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大久保利通(おおくぼとしみち)
| 生没 | 1830年~1878年 | カテゴリ | 幕末の人物 明治時代の人物 政治家・官僚 |
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| 主なできごと |
1830年 芹沢鴨・大久保利通が誕生 1859年 長崎に訪れ、後の明治政府の高官となる多くの人... 1867年 (1867) 1867年 明治政府が成立した慶応三年 1877年 付書簡)。そして、西南戦争が始まる前に西郷が... |
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| ライバルや仲間 |
西郷隆盛
木戸孝允 伊藤博文 岩倉具視 大隈重信 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1830 |
薩摩高麗町の下級武士の家に生まれた。生まれて間もなく下加治屋町に移った
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| 1830 |
芹沢鴨・ |
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| 1830/8/10 |
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日
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| 1846 |
17歳のとき藩の記録所書役助として出仕。
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| 1850 |
お由羅騒動( |
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| 1850 |
父次右衛門が「お由良騒動」(または「高崎崩れ」。薩摩藩の家督相続争い
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| 1853 |
藩記録所御蔵役として復職する。
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| 1854 |
復職した。その後西郷らと結び改革派の中心となった
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| 1854 |
しかし、 |
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| 1857 |
徒目付になる。精忠組の領袖として活動し
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| 1858 |
斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に親友・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる
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| 1859 |
尊攘派同志と脱藩義挙を企てたが未遂に終った。これをきっかけに藩政実力者の |
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| 1859 |
長崎に訪れ、後の明治政府の高官となる多くの人材を育てました。この時の門下生には、 |
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| 1861 |
御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる[1]。
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| 1861 |
小納戸に抜擢され藩政に参与し、次いで小納戸頭取・側役に進んだ。寺田屋事変、 |
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| 1862 |
御小納戸頭取に昇進となる。
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| 1862 |
久光の公武合体・ |
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| 1862/4 |
京都・伏見で寺田屋騒動が起ったとき、利通は久光側近にいて発言力も強くなっていたが、その発言力を利用しようとはしなかった。殺されたり処刑されたりした者の大部分が、かつて西郷とともに尊攘下士グループとして組織した「精忠組」の同志だったのである
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| 1863 |
御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する[2]。
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| 1866 |
長州の |
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| 1867 |
(1867)
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| 1867 |
江戸幕府将軍・ |
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| 1867 |
王政復古、薩長両藩への討幕の密勅降下、王政復古の大号令などの過程で |
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| 1867 |
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| 1867/12 |
王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める
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| 1868 |
参与、翌
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| 1868/6/11 |
従四位(辞退)
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| 1869 |
参議となった。
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| 1869/7/10 |
従三位、永世賞典禄1,800石
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| 1869/8/29 |
参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
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| 1870/10 |
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| 1871 |
大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、 |
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| 1871 |
(1871)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ
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| 1871 |
(1871)特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握
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| 1871/6 |
大蔵卿となり内政確立をめざすが
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| 1871/7/29 |
から
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| 1871/8/14 |
まで太政官枢密権大史に移されている。だが、渋沢ら排除した旧幕臣官僚の代わりとして大久保が推挙した人材中、財政を理解できたのは |
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| 1871/10/30 |
史より)
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| 1871/11 |
岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる
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| 1873 |
政変にて失脚させた。
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| 1873 |
内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した
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| 1873 |
帰国すると、内治優先を唱え、征韓反対を強く主張して年来の友西郷と決裂した。征韓派参議辞職後、内務卿を兼ね政府の中心となり、産業化を推進すること(殖産興業)の決定的重要性を深く自覚し、その条件整備に専念した
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| 1874 |
をためらわなかった。殖産興業をすすめるとともに、 |
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| 1874 |
台湾出兵を行い
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| 1874 |
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| 1874/9/14 |
戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡った。交渉の末
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| 1874/10/31 |
清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。
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| 1877 |
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| 1877 |
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| 1877/2/7 |
付書簡)。そして、 |
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| 1877/7 |
帰朝、憲法制定を建言した。西郷らの征韓論には |
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| 1877/8/18 |
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| 1878 |
まで、大久保を中心とした政権だったため、一般的に「大久保政権」と言われている。 当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された
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| 1878 |
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| 1878 |
また、明治十一年
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| 1878 |
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| 1878 |
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| 1878 |
紀尾井坂にて隆盛を崇拝する石川県士族・島田一良、長連豪らに襲われて暗殺された。襲われたとき利通は馬車の中で、訣別した盟友・隆盛の手紙を読んでいたという
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| 1878/5/14 |
石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された( |
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| 1878/5/14 |
(1830~1878)
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| 1878/5/14 |
(満47歳没)
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