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天智天皇(てんちてんのう)

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天智天皇(てんちてんのう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
626 飛鳥で生まれる。即位前は中大兄皇子 情報源のサイトへ
626 天武天皇生年?年。 情報源のサイトへ /001.JPG
630 舒明は姪にあたる宝皇女(後の皇極天皇明天)を皇后として、葛城皇子(後の天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)をもうけ、さらに蘇我馬子の娘法提郎媛との間に古人大兄皇子をもうけた 情報源のサイトへ /jyomei08.jpg /1018-70.jpg /shu1.jpg
645 中臣鎌足とはかり、当時権力を握りつつあった蘇我入鹿を暗殺したことは有名。 情報源のサイトへ /645.jpg /itabuki.jpg /UNI_07851.jpg /ishibutai.jpg
645 大化の改新の際の政変(「乙巳の変(いっしのへん)」)のときに吉野へ逃れ出家したがのちに謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺された。中大兄皇子にとって蘇我本宗家の蘇我入鹿の暗殺に次ぎ、皇位継承の最大のライバルを葬ったことになる 情報源のサイトへ /645.jpg /itabuki.jpg /fo841.jpg
645 での主役としてである。「中大兄皇子」として若干20才の時である 情報源のサイトへ /645.jpg /itabuki.jpg
646 中大兄皇子は、任那の滅亡を認めず、新羅から「任那の調」を取り立てていたのをやめて、新羅の任那領有権を認める代わりに、国王の身代わりとして人質を出させました。その人が金春秋でした 情報源のサイトへ /071020ride_164.jpg /rekisi-minananihonfu.jpg
647 大和政権は現在の新潟県の北部に渟足柵(ぬたりのき)・磐舟柵(いわふねのき)をそれぞれ647年と 情報源のサイトへ
648 設け、蝦夷(えみし)に備えていました。 情報源のサイトへ
651 新羅は、唐に朝貢し、唐朝の礼服・年号を採用して、日本と対抗するようになりました。 情報源のサイトへ
653 中大兄皇子は役人たちをしたがえて、難波宮から再び飛鳥へと強引に遷都します。ひとり難波宮にとり残された形になってしまった孝徳天皇情報源のサイトへ /inabuchi.jpg /0623291.jpg
653/11/30 難波で亡くなってしまいました。 情報源のサイトへ
657 日本は、新羅に使いを出して、共に入唐を勧めましたが、新羅をこれを拒否しました。 情報源のサイトへ
658 阿倍比羅夫は、粛慎を討伐する。 情報源のサイトへ
658 有間皇子(ありまのおうじ)が蘇我赤兄(そがのあかえ)らと結んで反乱を企てたとされ、処刑されました。これを有間皇子の変といいます 情報源のサイトへ /arimamikojin.jpg /arimanomikomatu.jpg /fujishiro1.jpg /iriguti2.jpg
659 新羅は、日本が唐に接近することを妨害しました。その結果、日本の遣唐使である津守連吉祥らは、唐に幽閉されました 情報源のサイトへ
659 阿倍臣は、蝦夷を討伐しました。 情報源のサイトへ
660 百済情報源のサイトへ
660/5 中大兄皇子は、初めて漏剋(水時計)を作りました。 情報源のサイトへ /asukaagain194.jpg /asukaagain199.jpg
660/7 百済は、唐・新羅連合軍に大敗し、国王の義慈王が捕らえられました。 情報源のサイトへ
660/9 百済から2人の重臣が来朝し、「唐・新羅連合軍により百済は滅亡の危機にあったが、鬼室福信が奮闘して持ちこたえている」と報告し、救援軍を要請しました。 情報源のサイトへ
660/10 百済の使者が来朝し、百済の将軍である鬼室福信の伝言を伝えました。それには「日本にいる人質の璋(百済の王子)を帰国させて欲しい」とありました 情報源のサイトへ
660/12 外国遠征は、一国の大事業です。特に大国の唐と交戦するのです 情報源のサイトへ
661 実質的に38天智天皇時代となり、日本はいよいよ律令国家としての体制を整えはじめた。 情報源のサイトへ
661 明天がみずから九州におもむいたのですが、福岡県の朝倉宮(あさくらのみや)で亡くなってしまいます。中大兄皇子は、皇太子の身分のまま、天皇の後継者となり、集めた軍勢を朝鮮半島へと派遣(はけん)しました 情報源のサイトへ /kamechan11.jpg /tenmu_777.jpg
661 明天が崩御したがその後も皇太子のまま(称制)政務をみた。朝鮮半島百済を救援するため斉明朝のときに派遣されていた百済遠征軍を阿倍比羅夫らに命じこれを救援させたが 情報源のサイトへ /kamechan11.jpg /tenmu_777.jpg
