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大友宗麟(おおともそうりん)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1530 |
大友宗麟 |
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| 1530 |
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| 1530/1/3 |
大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれる。守役は重臣 |
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| 1550 |
弟塩 |
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| 1550 |
第21代:1550年 -
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| 1550/2 |
義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし
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| 1550/2/10 |
塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して
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| 1550/2/12 |
死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった
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| 1551 |
キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年
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| 1551 |
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| 1551 |
フラン |
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| 1551 |
周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴 |
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| 1551/11 |
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| 1553 |
一萬田鑑相
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| 1554 |
菊池氏を滅亡させて |
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| 1554 |
また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年
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| 1554/11/30 |
宣教師アルメイダが二度目の来日を果たし、豊後府内に大友宗麟の許可を得て |
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| 1556 |
小原鑑元が謀反を起こすなど( |
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| 1557 |
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| 1557 |
義長が |
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| 1557 |
さらに弘治3年
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| 1559 |
室町幕府第13代将軍・ |
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| 1559 |
将軍 |
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| 1559/6 |
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| 1559/11 |
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| 1560 |
左衛門督に任官する(これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。この事から |
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| 1562 |
出家し休庵宗麟と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け
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| 1563 |
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| 1563 |
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| 1567 |
重臣高橋鑑種が |
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| 1567 |
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| 1568/7 |
3万5000の兵を率いて |
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| 1569 |
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| 1570 |
再度 |
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| 1571 |
将軍 |
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| 1575 |
大友宗麟がイエズス会ジョアン・カブラルを招聘し息子義統に洗礼させる。
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| 1576 |
家督を長男の大友義統に譲って |
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| 1577 |
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| 1577 |
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| 1578 |
キリスト教に入信、 |
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| 1578 |
かけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、 |
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| 1578 |
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| 1578 |
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| 1578/7 |
キリスト教の洗礼を受け、 |
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| 1578/9 |
同年9月〜
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| 1578/11 |
かけて |
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| 1579 |
頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの |
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| 1579 |
家督を嫡子義統にゆずる。
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| 1579/7 |
宗麟は宣教師のフラン |
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| 1580 |
領内にコレジオ・セメナリオ(神学校)などを設立。
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| 1581 |
すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・ |
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| 1581 |
当時の天下人・ |
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| 1582 |
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| 1582/1/28 |
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らがロ−マ法王に使節を派遣する。( |
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| 1584 |
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| 1585 |
道雪が病死してしまい、これを好機と見た義久の北上が始まることとなる。
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| 1586 |
このため |
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| 1586 |
宗麟は中央で統一政策を進める |
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| 1586/12 |
島津家久軍が |
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| 1587 |
秀吉は自ら兵を率いて |
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| 1587 |
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| 1587 |
津久見で没。
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