| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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1828 |
哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった |
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1828/1/23 |
すべきだと言う声も上がっている。 |
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1828/12 |
頃としていて、説得力がある。 |
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1828/12/8 |
口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載 |
| 1836/1/3 |
現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれる。 |
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1839 |
郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めたが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した |
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1841 |
元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町郷中(したかじやまちごじゅう)の二才組(にせこ)に昇進する |
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1844 |
18歳 郡方書役助の役職につく  |
| 1846 |
母・幸死す。 |
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1852/11 |
母マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。 |
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1853 |
27歳 ペリー来航 |
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1853/2 |
家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた |
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1853/2/9 |
兄の隆永(のちの西郷隆盛)が家督相続。 |
| 1853/12 |
佐久間象山の私塾にも通っている。 |
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| 1854 |
土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ |
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1854 |
28歳 藩主・ 島津斉彬に従って江戸に行く藤田東湖と親交  |
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1854 |
西郷隆盛が樺山三円と共に東湖の許を訪れ、彼の印象を次のように記している。「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」(彼(東湖)の御宅に伺った時は、まるで清水を浴びたような、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした) |
| 1855 |
父・八平が死去。 |
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1855 |
29歳 橋本佐内と出会う  |
| 1856 |
再び江戸・小千葉道場に遊学。 |
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| 1857 |
盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。 |
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1857/4 |
参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物、津田山三郎と会い、国事を話し合った。 |
| 1858 |
剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4] |
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1858 |
32歳 京都にて一橋慶喜将軍継嗣工作にあたる月照と共に入水自殺を図るが一人助かる奄美大島に潜伏 安政の大獄 |
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1858/2 |
橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し |
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1858/3 |
篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。 |
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1858/6 |
鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。 |
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1858/7/27 |
京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。 |
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1858/9/16 |
再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため |
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1858/12 |
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。 |
| 1860 |
咸臨丸を指揮、太平洋を横断して渡米。海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として教育した |
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1860 |
34歳 桜田門外の変( 井伊直弼暗殺) |
| 1861/3 |
土佐で 井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号) |
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| 1861/10 |
武市の密使として長州へ向かい |
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1862 |
36歳 島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流される |
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1862 |
西郷隆盛が2回目に配流された沖永良部島は終身流刑地で、配流時には知行や家財が没収されたという。西郷家も例外ではなかったが、石高41石余りはこの時までに処分済みだったので影響しなかったという |
| 1862/3 |
沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の 暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた |
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1862/4 |
同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている |
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1862/7/2 |
西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の |
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1862/7/2 |
愛加那が菊草(菊子)を生んだ。 |
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1862/8 |
初め、徳之島岡前を出発し |
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1862/8/26 |
徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから |
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1862/8/26 |
さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の |
| 1862/12 |
勝海舟に面会して弟子となる[8]。 |
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1862/12 |
藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[4]。 |
| 1863 |
勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・ 松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される |
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1863 |
37歳 薩英戦争 |
| 1863/8/18 |
政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する |
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| 1864 |
神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、 池田屋事件によって頓挫した |
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1864 |
38歳 赦免され京都に入る 蛤御門の変で長州軍を撃退 勝海舟と会談第1次長州征伐に参謀として随行  |
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1864/5/9 |
大番頭・一身家老組に任命された[4]。この頃、将軍 徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主 徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏 |
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1864/6/24 |
京都で 坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ |
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1864/7/23 |
長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出 |
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1864/10/1 |
前尾張藩主徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び 徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、 国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった |
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1865 |
3度目の妻は慶応元年 |
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1865 |
岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った |
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1865/6/27 |
朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし |
| 1865/7/30 |
「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な 大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]。 |
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1866 |
40歳 薩長同盟締結 徳川慶喜が将軍となる 明治天皇即位 |
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1866 |
西郷隆盛らと薩長連合(薩摩藩と長州藩の連合)を密約し、倒幕を推進します。維新後は、五箇条の誓文の作成や版籍奉還・廃藩置県など 一連の改革に重要な役割を果たします |
| 1866/4 |
本博多町小曾根邸で自刃した土佐藩士近藤昶治郎の墓標は坂本竜馬の筆により皓台寺後山に建てられたがその荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった大津藩士服部源蔵の墓碑をも修覆を加えた(原文ママ)」と書かれており、坂本さんの手になることはわかるんですが…この服部源蔵って方は誰なんでしょう?! |
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| 1866/1 |
坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎( 木戸孝允)と薩摩の 西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている |
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1866/1/8 |
西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎(木戸)を伏見に出迎え、翌 |
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1866/1/22 |
いう説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、 坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した |
| 1866/6 |
第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。 |
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1866/12/25 |
孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の |
| 1867 |
」(『駒沢史学』第64号 |
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1867 |
41歳 大政奉還 |
| 1867 |
土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。 |
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| 1867 |
カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 分割提案 | 江戸時代の人物 | 武士 | 幕末維新側人物 | 高知県の歴史 | 高知県出身の人物 | 土佐国の人物 | 暗殺された人物 | 銅像 | 1836年生 | 1867年没 |
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| 1867/4 |
いろは 丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。 後藤象二郎とともに船中八策を策定し、 後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14] |
