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年表トップ > 坂本龍馬と勝海舟の年表を比べる

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坂本龍馬(さかもとりょうま)

 

勝海舟(かつかいしゅう)

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坂本龍馬(さかもとりょうま)と勝海舟(かつかいしゅう)に関する本・DVD

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坂本龍馬   勝海舟
年月日 できごと   年月日 できごと
      1823 1823〜1899 (文政6年〜情報源のサイトへ
      1823 勝海舟は文政6年情報源のサイトへ
      1823 江戸本所亀沢町[1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[2]情報源のサイトへ
1836/1/3 現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれる。情報源のサイトへ      
      1838/7/27 家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。情報源のサイトへ
1846 母・幸死す。情報源のサイトへ   1846 住居も本所から赤坂田町に移る[5]。 この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を情報源のサイトへ
      1853 ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した情報源のサイトへ
1853/12 佐久間象山の私塾にも通っている。情報源のサイトへ      
1854 土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ情報源のサイトへ      
1855 父・八平が死去。情報源のサイトへ      
      1855/1/18 異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。情報源のサイトへ
      1855/7/29 海軍伝習重立取扱となる。情報源のサイトへ
1856 再び江戸・小千葉道場に遊学。情報源のサイトへ      
      1856/3/11 講武所砲術師範役となる。情報源のサイトへ
1857 盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。情報源のサイトへ      
1858 剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4]情報源のサイトへ      
      1859/3 街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。情報源のサイトへ
      1859/11/24 アメリカ派遣を命ぜられる。情報源のサイトへ
1860 咸臨丸を指揮、太平洋を横断して渡米。海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として教育した情報源のサイトへ   1860 咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった[9]情報源のサイトへ
      1860 咸臨丸を指揮、太平洋を横断して渡米。海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として教育した情報源のサイトへ
      1860 渡米時にサンフランシスコにて撮影情報源のサイトへ
      1860 水戸藩の尊攘派と丙辰丸盟約を結び尊王攘夷運動に参加。(高杉晋作、久坂玄瑞らと並ぶ尊皇攘夷派のリーダーとなっていったが、その一方で坂本龍馬、勝海舟といった開明派とも親交を持った情報源のサイトへ
      1860/2/26 サンフランシスコに入航。情報源のサイトへ
      1860/3/8 サンフランシスコを出航。情報源のサイトへ
      1860/5/6 品川沖に入航。情報源のサイトへ
      1860/5/7 江戸に帰府。情報源のサイトへ
1861/3 土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)情報源のサイトへ      
1861/10 武市の密使として長州へ向かい情報源のサイトへ      
      1862 幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている[11]情報源のサイトへ
1862/3 沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた情報源のサイトへ      
      1862/7/4 二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。情報源のサイトへ
      1862/8/17 軍艦奉行並に異動。役高1000石情報源のサイトへ
1862/12 勝海舟に面会して弟子となる[8]。情報源のサイトへ      
1863 勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される情報源のサイトへ   1863 姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。情報源のサイトへ
      1863 直目付に命じられる。京都・神戸において、勝海舟に会う情報源のサイトへ
      1863/3 氷川邸に勅使が来て勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。情報源のサイトへ
1863/8/18 政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する情報源のサイトへ      
1864 神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した情報源のサイトへ   1864 西郷、勝の二人が初めて会ったのは、1864年情報源のサイトへ
      1864/2/5 摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。情報源のサイトへ
      1864/9/11 大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという情報源のサイトへ
1865/7/30 「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]。情報源のサイトへ      
      1866 軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった情報源のサイトへ
1866/4 本博多町小曾根邸で自刃した土佐藩士近藤昶治郎の墓標は坂本竜馬の筆により皓台寺後山に建てられたがその荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった大津藩士服部源蔵の墓碑をも修覆を加えた(原文ママ)」と書かれており、坂本さんの手になることはわかるんですが…この服部源蔵って方は誰なんでしょう?!情報源のサイトへ      
1866/1 坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている情報源のサイトへ      
1866/6 第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。情報源のサイトへ      
1867 」(『駒沢史学』第64号情報源のサイトへ   1867 王政復古の号令(勝海舟 かつ かいしゅう 情報源のサイトへ
1867 土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。情報源のサイトへ      
1867 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 分割提案 | 江戸時代の人物 | 武士 | 幕末維新側人物 | 高知県の歴史 | 高知県出身の人物 | 土佐国の人物 | 暗殺された人物 | 銅像 | 1836年生 | 1867年没情報源のサイトへ      
1867/4 いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14]情報源のサイトへ      
1867/11/15 龍馬は慶応3年11月15日情報源のサイトへ      
1867/12 京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ情報源のサイトへ      
1867/12/10 暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている情報源のサイトへ      
      1868 官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる情報源のサイトへ
      1868/1/17 海軍奉行並に異動。役高5000石情報源のサイトへ
      1868/1/23 陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座情報源のサイトへ
      1868/2/25 陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。情報源のサイトへ
      1868/3/9 山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては江戸市中の撹乱作戦を指揮し、奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士益満休之助を説得して案内役に[14]している情報源のサイトへ
      1868/3/14 薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城情報源のサイトへ
      1868/3/14 勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた情報源のサイトへ
      1868/3/15 直前の情報源のサイトへ
      1869/7/18 維新政府の外務大丞に任官。情報源のサイトへ
      1869/8/13 外務大丞を辞す。情報源のサイトへ
      1869/11/23 兵部大丞に任官。情報源のサイトへ
      1870/6/12 兵部大丞を辞す。情報源のサイトへ
      1872/5/10 海軍大輔に任官。情報源のサイトへ
      1872/12/2 までは旧暦)情報源のサイトへ
      1874/2/18 正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。情報源のサイトへ
      1875/4/25 元老院議官に異動。情報源のサイトへ
      1875/11/28 元老院議官を辞す。情報源のサイトへ
      1887 哲学館(現:東洋大学)を創設した井上円了と親交があり、多くの寄付をしているため、「哲学館の三恩人」の一人と呼ばれている。情報源のサイトへ
      1887/12 従三位に昇叙。情報源のサイトへ
      1888/4/30 枢密顧問官に任官。情報源のサイトへ
      1888/10 正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。情報源のサイトへ
      1894/6/30 従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。情報源のサイトへ
      1896/10/27 枢密顧問官辞表を提出するが情報源のサイトへ
      1898/2/26 旭日大綬章を受ける。情報源のサイトへ
      1899 歴史も振り返らなかった情報源のサイトへ
      1899 カテゴリ: 幕末徳川側人物 | 明治の元勲 | 武蔵国の人物 | 東京都出身の人物 | 明治時代の人物 | 日本の華族 | 江戸幕府幕臣 | 江戸幕府旗本 | アジア主義の人物 | 1823年生 | 1899年没情報源のサイトへ
      1899/1/19 脳溢血により意識不明となり情報源のサイトへ
      1899/1/19 死去。情報源のサイトへ
      1899/1/20 贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士情報源のサイトへ
      1899/1/21 死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった[17]情報源のサイトへ

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