661/1/6 中大兄皇子は、百済救援のため、母である明天・弟大海人皇子・大田皇女らと共に、難波津を出兵しました。 情報源のサイトへ /kamechan11.jpg /tenmu_777.jpg
661/1/8 吉備大伯海で、大伯皇女(父は大海人皇子、母は大田皇女)が生まれました。 情報源のサイトへ
661/1/14 一行は、伊予熟田松山市)に着きました。一行は、石湯行宮(今の道後温泉)で長期滞在しました 情報源のサイトへ
661/3/25 一行は、那大津博多)に着き、長津宮に入りました。 情報源のサイトへ
661/5/9 一行は、博多から40キロも内陸の朝倉橘広庭宮に移りました。朝倉宮の造営のために、麻弖良布神社の神木を切り払ったので、朝倉宮に落雷があったり、宮中に鬼火が出たりして、多くの病死者が出ました 情報源のサイトへ
661/7/24 明天(67歳)も、朝倉宮で、病死しました。『日本書紀』には、朝倉山の上に、鬼が大きな笠をつけて、女帝の葬儀の様子を伺っていたと記しています 情報源のサイトへ /kamechan11.jpg /tenmu_777.jpg
661/7/24 中大兄皇子は、皇太子として喪に服したまま、長津宮で戦いの指揮をしました。これを中大兄皇子の称制といいます 情報源のサイトへ
661/8 阿倍比羅夫らを将軍として派遣しました。 情報源のサイトへ
661/10 中大兄皇子は、いったん母である明天の遺体を大和まで運びました。その後、中大兄皇子は、大宰府に明天を追悼するため観世音寺の建立を発願しました 情報源のサイトへ /kamechan11.jpg /tenmu_777.jpg
662/1 鬼室福信に兵器・兵糧を与えました。 情報源のサイトへ
662/5 阿倍比羅夫は、1万の兵と170隻を率いて、王子の扶余豊璋を百済に護送しました。豊璋が王位につきました 情報源のサイトへ
663/3 上毛野稚子ら3軍の将は、2万7000の兵を率いて、朝鮮に出兵しました。 情報源のサイトへ
663/8 新羅は、豊璋王が良将鬼室福信を斬ったことを知り、直ちに攻め入りました。豊璋王は、「日本の救援軍が来るまでここ留城で耐えよ 情報源のサイトへ
663/8/27 日本百済連合軍4万人・400隻は、鬼室福信暗殺事件により白村江への到着が遅れました。しかし、準備もせぬまま「我ら先を争わば、彼自づからに退くべし」と待機している唐・新羅連合軍めがけて突撃しました 情報源のサイトへ
663/8/28 唐の水軍170隻に挟撃された日本水軍の400隻は、炎上してしまいました。朝鮮の『三国史記』は「日本百済の船は火災につつまれて次々と沈没し、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まった」と記述しています 情報源のサイトへ
663/8/28 王子の扶餘忠勝・忠志らが降服しました。 情報源のサイトへ
663/9 24、日本軍は、百済の王族や大量の遺民と共に帰国しました。その中には、鬼室福信の子である鬼室集斯もいました 情報源のサイトへ
663/9/7 百済留城が陥落し、百済は滅亡しました。日本の友好国がついになくなったのです 情報源のサイトへ
663/11/30 対馬壱岐に防人・烽火、筑紫に水城を設置しました。 情報源のサイトへ
664 死去している事や、子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。 情報源のサイトへ
664/2 部曲を復活させて、氏上・民部・家部を設定しました。 情報源のサイトへ
664/5 唐使の郭務宗らが来朝しました。 情報源のサイトへ
664/11/30 守大石らを唐に派遣しました。 情報源のサイトへ
665/8 筑紫に大野城や基肄城、長門に朝鮮式の山城(長門城)を築きました。 情報源のサイトへ
665/9 唐使の劉徳高らが来朝しました。 情報源のサイトへ
667 大津へ遷都してそこで即位した 情報源のサイトへ
667 中大兄皇子は、都を近江(おうみ)の国、つまり現在の滋賀県に移します。大津宮(おおつのみや)あるいは大津京(おおつきょう)といいます 情報源のサイトへ /02onojoato03.jpg /06_small.jpg
667 頃)母を失う。 情報源のサイトへ
667 大和の飛鳥から近江大津に遷都し 情報源のサイトへ /02onojoato03.jpg /06_small.jpg
667/11 大和に高安城讃岐屋島城対馬に金田城を築きました。 情報源のサイトへ
667/11 遣唐使境部石積らが帰国しました。 情報源のサイトへ
667/11/30 即位し、天智天皇となった。大津京時代、庚午年籍(日本最初の戸籍)の作成や時を告げる漏刻の設置で知られる 情報源のサイトへ
667/11/30 大津に都を移した翌年 情報源のサイトへ
668 天智天皇の后となる。 結婚はこれ以前いつかは不明 情報源のサイトへ
