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夏目漱石(なつめそうせき)
| 生没 | 1867年~1916年 | カテゴリ | 明治時代の人物 芸術家・思想家 作家 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1867年 夏目漱石(1867年1月5日〜 1867年 夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日 1902年 正岡子規没(享年36)。 1903年 三女栄子誕生。 1908年 次男伸六誕生 |
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| ライバルや仲間 |
正岡子規
森鴎外 太宰治 宮本武蔵 福沢諭吉 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1867/1/5 |
夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日
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| 1867/1/5 |
夏目漱石(1867年1月5日〜
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| 1867/1/5 |
生まれる 金之助と名付けられる
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| 1867/2/9 |
生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった
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| 1867/2/9 |
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子(五男)として出生。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる
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| 1868 |
塩原昌之助の養子になる。
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| 1868/8/25 |
山田美妙(1868年8月25日〜
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| 1868/11 |
内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。
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| 1870 |
この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい
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| 1870/7/4 |
巌谷小波(1870年7月4日〜
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| 1872/5/22 |
生〜
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| 1872/12/3 |
武島羽衣(1872年12月3日〜
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| 1874 |
公立戸田学校下等小学第八級に入学。
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| 1874/12 |
公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。
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| 1875/9/25 |
益田太郎冠者(1875年9月25日〜
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| 1876/3/15 |
蒲原有明(1876年3月15日〜
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| 1876/5 |
市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校する。
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| 1878/4 |
市ケ谷小学校上等小学第八級を卒業。 神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期を卒業し、一ツ橋中学(東京府立一中)に入学
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| 1878/4 |
市谷学校上等小学第八級を卒業。
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| 1878/10 |
錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
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| 1879/8/24 |
瀧廉太郎(1879年8月24日〜
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| 1881 |
実母死去。第一中学退学
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| 1881/1/21 |
母千枝没。
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| 1881/5/17 |
乙骨三郎(1881年5月17日〜
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| 1881/11/30 |
小林愛雄(1881年11月30日〜
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| 1883 |
神田駿河台の成立学舎に入学。
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| 1883/3/13 |
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| 1884 |
大学予備門
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| 1884/9 |
大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた
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| 1884/11/4 |
楠山正雄(1884年11月04日〜
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| 1885/4/4 |
本居長世(1885年4月4日〜
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| 1885/5/13 |
長田秀雄(1885年5月13日〜
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| 1886 |
大学予備門は第一高等中学校に改称。
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| 1886/3/24 |
大和田愛羅(1886年3月24日〜
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| 1886/4 |
大学予備門が第一高等中学校と改称される。
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| 1886/6/9 |
山田耕筰(1886年6月9日〜
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| 1886/7/8 |
中田章(1886年7月8日〜
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| 1886/7/15 |
佐々紅華(1886年7月15日〜
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| 1886/10/8 |
吉井勇(1886年10月8日〜
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| 1887 |
先立つ明治20年
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| 1887/3 |
長兄・大助と死別。
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| 1887/3/1 |
長田幹彦(1887年3月1日〜
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| 1887/6 |
次兄・栄之助と死別。さらに直後の
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| 1887/6/21 |
次兄栄之助没(享年28)
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| 1887/7 |
下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する
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| 1887/12/1 |
伊庭孝(1887年12月1日〜
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| 1888/7 |
第一高等中学校予科を卒業する。
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| 1888/7/9 |
川路柳虹(1888年7月9日〜
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| 1888/9 |
同校本科英文科に入学する。
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| 1890 |
創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる
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| 1890 |
帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する
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| 1890/7 |
第一高等中学校本科卒業。
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| 1890/9 |
東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる
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| 1891/5/9 |
鹿島鳴秋(1891年5月9日〜
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| 1891/12 |
J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。
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| 1892 |
兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。
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| 1892/1/15 |
西條八十(1892年1月15日〜
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| 1892/3/1 |
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| 1892/4 |
徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17
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| 1892/4 |
北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。
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| 1892/5 |
東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
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| 1892/7/8 |
京都に到着して二泊し
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| 1892/7/10 |
神戸で子規と別れて
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| 1892/7/11 |
岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する
