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大久保利通(おおくぼとしみち)

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大久保利通(おおくぼとしみち)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1830 薩摩高麗町の下級武士の家に生まれた。生まれて間もなく下加治屋町に移った 情報源のサイトへ
1830 芹沢鴨・大久保利通が誕生 情報源のサイトへ /20061112220541.jpg /20061112215206.jpg
1830/8/10 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日 情報源のサイトへ
1846 17歳のとき藩の記録所書役助として出仕。 情報源のサイトへ
1850 お由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると 情報源のサイトへ
1850 父次右衛門が「お由良騒動」(または「高崎崩れ」。薩摩藩の家督相続争い 情報源のサイトへ
1853 藩記録所御蔵役として復職する。 情報源のサイトへ
1854 復職した。その後西郷らと結び改革派の中心となった 情報源のサイトへ
1854 しかし、島津斉彬が藩主となった安政元年 情報源のサイトへ /DSCF00061.jpg /070916_12570001_2.jpg
1857 徒目付になる。精忠組の領袖として活動し 情報源のサイトへ
1858 斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に親友・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる 情報源のサイトへ
1859 尊攘派同志と脱藩義挙を企てたが未遂に終った。これをきっかけに藩政実力者の島津久光(藩主島津茂久の実父)に接近,尊攘派から公武合体派に転向した 情報源のサイトへ
1859 長崎に訪れ、後の明治政府の高官となる多くの人材を育てました。この時の門下生には、大隈重信伊藤博文・大久保利通などがいました 情報源のサイトへ /20060127_122220.jpg /photo_10_1.jpg
1861 御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる[1]。 情報源のサイトへ
1861 小納戸に抜擢され藩政に参与し、次いで小納戸頭取・側役に進んだ。寺田屋事変、生麦事件薩英戦争禁門の変から第一次長州征伐へと進むなかで幕府の実体を知り、西郷と共に長州と和解して提携し、反幕派の形成を進めた 情報源のサイトへ /p_02.jpg /p067.jpg
1862 御小納戸頭取に昇進となる。 情報源のサイトへ
1862 久光の公武合体・幕政改革の企てに参画し,一橋慶喜を将軍後見職,松平慶永を政事総裁職に就けるのに成功した。 情報源のサイトへ /terms_tenpou.jpg /nihonshi23-14.jpg
1862/4 京都・伏見で寺田屋騒動が起ったとき、利通は久光側近にいて発言力も強くなっていたが、その発言力を利用しようとはしなかった。殺されたり処刑されたりした者の大部分が、かつて西郷とともに尊攘下士グループとして組織した「精忠組」の同志だったのである 情報源のサイトへ
1863 御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する[2]。 情報源のサイトへ
1866 長州の木戸孝允らと薩長連合を結んだ。土佐藩との間で「薩土盟約」を結ぶが、木戸孝允がそれを筆録した「議定盟約」が本館の維新資料に含まれている 情報源のサイトへ
1867 (1867) 情報源のサイトへ /4140018089.jpg /shungaku.jpg
1867 江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、王政復古のクーデターを計画して実行した(小御所会議)。 情報源のサイトへ /top_img_03.jpg /top_img_01.jpg /img67d59bafzik5zj.jpeg /20070407_299671.jpg
1867 王政復古、薩長両藩への討幕の密勅降下、王政復古の大号令などの過程で岩倉具視と結んで討幕への動きに指導的な役割を果した。 情報源のサイトへ /051125tomomi6.JPG /cryp-thumb-86xauto.jpg
1867 明治政府が成立した慶応三年 情報源のサイトへ /title.jpg /photo02.jpg
1867/12 王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める 情報源のサイトへ
1868 参与、翌 情報源のサイトへ
1868/6/11 従四位(辞退) 情報源のサイトへ
1869 参議となった。 情報源のサイトへ
1869/7/10 従三位、永世賞典禄1,800石 情報源のサイトへ
1869/8/29 参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。 情報源のサイトへ
1870/10 三条実美宛覚書)。渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている[3] 情報源のサイトへ /afsec.jpg /20070802114955.JPG