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1867/6/16 |
西郷・小松帯刀・ 大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・ 品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、江戸市内へ伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺の放火・強盗による人心攪乱)を行わせ幕府を挑発した |
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1867/10/14 |
討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[4])。 |
| 1867/11/15 |
龍馬は慶応3年11月15日 |
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1867/11/20 |
大坂 |
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1867/11/23 |
京都に着いた。長州兵約700名も |
| 1867/12 |
京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。 旧暦の誕生日と命日は同じ |
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1867/12 |
ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 |
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1867/12 |
薩摩藩の出身です。西郷隆盛らとともに 討幕運動を推進し、慶応3年12月 |
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1867/12/9 |
薩摩・安芸・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。 |
| 1867/12/10 |
暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている |
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1868 |
李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・ 板垣退助・副島種臣らは、調査のために |
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1868 |
42歳 鳥羽・ 伏見の戦い東征大総督府参謀となる山岡鉄太郎(鉄舟)と会談 勝海舟と会談し江戸城攻撃を中止する 上野戦争で彰義隊と戦う東北鎮定に向かう  |
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1868/1/9 |
有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。 |
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1868/2/28 |
東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した |
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1868/3/14 |
勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。当時、“薩摩藩の後ろ盾”となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて“江戸総攻撃に反対”していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった |
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1868/3/20 |
朝議にかけて了承を得た。江戸へ帰った西郷は |
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1868/4/11 |
江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれた。 |
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1868/6/14 |
鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[4] |
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1868/9/29 |
幕末に活躍した薩摩藩士で、西郷吉兵衛の次男。西郷隆盛の弟 |
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1869 |
43歳 薩摩藩の参与となる 函館戦争の援軍に向かう 版籍奉還 |
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1870 |
若い頃から 朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年 |
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1870 |
44歳 明治政府に出仕  |
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1870/7/3 |
相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は |
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1870/7/27 |
鹿児島藩士・集議院徴士横山安武( 森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[5]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために |
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1870/10/14 |
西郷隆盛家より分家す。幼名勇袈裟 |
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1871 |
正月、 三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。 |
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1871 |
その後は、故郷に退隠したが、明治4年 |
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1871 |
45歳 廃藩置県断行遣欧使節団出発 |
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1871/1/3 |
西郷と大久保は池上を伴い「 政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。 |
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1871/2/8 |
会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年 東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[7] |
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1871/7/5 |
制度取調会の議長となり |
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1872 |
池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 |
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1872 |
46歳 明治天皇の西国巡幸に随行する  |
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1872/3 |
御親兵を廃止して近衛兵を置いた。 |
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1872/7/29 |
陸軍元帥兼参議に任命された。このときに 山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した |
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1873 |
征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。 |
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1873 |
政変 |
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1873 |
政変を主導して、政府の中心として殖産興業などに活躍しました。 |
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1873 |
47歳 陸軍大将になる朝鮮派遣が中止となり辞職して鹿児島に帰る 岩倉具視ら帰国 |
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1873/1/1 |
以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。 |
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1873/6 |
外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は |
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1873/8/16 |
三条実美の同意を得て |
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1873/9/15 |
再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・ 大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った |
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1873/9/23 |
西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌 |
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1873/9/25 |
なると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した |
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1874 |
48歳 佐賀の乱 |
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1874/6 |
頃に旧厩跡に私学校がつくられた[13]。 私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた |
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1875 |
この他に、明治8年 |
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1876 |
50歳 神風連の乱・ 萩の乱 |
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1876/1 |
かけて |
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1876/10/28 |
萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。 |
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1877 |
(復刻版、『 福澤諭吉著作集』第9巻、慶應義塾大学出版会 |
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1877 |
』第90巻 |
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1877 |
カテゴリ: 西郷隆盛 | 幕末維新側人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 日本の陸軍軍人 | 日本の儒学者 | 陽明学者 | アジア主義の人物 | 薩摩国の人物 | 1828年生 | 1877年没 |
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1877 |
51歳 西南戦争で九州各地を転戦する鹿児島の城山で自決  |
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1877 |
ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれたその姿[15](1877年) |
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1877/1/29 |
従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った |
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1877/2/6 |
私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌 |
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1877/2/9 |
川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[17] |
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1877/2/14 |
私学校本校横の練兵場[19]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。 |
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1877/2/15 |
薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し( 西南戦争開始) |
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1877/2/20 |
別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した |
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1877/4 |
帰藩、対幕抗戦の藩論決定に活躍した。慶応二(1866)年正月、京都薩摩藩邸において、 坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと薩長同盟密約を結んだ |
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1877/4/14 |
熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から |
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1877/4/28 |
軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった |
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1877/7 |
廃藩置県にも西郷隆盛とならぶ参議として重責を担った。ついで |
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1877/7/17 |
21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 |
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1877/8/17 |
夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[20] |
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1877/9/24 |
享年51歳。 |
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1877/9/24 |
(満49歳没) |