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| 1892/8/10 |
岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う
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| 1892/12 |
試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は
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| 1893 |
大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める
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| 1893 |
帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の
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| 1893/7 |
英文科を卒業し、大学院に進学する。
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| 1893/10 |
東京高等師範学校の英語嘱託となる。
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| 1894 |
初期の肺結核と診断される。
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| 1894/12/25 |
水谷まさる(1894年12月25日〜
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| 1895 |
東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた
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| 1895/4 |
愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。
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| 1895/4 |
菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
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| 1895/8 |
子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する
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| 1895/10/21 |
箕作秋吉(1895年10月21日〜
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| 1895/12 |
貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
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| 1896 |
熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが
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| 1896/4 |
熊本県の第五高等学校講師に就任。
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| 1896/4 |
熊本県の第五高等学校講師として赴任する。
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| 1896/4/19 |
大中寅二(1896年4月19日〜
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| 1896/6 |
鏡子と結婚。
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| 1896/7 |
五高教授となる。
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| 1897/2/6 |
中村雨紅(1897年2月6日〜
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| 1897/6 |
実父直克死去。
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| 1897/7 |
妻鏡子流産。
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| 1897/9 |
大江村401に転居。
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| 1897/12/6 |
堀内敬三(1897年12月6日〜
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| 1898/3 |
同市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化
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| 1898/6 |
寺田寅彦が初めて訪問する。
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| 1898/7/1 |
清水かつら(1898年7月1日〜
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| 1898/11/18 |
近衛秀麿(1898年11月18日〜
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| 1899/6 |
英語科主任となる。
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| 1901/5 |
池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」
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| 1901/10/7 |
村野四郎(1901年10月7日〜
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| 1902 |
以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年
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| 1902 |
子規が没するまで続く。
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| 1902/1/29 |
勝承夫(1902年1月29日〜
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| 1902/9/19 |
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| 1902/10 |
スコットランドを旅行。
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| 1902/11/22 |
佐伯孝夫(1902年11月22日〜
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| 1903/1/21 |
熊本に入る。
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| 1903/3 |
東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。
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| 1903/4 |
第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。
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| 1903/5/23 |
サトウハチロー 1903年5月23日〜
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| 1903/6/4 |
文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒が
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| 1903/10 |
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| 1903/11/30 |
暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す
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| 1904 |
明治大学の講師も務める。
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| 1904/4 |
明治大学講師となる。
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| 1904/9/14 |
橋本国彦(1904年9月14日〜
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| 1905 |
東京帝国大学文学部に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、「木曜会」に参加
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| 1905/1 |
「吾輩は猫である」(「ホトトギス」)
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| 1905/1 |
『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく
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| 1905/1 |
『帝国文学』/
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| 1905/1 |
吾輩は猫である(1905年1月 -
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| 1905/3/8 |
岩佐東一郎(1905年3月8日〜
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| 1905/4 |
「幻影の盾」(「ホトトギス」)
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| 1905/5 |
「琴のそら音」(「七人」)
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| 1905/7 |
『七人』/『漾虚集』収録)
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| 1905/9 |
「一夜」(「中央公論」)
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| 1905/9 |
『中央公論』/『漾虚集』収録)
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| 1905/11 |
「薤露行」(「中央公論」)
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| 1906 |
漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日をと定めた。これが後の「木曜会」の起こりである
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| 1906/1 |
「趣味の遺伝」(「帝国文学」)
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| 1906/8 |
『ホトトギス』/
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| 1906/10 |
10月 「
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| 1906/10/10 |
」(「中央公論」)
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| 1906/12 |
本郷区西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。
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| 1906/12/18 |
高田三九三(1906年12月18日〜
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| 1907 |
朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる
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| 1907/2 |
一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める
