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大江広元(おおえのひろもと)

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年月日 できごと 写真
1148 京都にて誕生。中原氏を称する 情報源のサイトへ
1168/12/13 縫殿允に任官。 情報源のサイトへ
1170/12/5 権少外記に遷任。 情報源のサイトへ
1173/1/5 従五位下に叙位。 情報源のサイトへ
1183 広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くに京を離れ頼朝に従っており、1183年 情報源のサイトへ /p09_s.jpg
1183/4/9 従五位上に昇叙。 情報源のサイトへ
1183/10 源義経の軍勢と共に上洛し、翌 情報源のサイトへ /kongourinji_myoujyuin.jpg /p09_s.jpg
1184 財政や書類作成などの一般政務を管轄する公文所(政所)を設置し、別当には大江広元、構成員たる寄人[よりゅうど]には大江広元の義兄の中原親能を任命した。最後に、民事訴訟の裁判事務を司る問注所は、法曹吏僚出身の三善康信が長官たる執事に就任して発足した 情報源のサイトへ
1184 広元も頼朝も鎌倉へ下り、政所の前身である公文所別当となる。更に頼朝が二品右大将となって政所を開設してからは、その別当として朝廷との交渉その他に実務家として活躍する 情報源のサイトへ
1184/9/17 因幡守に任官。 情報源のサイトへ
1185 での要求は源義経・源行家の捜索・追捕を名目とした一国単位の「国地頭」と「総追捕使」であって、室町時代にまで繋がる守護職の発端は 情報源のサイトへ /04.jpg /shizuka.jpg
1185/4/3 正五位下に昇叙。因幡守如元 情報源のサイトへ
1185/4/27 源頼朝公卿に列するに伴い、公文所を政所と改め、引き続き別当留任(異説として公文所・政所の両所並存・別当兼務説がある)。 情報源のサイトへ /010407zeniarai2.jpg /zen7.jpg
1185/5/24 兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。 情報源のサイトへ
1185/11/12 条により、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるとよく言われ、研究者の間でも古くはそう理解されてきた。しかし 情報源のサイトへ
1190 頼朝が初めて上京し、後白河法皇や九条兼実らと合意した「諸国守護」を奉行する権限にあるとされている[2]。 情報源のサイトへ
1191/4/1 明法博士兼左衛門大尉に任官。検非違使にも補任 情報源のサイトへ
1192/2/21 検非違使・左衛門大尉両官職辞職辞任。 情報源のサイトへ
1196/1/28 兵庫頭に任官。 情報源のサイトへ
1199 頼朝の死後は、北条義時北条政子と協調して幕政に参与する。承久の乱のときも、長男大江親が官軍側につき、親子相克するが、『吾妻鏡』では元はあくまで幕府軍の側に立って朝廷との一戦に慎重な御家人を鼓舞、主戦論を唱えた北条政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとされる 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg /WeFVXqav.jpg
1199 落馬して死去した。後継者の源頼家は、御家人である工藤行光が誇る屈強な家来を自分の直属にしようとして断られる程度の人物であったため、有力御家人の北条時政北条義時・和田義盛・梶原景時・比企能員[ひきよしかず]・三浦義澄、官僚の大江広元・三善康信・中原親能、それに安達盛長・足立遠元・八田知家・藤原行政(二階堂行政)らは将軍独裁体制を廃止し、自分たち十三人の合議制で幕政を執ることを決定した 情報源のサイトへ /038-13.JPG /20060928_229262.jpg /hiraizumi06.jpg
1199/12/9 掃部頭に遷任。 情報源のサイトへ
1200/5 大膳大夫に転任。 情報源のサイトへ
1203 大膳大夫辞任。 情報源のサイトへ
1206 鎌倉幕府政所別当辞職。 情報源のサイトへ
1213/1/5 従四位上昇叙。 情報源のサイトへ
1213/5/3 条及び「醍醐寺文書」所収 情報源のサイトへ
1216 である。極官は正四位下陸奥守 情報源のサイトへ
1216 (健保4)に従五位下に叙爵、32歳のとき『吾妻鏡』 情報源のサイトへ
1216 当初は中原広元(なかはら の ひろもと)と呼ばれる。大江姓に改めたのはかなり遅く1216年 情報源のサイトへ
1216/1/27 陸奥守に任官。 情報源のサイトへ
1216/2/15 関東下知状案(『鎌倉遺文』2210号)。 情報源のサイトへ
1216/6/1 大江の氏に改めるに付き、朝廷認可。 情報源のサイトへ
1216/8 鎌倉幕府政所別当に復職。 情報源のサイトへ
1217/11/10 陸奥守辞任。出家し覚阿を号する 情報源のサイトへ
1221/5/15 北条義時追討の院宣と宣旨を下し、鳥羽離宮にある城南寺[せいなんじ]に北面の武士や西面の武士(新設)を集結させた後、朝臣の藤原秀康・藤原秀能兄弟に命じて手初めに守護の伊賀光季[いがみつすえ]に誅伐を加えた。後鳥羽上皇の予想では、幕府の御家人たちは朝敵になることを恐れて崩壊する筈だったが、御家人は識字者が藤田三郎らごく僅かしかいない無知蒙昧な輩だった上、北条政子や大江広元らの煽動で結束したため、19万と言われる大軍が北条泰時北条義時の子)と北条時房(北条義時の弟)に率いられを目指した 情報源のサイトへ /C0215.10.jpg /yumi.jpg /medieval1.jpg /ishigaki.jpg
1224 北条義時死去の後、政界では北条義時の後妻の伊賀ノ方が政所執事である兄の伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を将軍、自身の子の北条政を執権にそれぞれ就け、実権を掌握しようとする伊賀氏の陰謀事件が発生した。こうした政情不安を打開するべく、北条政子と大江広元は都から北条泰時と北条時房を召喚し、北条泰時を執権に就任させた 情報源のサイトへ /epil856150000000.jpg /epil856149000000.jpg
1225 カテゴリ: 平安時代の人物 | 鎌倉時代の人物 | 大江氏 | 1148年生 | 1225年没 情報源のサイトへ
1225 大江広元や北条政子が相次いで没し世代交代が進み、北条泰時はそれまでの大倉御所に代わって若宮大路の宇都宮辻子[うつのみやずし](若宮御所)に幕府を移転させ、率先して政務を執った。北条泰時は訴訟・政務の最高合議機関として有力御家人11人(後に15人程度)からなる評定衆を設置し、独裁を廃して合議制による公平裁定を目指した 情報源のサイトへ /DSCF0012.JPG /syokok2.jpg /u_zushi1.jpg /779.jpg
1225/6/10 入寂。享年78 情報源のサイトへ
1225/7/16 平安時代末期、鎌倉時代初期の実務官僚。鎌倉幕府の政所初代別当(長官) 情報源のサイトへ

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