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年表トップ > 坂上田村麻呂と大伴家持の年表を比べる

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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

 

大伴家持(おおとものやかもち)

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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と大伴家持(おおとものやかもち)に関する本・DVD

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坂上田村麻呂   大伴家持
年月日 できごと   年月日 できごと
      718 元正大伴家持、生(『大伴系図』、『公卿補任』情報源のサイトへ
      720 隼人の反乱←大伴旅人→cf、(子)大伴家持=「万葉集」情報源のサイトへ
      738 内舎人と見え情報源のサイトへ
      741 正月橘諸兄に命じ、遷都して「大養徳恭仁大宮(やまとノくにノおおみや、京都府相楽郡加茂町)」と命名され、内舎人の大伴家持が「久邇(くに)の京」を讃(ほ)め湛えて作った歌が万葉集にあり、歌碑は泉川(木津川)に架かる恭仁大橋の袂にあり情報源のサイトへ
      744/2/24 天皇は叔母の元正太上天皇や橘諸兄を難波宮に残して紫香楽宮へ向われましたが、大伴家持に詠われた「久邇京」をわずか情報源のサイトへ
      745 従五位下に叙せられる。情報源のサイトへ
      746/3 宮内少輔。情報源のサイトへ
      746/7 越中国国守となる。情報源のサイトへ
      751 までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ情報源のサイトへ
      754 少納言となって帰京後、天平勝宝6年情報源のサイトへ
      754/11/30 難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている情報源のサイトへ
      755 (天平勝宝7)の防人(さきもり)たちの歌など、宴席における遊戯的な歌の多いこの時期にあって率直な叙情が注目される。大伴家持の作品は情報源のサイトへ
758 坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した情報源のサイトへ   758 因幡国国守。翌情報源のサイトへ
      758 (天平宝字2)初頭までに巻17、18、19の3巻が成り、そののち巻20が加えられた。20巻本を集成した立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものができたのは情報源のサイトへ
      759 (天平宝字3)正月の大伴家持(おおとものやかもち)の作だから、最終的な編纂(へんさん)はそれ以後となる。山田孝雄(よしお)は、東歌(あずまうた)のなかで武蔵(むさし)国を東海道に編入していることに注目し、同国の東山道から東海道に移された情報源のサイトへ
      759/1 因幡国国府で万葉集の最後の歌を詠む。情報源のサイトへ
      767 大宰大弐に転じ情報源のサイトへ
      770 民部少輔となるまでの間に宇佐八幡宮神託事件が起きているが、どのように関わったのかは不明。情報源のサイトへ
      776 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では情報源のサイトへ
      780 参議に昇進したものの、氷上謀反事件氷上の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。情報源のサイトへ
      783 中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。情報源のサイトへ
      784 朝廷は、公然と長岡遷都に踏み切った。情報源のサイトへ
      785 生まれました。祖父の安麻呂(やすまろ)も父の旅人(たびと)も、ともに大納言という、名門の家柄です情報源のサイトへ
      785 大伴家持(万葉歌人)情報源のサイトへ
      785 没 | 越中国の人物 | 東北地方の歴史隠しカテゴリ: 文人関連のスタブ情報源のサイトへ
789 紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり情報源のサイトへ      
789 田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年情報源のサイトへ      
791 大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ情報源のサイトへ      
793 陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり情報源のサイトへ      
793 軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい情報源のサイトへ      
796 陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて情報源のサイトへ      
796/11/30 征夷大将軍に任じられた。情報源のサイトへ      
801 遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。情報源のサイトへ      
801/11/30 確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為(阿弖流為)と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した情報源のサイトへ      
802 胆沢城情報源のサイトへ      
803 志波城を造った。情報源のサイトへ      
804 再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし情報源のサイトへ      
804 藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた情報源のサイトへ      
805 参議に列した。情報源のサイトへ      
805 戦功によって昇進し、延暦24年情報源のサイトへ      
806 中納言情報源のサイトへ      
807 右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる情報源のサイトへ      
810 大納言になった。この間情報源のサイトへ      
810 薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた情報源のサイトへ      
811 田村麻呂は仁2年情報源のサイトへ      
811 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 坂上氏 | 征夷大将軍 | 奈良時代の人物 | 平安時代の人物 | 蝦夷 | 東北地方の歴史 | 岩手県の歴史 | 758年生 | 811年没情報源のサイトへ      
811/5/1 政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた情報源のサイトへ      
811/5/23 54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで情報源のサイトへ      

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