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大友宗麟(おおともそうりん)

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大友宗麟(おおともそうりん)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1530 大友宗麟上杉謙信  情報源のサイトへ /kenshin.jpg /Pb170126_1.jpg
1530 静岡市真珠院3世大仲霊乗大和尚によって曹洞宗として開山された 大友宗麟・誕生 情報源のサイトへ
1530/1/3 大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれる。守役は重臣入田親誠が務めた 情報源のサイトへ
1550 弟塩市丸の方を義鑑がかわいがっていたため、家督が弟に譲られる可能性が大きかった。しかし、義鑑の家臣 情報源のサイトへ
1550 第21代:1550年 - 情報源のサイトへ
1550/2 義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし 情報源のサイトへ
1550/2/10 塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して 情報源のサイトへ
1550/2/12 死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった 情報源のサイトへ
1551 キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年 情報源のサイトへ
1551 豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。 情報源のサイトへ /tanegashima-020.jpg /01xavier.JPG
1551 フランシスコ=ザビエルを招き、布教を許可する。その後、キリスト教を保護し、ポルトガル、明と貿易を行う 情報源のサイトへ /tanegashima-020.jpg /01xavier.JPG
1551 周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した 情報源のサイトへ
1551/11 インドに向かう。日本と永遠の別れとなる船出となった 情報源のサイトへ
1553 一萬田鑑相 情報源のサイトへ
1554 菊池氏を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて 情報源のサイトへ
1554 また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年 情報源のサイトへ
1554/11/30 宣教師アルメイダが二度目の来日を果たし、豊後府内に大友宗麟の許可を得て日本における「保育所の発祥」とも言うべき「育児院」を建てた。 情報源のサイトへ
1556 小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。 情報源のサイトへ
1557 筑前の反大友勢力、秋月文種を討つ。 情報源のサイトへ
1557 義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。毛利元就北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、元就と内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した 情報源のサイトへ /sue_nagahusa.jpg /ha_gaiyou_s_10_z.jpg /ootiyositaka1.jpg /04_cut02.jpg
1557 さらに弘治3年 情報源のサイトへ
1559 室町幕府第13代将軍・足利義輝に多大な献金運動をして 情報源のサイトへ /25.jpg /010106.jpg
1559 将軍足利義輝から豊前筑前守護に補任される。その後、毛利元就豊前筑前2国を争う 情報源のサイトへ /9syu4.jpg /map4.jpg
1559/6 豊前国筑前国の守護に任ぜられ 情報源のサイトへ
1559/11 九州探題に補任された。 情報源のサイトへ
1560 左衛門督に任官する(これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。この事から足利将軍家に多大な献金を行っていた事と、その信頼を受けていた事が察する事ができる) 情報源のサイトへ
1562 出家し休庵宗麟と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け 情報源のサイトへ
1563 足利義輝の相伴衆に任ぜられ後に毛利氏との和睦交渉などにも将軍家の調停を依頼するなど関係は密であった。 情報源のサイトへ /hyakusaiji2.jpg
1563 豊前国臼杵丹生島臼杵城を築き、府内に移る。 情報源のサイトへ
1567 重臣高橋鑑種が毛利元就と結ぶ。その後それまで戦っていた肥前の竜造寺隆信と講和する 情報源のサイトへ /34_13.jpg /matu(CGK)10201.jpg
1567 豊前筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、義鎮は立花道雪らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で義鎮は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である 情報源のサイトへ /34_13.jpg /matu(CGK)10201.jpg
1568/7 3万5000の兵を率いて筑前へ進み、毛利氏と内応していた立花鑑載の拠る立花城を攻め落とす。 情報源のサイトへ
1569 肥前で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、毛利元就を安芸に撤退へと追い込んだ 情報源のサイトへ /kokura_jo1.jpg
1570 再度肥前に侵攻するが今山の戦い龍造寺隆信に弟の親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。その後も筑後や肥前の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった 情報源のサイトへ /061017_06.JPG /beki_sen.jpg
1571 将軍足利義昭のとりなしで毛利氏と和睦。 情報源のサイトへ /dorui.jpg /hie-3.JPG
1575 大友宗麟がイエズス会ジョアン・カブラルを招聘し息子義統に洗礼させる。 情報源のサイトへ
1576 家督を長男の大友義統に譲って丹生島城へ隠居する。このときから義統と二元政治を開始した 情報源のサイトへ
1577 薩摩島津義久が日向侵攻を開始すると、義鎮も大軍を率いて出陣した(これに関しては以下後述)。しかし 情報源のサイトへ
1577 耳川の戦いは、宗麟主導のもとでキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争とされることが多い。しかし天正5年 情報源のサイトへ /mimikawa.jpg /talajobanner.jpg
1578 キリスト教に入信、臼杵の教会でイエズス会副管長カブラルについて受洗。 情報源のサイトへ
1578 かけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、耳川の戦いは宗麟ではなく義統主導によるものだったのではないかとも言われている 情報源のサイトへ /mimikawa.jpg /talajobanner.jpg
1578 島津義久耳川の戦いで大友宗麟を破る 上杉景信上杉謙信蒲池鑑盛肝付兼盛高坂昌信佐伯惟教土持親成北条氏繁山中正盛 情報源のサイトへ /uesugi_kenshin.jpg /kenshin.jpg /mimikawa.jpg /talajobanner.jpg
1578 耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。さらに 情報源のサイトへ /mimikawa.jpg /talajobanner.jpg
1578/7 キリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う 情報源のサイトへ
1578/9 同年9月〜 情報源のサイトへ
1578/11 かけて島津義久の主力とが耳川を挟んで対峙し、戦いとなり、大友軍は斉藤鎮実をはじめとする、武将が 情報源のサイトへ /20.jpg /his_04.jpg
1579 頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の 情報源のサイトへ /mimikawa.jpg /talajobanner.jpg
1579 家督を嫡子義統にゆずる。 情報源のサイトへ
1579/7 宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている 情報源のサイトへ
1580 領内にコレジオ・セメナリオ(神学校)などを設立。 情報源のサイトへ
1581 すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職を得、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年 情報源のサイトへ
1581 当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕には特に秀でていた。 情報源のサイトへ /img972.jpg /img973.jpg
1582 九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している(ただし、この件を義鎮本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照) 情報源のサイトへ
1582/1/28 大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らがロ−マ法王に使節を派遣する。( 天正少年遺使節 ) 情報源のサイトへ
1584 沖田畷の戦いで隆信が島津軍に敗死すると立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回したものの 情報源のサイトへ /sm_head.jpg /ryu_rogo.jpg
1585 道雪が病死してしまい、これを好機と見た義久の北上が始まることとなる。 情報源のサイトへ
1586 このため天正14年 情報源のサイトへ
1586 宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請する。しかし義久はその後も大友領へ侵攻し 情報源のサイトへ /592.jpg /20080602-19910320-2-026.jpg
1586/12 島津家久軍が戸次の戦いで大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。このとき、臼杵城丹生島城)に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲のこと 情報源のサイトへ
1587 秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した 情報源のサイトへ
1587 豊臣秀吉島津義久を降して九州を平定する豊臣秀吉関東以東に無事令を発する 姉小路頼綱頴娃久虎大友宗麟大村純忠吉川元長猿渡信光島津家久伊達実元北条綱成和仁親実 情報源のサイトへ /pic-18-8-17-12.jpg /taiheiji2.jpg /b0063958_22494646.jpg /azemati33.jpg
1587 津久見で没。 情報源のサイトへ

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