668 白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した 情報源のサイトへ
668 中大兄皇子は正式に即位し、天智天皇(てんじてんのう)となりました。記録によれば、即位の年、中臣鎌足に命じて編修(へんしゅう)させていた近江令(おうみりょう)が完成したと言われています 情報源のサイトへ
668 38天智天皇即位までの20数年間の行動は何だったのであろうか。この間に多くの后妃(10名)を娶り17名(5皇子・12皇女)もの子供をもうけた 情報源のサイトへ
668 天智天皇即位。この祝宴の時長槍で敷板を刺し抜き天皇激高するが、鎌足のとりなしで事なきをえた 情報源のサイトへ
668 即位して天智天皇となった。皇后には古人大兄皇子の遺児倭姫とした 情報源のサイトへ
668/10 唐・新羅連合軍は、朝鮮北部の高句麗を滅ぼしました。 情報源のサイトへ
668/11/30 河内鯨らを唐に派遣しました。 情報源のサイトへ
669 ことでした。 情報源のサイトへ /n-kamatari.jpg /02.jpg
669 中大兄皇子の補佐をし政策全般にわたって関与し、「白村江の戦い」で敗れて緊迫した国内情勢を引締め、大化の改新を推進し律令制の基礎を築いた中臣鎌足が死去した。この臨終のとき天智天皇は大織冠を賜え藤原姓を名乗ることを許した 情報源のサイトへ /tsushima2.jpg /hakusuki_war.jpg
669/10/15 天智天皇は、中臣鎌足に大織冠を授け、藤原の姓を与えました。 情報源のサイトへ /n-kamatari.jpg /02.jpg
670 我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成させている。 情報源のサイトへ /U1080P326T1D1217F4DT20041207152925.jpg /07.03.23%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E6%94%B9%E9%9D%A9001.jpg
670 作成された。天智の晩年に皇位につくことを迫られたといわれる同母弟の大海人皇子が吉野に出家するなど「壬申の乱」が芽生えていた 情報源のサイトへ /%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1.jpg /21362af2170019053_1.jpg
670 日本で最初の全国的な戸籍(こせき)が完成しました。これを庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます 情報源のサイトへ
671 38天智天皇の没後近江朝廷の主となった。 情報源のサイトへ
671 (天智天皇 情報源のサイトへ
671 じられ、息子の大友皇子(明治以後39弘文天皇)がそれを継ごうとしたが、ここで天智天皇の弟である大海人皇子が蜂起して、「壬申の乱」が勃発した。 情報源のサイトへ /image3.jpg /39b.JPG
671 近江大津宮にて崩御する。 情報源のサイトへ
671 同母弟で皇位継承の最有力候補だった大海人皇子を病床に召し、後事を託す。しかし、大海人は、次々と皇位継承者を謀殺してきた 天智天皇の本心を見抜き、怖れ、これを固辞して、自らは吉野に出家隠遁 情報源のサイトへ
671/1 大友皇子を太政大臣とし、5人の重臣を大臣・御史大夫を任命しました。この時、蘇我赤兄が左大臣に抜擢されました 情報源のサイトへ
671/1 日本で最初の令である近江令を発布しました。 情報源のサイトへ
671/4 漏剋を置き、初めて鐘・鼓を以て時刻を知らせました。 情報源のサイトへ
671/10 天智天皇は、大海人皇子を病床に呼んで後事を託しました。大海人皇子は、病弱を理由に固辞し、大后(倭姫)への譲位と大友皇子の執政を提言して、出家の許可を求めました 情報源のサイトへ
671/11/30 壬申の乱が勃発し、大津京は廃絶した。 情報源のサイトへ /%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1.jpg /21362af2170019053_1.jpg
671/12 天智天皇が亡くなりました。時に46歳でした 情報源のサイトへ
672 天智天皇のあとつぎをめぐり、壬申の乱(じんしんのらん)がおこる。 情報源のサイトへ /%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1.jpg /21362af2170019053_1.jpg
672 カテゴリ: 日本の天皇 | 万葉歌人 | 小倉百人一首の歌人 | 飛鳥・奈良時代の皇族 | 奈良県の歴史 | 滋賀県の歴史 | 626年生 | 672年没 情報源のサイトへ
672 おこった、叔父・甥のあいだの皇位継承をめぐる内乱は何か。 情報源のサイトへ

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