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できごと |
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年月日 |
できごと |
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562 |
新羅が任那( 加羅)を滅ぼして以降、 日本と新羅の関係は腹のさぐり合い状態で、時には新羅が 日本に仏像などを送っていましたが |
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576 |
敏達天皇(異母兄)の皇后広姫の薨去にともないその後添えとなった。夫の 敏達天皇が疱瘡の病で崩御し、ついで皇位についた 用 明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので |
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585/9/15 |
35歳のとき、 敏達天皇が没した。ただし、『日本書紀』推古紀によれば18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には 欽明天皇 |
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586 |
( 用 明元年)太子13歳が建立48ヶ寺の1つ、 比曽寺(世尊寺)を創建して、父 用 明天皇の為に東塔を、炊屋姫(かしきやひめ、父の妹、叔母、後の推古天皇)が亡き夫の 敏達天皇の為に西塔を建立され、今はそれらの礎石が境内に散在し、また、本堂の裏に太子御手植えの「壇上桜」が毎年花を咲かせています。 |
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586/5 |
敏達天皇の遺骸を安置した殯宮(もがりノみや、 奈良県 北葛城郡 広陵町 廣瀬)に穴穂部皇子(あなほべノみこ、太子の父の異母弟)が押し入って、鎮魂の儀礼を行っていた 敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、穴穂部皇子の異母姉、後の推古天皇)を犯そうとしたけど、 敏達天皇の寵臣三輪君逆が警衛の隼人を大声で呼んで、殯宮の門を固く閉ざし、炊屋姫を守りました。 |
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587 |
病没後、穴穂部皇子を推す 物部守屋と 泊 瀬部皇子を支持する 蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して 泊 瀬部皇子( 崇峻天皇)に即位を命じたという |
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587 |
蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、 物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる 聖徳太子だったといわれます |
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587 |
頃、 崇峻天皇が 用 明天皇の後をついで皇位についた。しかし |
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588 |
飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教信仰の祖と言われる 聖徳太子は |
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589/4 |
− 聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる。 |
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589/12 |
−推古天皇が豊浦宮(とゆらみや)で即位する。  |
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591 |
「任那を復興しよう!」と、 日本は 九州の 筑紫へ2万人の兵士を派遣し、その時を伺い始めました(結局 |
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592 |
蘇我馬子の命を受けた東 漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に 崇峻天皇は暗殺されてしまう。この後皇位をめぐって議論がたたかわされ、額田部皇女が推挙されるに至ったが、額田部は再三にわたり固辞したという |
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592 |
即位した豊浦宮(とゆらのみや)や |
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592 |
,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ−「 聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った |
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592 |
崇峻天皇を暗殺し、 欽明天皇の娘で、 敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳) |
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592/12 |
女帝である推古天皇(父は 欽明天皇)が即位しました。時に39歳でした |
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592/12 |
聖徳太子(父は 用 明天皇。推古天皇の甥)が皇太子になりました |
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592/12/8 |
先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、 神功皇后と 飯豊皇女を歴代から除外した場合) |
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593 |
厩戸皇子( 聖徳太子)が推古天皇の摂政となりますが、推古朝の時代には 蘇我馬子と厩戸皇子が国政の主導権を握っていました。 |
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593 |
(推古天皇元年)に 聖徳太子によって建立された 日本最初の官寺。中門,五重塔,金堂,講堂が一直線に並べ回廊が囲む 四天王寺式の伽藍配置が特徴 |
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593 |
摂津 難波の 荒陵( あらはか)に 四天王寺を建立しましたが、崇 仏派・蘇我氏が排 仏派・物部氏に勝利したことによって飛鳥時代の幕が開けたとも言えます。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも言われる 聖徳太子(574‐622)は物部氏との戦争の勝利を 仏に祈願して、『この戦いに勝利すれば、必ず四天王を崇拝する 仏塔(寺社)を作る』という誓いを立てました |
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593 |
難波の地に 四天王寺を建立しています。 |
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593 |
物部守屋との戦いで 仏教に戦勝を祈願して寺社の建立を誓っていた 蘇我馬子が、 日本初の本格的な 仏教寺院となる飛鳥寺(法興寺)を建設しました。飛鳥寺の建設には 朝鮮半島の 百済(くだら)からやってきた渡来人の技術者や 仏僧が活躍したといいますが、当時の 中国(隋・唐)や 朝鮮( 高句麗・ 百済・新羅)は 仏教や学問などが盛んな文明の先進地でした |
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593/4/10 |
甥の厩戸皇子( 聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の 用 明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている |
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593/12/8 |
敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫39歳が豊浦宮で我が国初の女帝として大臣 蘇我馬子ら群臣百官を従え、第33代推古天皇に即位され、飛鳥地方に 宮都が営まれ、 桜井市 池之内の磐余 池上陵(いわれノいけのへノみささぎ)に埋葬されていた太子の父・ 用 明天皇の御遺体を河内磯長陵に改葬しました。 |
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594 |
「三宝興隆の詔」を発布し |
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595 |
来日して政治・仏教の師となった 高句麗の僧・彗慈(えじ)との出会いでした。 |
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597 |
百済の 王子 阿佐が来日して貢し |
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600 |
倭王の使者が洛陽に赴いたという。これは「日本書紀」には書いてないが正確なものならば初の遣隋使となる |
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600 |
新羅(しらぎ)に出兵して 日本に『調(年貢の一種)』を朝貢するという約束を取り付けました。 |
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600 |
も倭国からの使者が来た、と記されています)。 |
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600 |
任那の残存勢力でしょうか、これが新羅と戦ったようで 日本は救援へ。新羅を破ることに成功します |
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601 |
から厩戸皇子が斑鳩の 地域に宮室(斑鳩宮)を造営し始めたとあり、交通・軍事の要衝の地にあった斑鳩宮に |
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602 |
聖徳太子の弟である来目皇子( くめみこ)を将軍とし、2万5000人を新羅遠征軍として派遣することが決定。来目皇子は軍事を担当する大伴氏配下の来目氏による軍事教育を受けており、軍事のエキスパートだったとか |
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602 |
も、同母弟である来目皇子(くるめのおうじ)を将軍とする軍勢2万5千を 九州の筑紫に集めて、新羅への大遠征を計画しましたが来目皇子が急死したために遠征計画は中止されました。摂政の 聖徳太子は最大の豪族である 蘇我馬子と協調路線を取って、国内的には中央集権体制の確立を進め、対外的には主権を持つ独立国の体裁を整えていったのです |
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603 |
都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。飛鳥は、現在の 奈良県 明日香村ですね |
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603 |
以降に執政を行った小墾田宮(おわりだのみや)は正確には飛鳥ではありません。飛鳥地方そのものが蘇我氏の権力基盤であったとも言われていますが、飛鳥時代に造営された都(宮・皇居)には以下のようなものがあります |
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603 |
(推古 |
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604 |
を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇 |
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604 |
聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。 |
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604 |
「憲法十七条※」を制定した。※印はいずれも 聖徳太子によるものだが、とくに「冠位十二階の制」は従来の姓(カバネ)制度を根本から変えるもので画期的なものとして評価が高い |
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605 |
高句麗の大興王は推古朝が丈六の仏像を作るとの話を聞いて黄金320両を送ってきたという。推古天皇は75歳で没し、生前に 厚葬を嫌っていたので竹田皇子の陵の磯長山田陵に合葬された |
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605 |
移り住みました。仏法関連の 聖徳太子の著述としては、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があります |
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607 |
造られた。 |
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607 |
頃には、 聖徳太子が住居を構えた斑鳩( いかるが)に、法隆寺を建立。その名の通り、仏法が隆盛になることを願ったものです |
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607 |
聖徳太子は 小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、 中国の歴史書「隋書」には |
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607 |
遣隋使として隋に派遣された 小野妹子(おののいもこ)の大礼から大徳への昇進があります。冠位十二階によって始まる古代 日本の官位制は、 平城京・ 平安京( 奈良・平安時代)で確立した律令国家(りつりょうこっか)の律令官位制として完成度を高めていくことになります |
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607 |
小野妹子をはじめとする遣隋使(けんずいし)を派遣して、隋( 中国)の先進的な政治制度や文化様式、学問・仏教などを輸入した厩戸皇子ですが、天皇中心の中央集権的な国家整備を進める中で中華文明圏に呑み込まれない独立国の建設に力を尽くしました。厩戸皇子( 聖徳太子)はまた 朝鮮半島に対する積極的な軍事外交も展開しており |
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607 |
斑鳩寺(法隆寺)を建てたことでも知られますが、斑鳩寺(いかるがでら・若草伽藍)の設立年については史跡・遺構による根拠があるわけではありません。『日本書紀』では |
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610 |
隋に攻められたことから、 日本に救援を要請。この時、派遣されてきた曇徴(どんちょう)という僧侶は、儒教の専門家でもあり、さらに彩色、紙、墨の製造法も伝え、飛鳥文化に大きな影響を与えています |
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618 |
隋が滅亡したことをいち早く報告。この時、ラクダも送ったそうですが、当時の人達のインパクトはどんなものだったでしょうか |
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618 |
「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです |
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618/11/30 |
外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として 日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、 小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした |
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620 |
聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが |
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622 |
没し 蘇我馬子は |
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622 |
死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています |
