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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
| 生没 | 758年~811年 | カテゴリ | 平安時代の人物 武士・軍人 |
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| 主なできごと |
758年 坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三... 810年 薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをし... 811年 田村麻呂は弘仁2年 811年 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | ... 811年 54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで |
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| ライバルや仲間 |
空海
最澄 聖徳太子 大伴家持 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 758 |
坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した
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| 789 |
紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり
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| 789 |
田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年
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| 791 |
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| 793 |
陸奥国の蝦夷に対する戦争で |
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| 793 |
軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい
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| 796 |
陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて
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| 796/11/30 |
征夷大将軍に任じられた。
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| 801 |
遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。
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| 801/11/30 |
確保した |
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| 802 |
胆沢城
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| 803 |
志波城を造った。
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| 804 |
再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし
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| 804 |
藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、 |
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| 805 |
参議に列した。
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| 805 |
戦功によって昇進し、延暦24年
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| 806 |
中納言
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| 807 |
右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は |
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| 810 |
大納言になった。この間
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| 810 |
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| 811 |
田村麻呂は |
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| 811 |
カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 坂上氏 | 征夷大将軍 | |
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| 811/5/1 |
政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた
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| 811/5/23 |
54歳で病死した。 |
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