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| 1907/4 |
かけて京都・大阪を旅行する。
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| 1907/5 |
大倉書店・服部書店)
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| 1907/5/4 |
「文芸の哲学的基礎」第1回〜第27回(〜6/4まで)
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| 1907/7/8 |
平尾貴四男(1907年7月8日〜
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| 1907/12/22 |
長谷川良夫(1907年12月22日〜
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| 1908/1 |
春陽堂)
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| 1908/1 |
坑夫(1908年1月 -
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| 1908/3/6 |
大久保徳二郎(1908年3月6日〜
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| 1908/4 |
『朝日新聞』/『草合』収録)
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| 1908/7 |
夢十夜(1908年7月 -
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| 1908/8/13 |
井田誠一(1908年8月13日〜
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| 1908/9 |
「三四郎」(〜
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| 1908/12 |
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| 1909 |
親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される
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| 1909/1 |
「永日小品」(〜
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| 1909/1 |
永日小品(1909年1月 -
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| 1909/5 |
春陽堂)
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| 1909/10 |
中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。
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| 1909/10 |
『朝日新聞』/
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| 1909/10 |
「満韓ところ\/」(〜
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| 1909/12 |
『朝日新聞』/『四篇』収録)
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| 1910 |
「夏目漱石は1910年
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| 1910 |
春陽堂刊『四篇』収録)
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| 1910/1 |
春陽堂)
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| 1910/3 |
「門」(〜
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| 1910/8 |
療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る
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| 1910/10 |
容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる
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| 1910/10 |
帰京し、長与胃腸病院に入院する。「思い出す事など」(〜
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| 1910/12/5 |
清水保雄(1910年12月5日〜
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| 1911 |
養父塩原に金を無心される。
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| 1911 |
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| 1911/1 |
春陽堂)
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| 1911/2 |
文学博士号辞退。
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| 1911/2/21 |
文学博士号辞退。退院
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| 1911/2/26 |
伊藤翁介(1911年2月26日〜
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| 1911/6 |
長野へ夫人同行で講演旅行。
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| 1911/8 |
関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院
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| 1911/8 |
関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
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| 1911/11/1 |
池辺三山、朝日文芸欄の廃止によって辞表を提出するが慰留される。
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| 1911/11/29 |
雛子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。
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| 1912/1 |
彼岸過迄(1912年1月 -
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| 1912/2/1 |
渡辺茂(1912年2月1日〜
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| 1912/4 |
『朝日新聞』/
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| 1912/9 |
春陽堂)
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| 1912/9/13 |
( |
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| 1912/10/3 |
米山正夫(1912年10月3日〜
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| 1912/12 |
行人(1912年12月 -
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| 1912/12 |
「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。
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| 1913 |
強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
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| 1913/3 |
末 胃潰瘍のため病臥。
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| 1913/9 |
「行人」の続編「塵労」を発表
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| 1913/10/30 |
北海道から移籍して、東京府平民に戻る。
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| 1913/11 |
『朝日新聞』/
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| 1914/1 |
大倉書店)
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| 1914/8 |
『朝日新聞』/
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| 1914/8/31 |
ち「こゝろ」と改題)
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| 1914/9 |
4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく
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| 1914/9 |
岩波書店)
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| 1914/11 |
講演「私の個人主義」(学習院大学)
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| 1915/1/13 |
「硝子戸の中」(〜
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| 1915/2 |
『朝日新聞』/
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| 1915/3 |
岩波書店)
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| 1915/3 |
末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥
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| 1915/9 |
『朝日新聞』/
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| 1916 |
糖尿病にも悩まされる。
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| 1916 |
カテゴリ: 夏目漱石 | 日本の小説家 | 日本の文芸評論家 | イギリス文学者 | 俳人 | 日本の漢詩人 | 明治時代の人物 | 紙幣の人物 | 朝日新聞社の人物 | 東京都出身の人物 | 1867年生 | 1916年没
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| 1916/4 |
糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける
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| 1916/5/26 |
「明暗」(〜
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| 1916/12 |
『朝日新聞』/
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| 1916/12/9 |
日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助
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| 1916/12/9 |
死去 『明暗』は未完に終わる
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| 1916/12/9 |
胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
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| 1916/12/14 |
「明暗」の連載が終了する。
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| 1916/12/28 |
雑司ヶ谷墓地で埋骨式。
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