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623 |
蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も 百済、 高句麗、さらには隋の後に 中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます |
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624 |
蘇我氏の本拠地と称する 葛城 県(かずらきのあがた)の割譲を推古天皇に強引に要求します。 葛城 県は天皇の直轄領的な性格を持つ大和六 県の一つだったので、推古天皇は『蘇我氏の出自』を強調しながらも 葛城 県の割譲を拒否しました |
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626 |
で死去しますが、古墳時代末期から権勢を拡大し続けた蘇我氏は、 蘇我馬子‐ 蘇我蝦夷の親子の代で絶頂期に到達します。天皇の外祖父・伯父となることで天皇の権威に及ばんとするほどの絶大な権力を振るった 蘇我馬子は |
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628 |
カテゴリ: 日本の天皇 | 日本の皇后 | 飛鳥・ 奈良時代の皇族 | 奈良県の歴史 | 554年生 | 628年没 |
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628 |
病没しますが、推古天皇の死後には 蘇我蝦夷の妹婿である田村皇子( 舒明天皇)と 聖徳太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が皇位争いで対立します。この時点の皇位の継承は『父子の直系継承』ではなく『群臣推挙による継嗣決定』だったので、推古天皇は自分の後継者を明確に決定することができず、田村皇子と山背大兄皇子の内紛を招きました |
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628/9/20 |
喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は 奈良県 橿原市 五条野の植山古墳とされている |
| 631 |
説採用。 |
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| 668 |
大津 京 で即位するまで、実力者でありながら、何故真のトップにならなかったのは、未だ謎である。天皇が真の政治の中心になるべきであるとした、天武天皇とほぼ同一思想を持っていたことは間違いなかろう |
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| 672 |
壬申の乱で 天智天皇の息子である大友皇子( 弘文天皇)を破る。 |
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| 672 |
天智天皇の崩御後、大海人皇子は鵜野讃良皇女、 草壁皇子、 高市皇子、 大津皇子らと 吉野を脱出して、 天智天皇( 中大兄皇子)の子の大友皇子( 弘文天皇)の 近江 朝廷側と対立した。この対立は、大海人皇子の 吉野側が大友皇子( 弘文天皇)の 近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで 吉野側の勝利に終わった(「 壬申の乱」という) |
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| 673 |
飛鳥浄御原宮で即位した。以後48 称徳天皇まで天武系の王 朝が続いたが、49 光仁天皇は 天智天皇の孫にあたり、血脈は再び天智系に戻った |
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| 673 |
即位して天武天皇となった。天武天皇は、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」をめざし、律令制による中央集権国家の建設に力を注いだ |
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| 673/5 |
官僚機構の整備として畿内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった |
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| 675/5/19 |
いわゆる肉食禁止令で |
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| 676 |
畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は 兵衛として 宮城の 警護の役目を与えた。また天武 |
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| 678 |
(天武天皇 |
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| 679 |
吉野に行幸する。皇后、 草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる( 吉野の盟約) |
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| 680 |
創建された。天武天皇が皇后の病気治癒のために発願したことに始まる |
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| 681 |
それまでの 日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった |
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| 681 |
皇后以下の臣に「飛鳥浄御原律令」の編纂を命じ、さらに「定紀」「旧辞」の再検討を命じた。その一方外交では、新羅との国交は保持したが、唐との国交は断絶した |
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| 681 |
飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。 草壁皇子を皇太子に立てる |
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| 684 |
八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し 新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した |
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| 684 |
「八色の姓」を定めて 朝廷における身分秩序を確立した。さらに、天武 朝に至って天皇の地位の絶対化、神格化がはかられ、「大君は神にし坐せば」で始まる歌が万葉集に収められたが、次第に「現人神(あらひとがみ)」となっていった |
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| 684/10 |
条に「 伊勢王等を遣して、諸国の 堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。 |
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| 686 |
病を得て、改元や誓願のかいもなく没した。 |
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| 686 |
天武天皇死 |
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| 686/2/4 |
役行者は53歳の時、熊野に参詣したが、その際、雄山、紀の川、藤代、 逆川、塩屋、切目等で中臣祓や般若心経等によって魔物や穢れを祓って熊野に達し、また、天武天皇の病気平癒を祈って、僧 道明(どうみょう)が西の岡(本 長谷寺、現在五重塔がある辺り)に 三重塔を建立し、法華説相銅板を安置しましたが |
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| 686/9/9 |
天武天皇が崩御して |
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| 686/10/1 |
漢風諡号、天武天皇は代々の天皇とともに淡海三船により「天は武王を立てて悪しき王( 紂王)を滅ぼした」から名付けられたとされる |
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