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年表トップ > 坂本龍馬と高杉晋作の年表を比べる

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坂本龍馬(さかもとりょうま)

 

高杉晋作(たかすぎしんさく)

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坂本龍馬(さかもとりょうま)と高杉晋作(たかすぎしんさく)に関する本・DVD

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坂本龍馬   高杉晋作
年月日 できごと   年月日 できごと
1836/1/3 現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれる。情報源のサイトへ      
      1839 永倉新八、高杉晋作生れる情報源のサイトへ
      1839/8/20 天保10年8月20日情報源のサイトへ
1846 母・幸死す。情報源のサイトへ   1846 弘化3年情報源のサイトへ
      1846 8歳の時に寺子屋・吉松塾に入り、後に晋作と共に松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞(年齢は晋作の1歳下)と出会う。情報源のサイトへ
      1852 藩校の明倫館に入学情報源のサイトへ
1853/12 佐久間象山の私塾にも通っている。情報源のサイトへ      
1854 土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ情報源のサイトへ   1854 からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して情報源のサイトへ
      1854/7 帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。情報源のサイトへ
1855 父・八平が死去。情報源のサイトへ      
1856 再び江戸・小千葉道場に遊学。情報源のサイトへ      
1857 盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。情報源のサイトへ   1857 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り情報源のサイトへ
      1857 久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う。情報源のサイトへ
1858 剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4]情報源のサイトへ   1858 藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。情報源のサイトへ
      1858 (1858)に昌平黌に入学するが情報源のサイトへ
      1859 安政6年情報源のサイトへ
      1859 藩命により、萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、江戸を出発。その情報源のサイトへ
      1859 (安政6年情報源のサイトへ
      1859/10 うちに刑が執行されてしまう。情報源のサイトへ
      1859/10 松陰の死罪が決定し情報源のサイトへ
      1859/7 中旬 松陰江戸獄  高杉江戸。情報源のサイトへ
      1859/10 処刑される。情報源のサイトへ
      1859/11/26 長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している)情報源のサイトへ
1860 咸臨丸を指揮、太平洋を横断して渡米。海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として教育した情報源のサイトへ      
      1860/11 帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚する。情報源のサイトへ
1861/3 土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)情報源のサイトへ      
      1861/8 東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。情報源のサイトへ
1861/10 武市の密使として長州へ向かい情報源のサイトへ      
      1862 文久2年情報源のサイトへ
1862/3 沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた情報源のサイトへ      
      1862/5 藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情を見聞して帰国。情報源のサイトへ
1862/12 勝海舟に面会して弟子となる[8]。情報源のサイトへ      
      1862/12/12 幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、幕府の罪人として処刑された松蔭の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する情報源のサイトへ
      1862/12/12 同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。行動の過激の度合いを強めていく情報源のサイトへ
1863 勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される情報源のサイトへ   1863 (1863)萩藩外国船攻撃の際、登用されて奇兵隊を結成し、外国勢と戦う。情報源のサイトへ
      1863 奇兵隊[きへいたい]をつくりました。萩藩の方針を倒幕[とうばく]にしたり、長州征伐[ちょうしゅうせいばつ]に来た幕府の軍隊を負かしたりするなど活躍しましたが、明治時代になる前に病気で亡くなってしまいます情報源のサイトへ
      1863 文久3年情報源のサイトへ
      1863/5/10 幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する。高杉は下関の防衛を任せられ情報源のサイトへ
      1863/5/10 関門海峡において外国船砲撃。情報源のサイトへ
      1863/6 廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる。情報源のサイトへ
      1863/6 廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが情報源のサイトへ
1863/8/18 政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する情報源のサイトへ   1863/8/18 政変で長州藩が追放され情報源のサイトへ
      1863/9 教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。情報源のサイトへ
1864 神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した情報源のサイトへ   1864 文久4年情報源のサイトへ
      1864/8 イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う。情報源のサイトへ
      1864/8 イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。情報源のサイトへ
      1864/10 福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還情報源のサイトへ
      1864/12 幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派(佐幕派)が台頭。功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)情報源のサイトへ
      1864/12/15 夜半、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり情報源のサイトへ
      1865/3 海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。情報源のサイトへ
      1865/3 俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。情報源のサイトへ
      1865/6 桂小五郎の斡旋により帰郷。情報源のサイトへ
1865/7/30 「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]。情報源のサイトへ      
      1865/9/29 藩命により谷 潜蔵と改名する。情報源のサイトへ
      1866 慶応2年情報源のサイトへ
      1866 すでに読んでいたという記録も残っており、正確ではないという説もある。情報源のサイトへ
      1866 さらに慶応2年情報源のサイトへ
      1866 (1866)薩摩藩との間に薩長連合を締結。情報源のサイトへ
1866/4 本博多町小曾根邸で自刃した土佐藩士近藤昶治郎の墓標は坂本竜馬の筆により皓台寺後山に建てられたがその荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった大津藩士服部源蔵の墓碑をも修覆を加えた(原文ママ)」と書かれており、坂本さんの手になることはわかるんですが…この服部源蔵って方は誰なんでしょう?!情報源のサイトへ      
1866/1 坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている情報源のサイトへ   1866/1 桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結。情報源のサイトへ
      1866/1/21 (一説には情報源のサイトへ
      1866/5 伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を単独購入。情報源のサイトへ
1866/6 第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。情報源のサイトへ   1866/6 第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功。情報源のサイトへ
      1866/6 第2次長州征討で指揮をとり、各地で幕府軍を打ち破ったが情報源のサイトへ
      1866/7 将軍徳川家茂の死去の報を受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱。事実上幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜し情報源のサイトへ
      1866/7 将軍徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌情報源のサイトへ
1867 」(『駒沢史学』第64号情報源のサイトへ   1867 戦い続けた晋作の身体は、その間、病に冒されていた。肺結核のため桜山で療養し回復に努めるも、慶応3年情報源のサイトへ
1867 土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。情報源のサイトへ   1867 カテゴリ: 日本の儒学者 | 陽明学者 | 江戸時代の人物 | 幕末維新側人物 | 山口県の歴史 | 長門国の人物 | 1839年生 | 1867年没情報源のサイトへ
1867 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 分割提案 | 江戸時代の人物 | 武士 | 幕末維新側人物 | 高知県の歴史 | 高知県出身の人物 | 土佐国の人物 | 暗殺された人物 | 銅像 | 1836年生 | 1867年没情報源のサイトへ      
      1867/3/29 新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。情報源のサイトへ
      1867/3/30 祭奉賛会「東行高杉晋作」情報源のサイトへ
1867/4 いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14]情報源のサイトへ      
      1867/4/14 (1839~1867)情報源のサイトへ
      1867/4/14 深夜に死去。大政奉還を見ずしてこの世を去ることとなる(享年27)情報源のサイトへ
      1867/5/17 京におり、詳細は定かではない。墓所は山口県下関市情報源のサイトへ
      1867/5/17 (太陽暦)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年27)。臨終には、父・母・妻と倅がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼は情報源のサイトへ
      1867/5/17 諱(本名)は春風。通称は晋作、東一、和助情報源のサイトへ
      1867/5/17 日本の武士・長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍情報源のサイトへ
      1867/5/30 馬関で病死した。情報源のサイトへ
      1867/11 大政奉還へと導かれる事となる。情報源のサイトへ
1867/11/15 龍馬は慶応3年11月15日情報源のサイトへ      
1867/12 京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ情報源のサイトへ   1867/12 奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した情報源のサイトへ
1867/12/10 暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている情報源のサイトへ      

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