /kazunomiya.jpg
1860/8/5 アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠 情報源のサイトへ
1860/11/15 江戸・清水邸に入る。) 情報源のサイトへ
1861/10/20 京都を発ち 情報源のサイトへ
1861/11/4 要したと言う。 情報源のサイトへ
1861/11/15 江戸に到着。江戸幕府は衰えぬ威勢を示すため諸藩による警護2万人を和宮のお迎えに動員 情報源のサイトへ
1862 御中臈増人に降格となり、致仕したと考えられる。 情報源のサイトへ
1862 後までには大奥で致仕。 情報源のサイトへ
1862 幼い徳川家茂に正室として朝廷より仁孝天皇の妹・和宮が大奥へ入る。 情報源のサイトへ /nobecho.jpg /image56115111.jpg
1862 孝明天皇の勅命が下され、将軍後見職に一橋慶喜が就任、大老には同じく一橋派の福井藩主・松平慶永(松平春嶽)がつき、安政の大獄で弾圧した者を処罰し、幽閉されていた者を釈放するなど、今度は開国し一橋派が勢力を盛り返してきた。 情報源のサイトへ /08052507.jpg /img4bcbf494vy9yr3.jpeg /aizu00K.jpg /konkaikoumyoujiaizuhanbochi4.jpg /151dodoitu.jpg
1862 朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ 情報源のサイトへ
1862 家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任することとなった。その後さらに幕府は公武合体政策を進め、文久2年 情報源のサイトへ /nobecho.jpg /image56115111.jpg
1862/3/25 付(日付は諸説あり)ニューヨーク新聞(現在のニューヨークタイムズ)で、駐日の記者マン・エンさんの記事で下記のような報道があった。 情報源のサイトへ
1863 家茂の上洛に際して、江戸への無事帰還の祈祷を日英上人に願い出ている。家茂の期間後、日英上人へ手許金の15両を奉納 情報源のサイトへ
1863 江戸城火事で、西の丸、本丸・二の丸が焼失した際に、他の多くの女中たちとともに暇を出されたが、3年間は諸手当を保証されていたと言われる。 情報源のサイトへ
1863/4 家茂への書状には、「厳しく信心のみ致し、御帰城のところ祈り祈り参らせ候、その御地にても御一大事の事ゆへ御信心第一と存じ参らせ候」と、自身の強い信仰 心を書いている。 情報源のサイトへ
1864 京都御所で起こった禁門の変で、幕府軍を指揮し長州勢を追い払った手腕などの実績もあった為、業を煮やした孝明天皇情報源のサイトへ /DSCF0625.JPG /173s.jpg /image.jpg
1864 御中臈筆頭になっている。 情報源のサイトへ
1864 体調を崩し医師の診断を受けおり 情報源のサイトへ
1865 和宮生母・観行院も江戸城でなくなっており、続けて親近者を亡くすのである。 情報源のサイトへ
1865 頃奉公を辞めている。 情報源のサイトへ
1866 引退。大奥の年寄・瀧山も 情報源のサイトへ /040322.DSCF0084.JPG
1866 半までに御年寄を辞した模様。 情報源のサイトへ
1866 慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。 情報源のサイトへ /10054523269.jpg /10054523292.jpg
1866/3/15 決定。 情報源のサイトへ /040322.DSCF0084.JPG
1866/4/10 一橋邸へ入る。 情報源のサイトへ
1866/4/25 板橋平尾一里塚で斬首。35歳 情報源のサイトへ
1866/7/20 第二次長州征伐の途上で病に倒れる。天璋院や和宮は急ぎ、医師を江戸から派遣させたが、その甲斐なく、21歳の若さで徳川家茂は大坂城にて病死した 情報源のサイトへ /iemochi_n.jpg /iemochi.jpg
1866/12/5 徳川慶喜に征夷大将軍の宣下をだし、徳川慶喜はさすがに断れず将軍に就任した。 情報源のサイトへ /photo03.jpg /ynk-11010027.jpg
1866/12/25 徳川家茂が亡くなってまだ5ヶ月と言うのに、孝明天皇が享年37で崩御。滅多に風邪にもならないと言う壮健な孝明天皇であった為、暗殺説なども多くある 情報源のサイトへ /iemochi_n.jpg /iemochi.jpg /aizu_byakko08.jpg /obj200200355l.jpg