1871 大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛板垣退助ら征韓派と対立し 情報源のサイトへ /061121-3.jpg /061121-4.jpg /fuuo.jpg /040322.DSCF0084.JPG
1871 (1871)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ 情報源のサイトへ
1871 (1871)特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握 情報源のサイトへ
1871/6 大蔵卿となり内政確立をめざすが 情報源のサイトへ
1871/7/29 から 情報源のサイトへ
1871/8/14 まで太政官枢密権大史に移されている。だが、渋沢ら排除した旧幕臣官僚の代わりとして大久保が推挙した人材中、財政を理解できたのは松方正義のみだったために、仕方なく呼び戻されたと言う 情報源のサイトへ
1871/10/30 史より) 情報源のサイトへ /350px-Iwakura_mission.jpg /R0014425.JPG /18.jpg
1871/11 岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる 情報源のサイトへ
1873 政変にて失脚させた。 情報源のサイトへ
1873 内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した 情報源のサイトへ
1873 帰国すると、内治優先を唱え、征韓反対を強く主張して年来の友西郷と決裂した。征韓派参議辞職後、内務卿を兼ね政府の中心となり、産業化を推進すること(殖産興業)の決定的重要性を深く自覚し、その条件整備に専念した 情報源のサイトへ
1874 をためらわなかった。殖産興業をすすめるとともに、自由民権運動、士族の叛乱、百姓一揆の続くなかで専制的な支配を強めながら、同 情報源のサイトへ /minken.jpg /minken_4.jpg
1874 台湾出兵を行い 情報源のサイトへ
1874 佐賀の乱から同 情報源のサイトへ /hizen01.jpg /4882981521.jpg
1874/9/14 戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡った。交渉の末 情報源のサイトへ
1874/10/31 清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。 情報源のサイトへ
1877 西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg
1877 西南戦争に至る事件処置に挺身した。 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg
1877/2/7 付書簡)。そして、西南戦争が始まる前に西郷が参加していることが分かると、西郷に会うために、鹿児島へ行くことを希望したという 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg
1877/7 帰朝、憲法制定を建言した。西郷らの征韓論には岩倉具視・大久保利通らと共に反対した 情報源のサイトへ /photo_kido.jpg
1877/8/18 政変以後参預会議を成功させることに努め、また幕政改革に尽力し、さらに慶永の京都守護職辞任問題の解決に当った。その後対立を深める幕府と薩摩藩との間に立つ慶永を助け、老中小笠原長行・永井尚志・原市之進、薩摩藩小松帯刀・大久保利通らの間を奔走し、長州再征の不可を論じた 情報源のサイトへ
1878 まで、大久保を中心とした政権だったため、一般的に「大久保政権」と言われている。 当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された 情報源のサイトへ
1878 カテゴリ: 幕末維新側人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 薩摩国の人物 | 鹿児島県出身の人物 | 鹿児島県の政治家 | 鹿児島県の歴史 | 西南戦争 | 暗殺された人物 | 銅像 | 1830年生 | 1878年没 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg
1878 また、明治十一年 情報源のサイトへ
1878 黒田清隆がその妻を惨殺するという事件が起った。清隆は名うての酒乱で妻を惨殺した 情報源のサイトへ /04100208.DSCF0140.JPG
1878 大久保利通が死亡 情報源のサイトへ /047-s-shimoyama-1.jpg /047-s-shimoyama-2.jpg
1878 紀尾井坂にて隆盛を崇拝する石川県士族・島田一良、長連豪らに襲われて暗殺された。襲われたとき利通は馬車の中で、訣別した盟友・隆盛の手紙を読んでいたという 情報源のサイトへ
1878/5/14 石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園 情報源のサイトへ /aitouhi.jpg /seta-a1.jpg
1878/5/14 (1830~1878) 情報源のサイトへ
1878/5/14 (満47歳没) 情報源のサイトへ

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