あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 平安時代の人物 > 坂上田村麻呂

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

/s064.jpg

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に関する本・DVD

Ads by Google

年月日 できごと 写真
758 坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した 情報源のサイトへ
789 紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり 情報源のサイトへ
789 田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年 情報源のサイトへ
791 大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ 情報源のサイトへ
793 陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり 情報源のサイトへ
793 軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい 情報源のサイトへ
796 陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて 情報源のサイトへ
796/11/30 征夷大将軍に任じられた。 情報源のサイトへ
801 遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。 情報源のサイトへ
801/11/30 確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為(阿弖流為)と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した 情報源のサイトへ
802 胆沢城 情報源のサイトへ
803 志波城を造った。 情報源のサイトへ
804 再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし 情報源のサイトへ
804 藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた 情報源のサイトへ /101000241.jpg
805 参議に列した。 情報源のサイトへ
805 戦功によって昇進し、延暦24年 情報源のサイトへ
806 中納言 情報源のサイトへ
807 右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる 情報源のサイトへ
810 大納言になった。この間 情報源のサイトへ
810 薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた 情報源のサイトへ /art_utsumi001-12_2.jpg /art_utsumi001-12_1.jpg
811 田村麻呂は仁2年 情報源のサイトへ
811 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 坂上氏 | 征夷大将軍 | 奈良時代の人物 | 平安時代の人物 | 蝦夷 | 東北地方の歴史 | 岩手県の歴史 | 758年生 | 811年没 情報源のサイトへ
811/5/1 政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた 情報源のサイトへ
811/5/23 54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで 情報源のサイトへ /P1230422.JPG /k05s05.JPG

あしたね年表について

このページのトップに戻る