1867 徳川慶喜は大政奉還をして、倒幕運動の大義名分を失わせ、政権を返上しても朝廷に政権担当能力がなかった為、引き続き徳川家を中心に新政府下の実質的な中心役割を果たそうとした。 情報源のサイトへ /top_img_03.jpg /top_img_01.jpg /78-1.jpg /78-3.jpg
1867 頃に隠居し、明治には川口(埼玉)で暮らしている。 情報源のサイトへ
1867 慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した 情報源のサイトへ /060827e1.jpg /20070113_217289.JPG
1867/12 王政復古を宣言=「王政復古の大号令」ほ出す。 情報源のサイトへ /sanbongi.jpg /matsu03.jpg /top_img_03.jpg /top_img_01.jpg /051125tomomi6.JPG /cryp-thumb-86xauto.jpg
1868/1 新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いとなった。 情報源のサイトへ /tobafushimi.jpg /kyoto18.jpg
1868/1/21 土御門藤子を使者として朝廷に派遣し、共に嘆願。徳川慶喜は罰を受けても仕方ないが、徳川家存続や徳川慶喜の助命を願い出た 情報源のサイトへ /tessyuu.jpg /s1125370288.jpg /yamaoka3.jpg /nijyou.gif
1868/3/10 再び土御門藤子を沼津まで来ていた官軍に向わせ、江戸進撃猶予を嘆願。 情報源のサイトへ
1868/3/11 侍女・玉島を蕨(埼玉県)に遣わして、官軍の進撃猶予を再度嘆願した。 情報源のサイトへ
1868/4 新政府から従三位の位階を剥奪されている。 情報源のサイトへ
1869 天璋院を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとしたが、明治天皇の東京行幸の際 情報源のサイトへ /tenno.jpg /moblog_213598.jpg
1869 一方、和宮(静寛院宮)は、1869年 情報源のサイトへ
1874 再び東京に入り、麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。 情報源のサイトへ
1874/2/21 熊本城を襲撃。(日本最後の内乱) 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg /aloha20861.jpg /sigaku2.jpg
1874/3/1 より約1ヶ月間、田原坂で激戦となり、結果的に薩軍は撤退 情報源のサイトへ
1874/11/12 徳川家達を招待 情報源のサイトへ
1874/11/29 天璋院、本寿院らを御殿に招待し 情報源のサイトへ
1875 隠居) 情報源のサイトへ
1875/10/30 自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。 情報源のサイトへ
1877 病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32) 情報源のサイトへ /saigosetumei%20s.jpg
1880/9/23 から 情報源のサイトへ
1880/10/31 熱海・箱根方面で逗留 情報源のサイトへ
1883 東京の徳川宗家邸で死去、享年48歳。天璋院が亡くなった際、手元に残っていたお金は、わずか三円(現在の価値で約6万円)であったとも言われている 情報源のサイトへ
1883 カテゴリ: 幕末徳川側人物 | 江戸時代の人物 | 幕末の人物 | 薩摩国の人物 | 島津氏 | 徳川氏 | 大奥 | 1836年生 | 1883年没 情報源のサイトへ
1883/11/13 徳川宗家邸で脳溢血で倒れる。意識が回復しないまま 情報源のサイトへ
1883/11/15 で死去した。死後、新政府から従三位の位階を再び贈られている 情報源のサイトへ
1883/11/20 江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。 情報源のサイトへ
1883/11/20 享年48歳 情報源のサイトへ
1883/11/20 49歳(満47歳9ヶ月 情報源のサイトへ

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