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和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)
| 生没 | 1846年~1877年 | カテゴリ | 幕末の人物 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1846年 和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしん... 1846年 京都御所の東に隣接する橋本邸において仁孝天皇... 1846年 未刻、仁孝天皇の第8皇女として誕生。 1846年 「命名の儀」において孝明天皇から「和宮」の名... 1846年 異母兄・孝明天皇より和宮の名を賜る [2]。... |
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| ライバルや仲間 | |||
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1846 |
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏
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| 1846 |
和宮親子内親王 1846年
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| 1846/1/26 |
崩御しており、和宮は勅命により橋本邸で養育された。
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| 1846/5/10 |
京都御所の東に隣接する橋本邸において |
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| 1846/5/10 |
未刻、 |
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| 1846/5/16 |
「命名の儀」において |
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| 1846/5/16 |
異母兄・ |
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| 1851/7/12 |
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| 1858/8/7 |
翻意)し
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| 1858/8/8 |
幕府に攘夷を進めるよう命じる内勅を水戸藩に下した。これに対して大老・ |
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| 1859/4/27 |
和宮の有栖川宮家への入與が
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| 1859/7/13 |
九条尚忠に宛てた書翰には、「(降嫁に反対する)橋本実麗・観行院の両名を罰するよう幕府に依頼し、和宮も降嫁の話を断って有栖川宮と縁組しようとしても自分は認めないから、尼になるしか道はない」という旨の文言がある [3]。 天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮はここに降嫁を承諾するに至る
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| 1860/3/30 |
冬と内定する。しかし、宮中では
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| 1860/4/12 |
幕命を受けた所司代・ |
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| 1860/5 |
議奏・久我建通らが和宮の降嫁を内議。
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| 1860/6/12 |
天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が
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| 1860/7/18 |
「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。
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| 1860/8/7 |
和宮は宮中へ上がり縁組を硬く辞退した。既に幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成らなければ朝廷の信義が疑われると苦慮した天皇は久我建通の言を容れ
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| 1861 |
「和宮」は誕生の際に賜られた幼名で、「親子」は文久元年
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| 1861/4/19 |
内親王宣下を受け「親子」という名を賜る。
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| 1861/4/19 |
和宮は内親王宣下を受け、名を親子と改めた [4]。 しかし和宮の下向が近づくと世上では、「降嫁は幕府が和宮を人質とすることが目的で、久我建通らは幕府より賄賂を受け、天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」との噂が持ち上がった
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| 1861/10/17 |
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| 1861/10/20 |
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| 1861/10/20 |
和宮一行は桂御所を出立。東海道筋では河留めによる日程の遅延や攘夷派による襲撃の恐れがあるとして中山道を 江戸へと向かった
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| 1861/11/15 |
和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った。
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| 1861/12/11 |
和宮は江戸城本丸大奥に入る。江戸到着から入城まで1ヶ月近くを要したのは、御所風の遵守という点で和宮側と幕府・大奥側の調整が難航したためである
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| 1862 |
正月に和宮に宛てた手紙に記している。
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| 1862 |
天皇は釈明のため老中か若年寄を京に呼び出すようとの意向を示したが、九条尚忠・ |
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| 1862/2/11 |
和宮と家茂の婚礼が行われる。その様子はそれまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっていた
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| 1862/2/11 |
江戸に着き皇室から降嫁、家茂と婚儀を江戸城で挙行。
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| 1862/6/13 |
和宮は勅書の写しを将軍に手渡している。
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| 1862/7/22 |
京に戻った。
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| 1862/8 |
入ると、京では攘夷を一向に実行しない幕府への批判から、天皇の「攘夷親征」に期待する声が強まった。同時に和宮の降嫁に尽力した公卿・女官等への反発も強まり、久我建通・ |
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| 1862/10/12 |
朝廷は幕府に破約攘夷を督促するため、 |
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| 1862/10/28 |
着いていたが、将軍が麻疹にかかっていたため対面が遅れた)。
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| 1862/11/23 |
幕府は天皇の叡慮に従う形で和宮の呼称を「御台様」から「和宮様」へ改めると発表。
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| 1862/12/5 |
「攘夷実行について説明するため上洛する」旨の返答書を受け取り、江戸を後にする。
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| 1863 |
家茂上洛中に詠んだと推定されている。
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| 1863 |
家茂上洛の際は、海路をとることを聞くと家茂の身を案じて陸路への変更を申し入れている。
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| 1863/2/13 |
家茂は江戸を出立。和宮は家茂の無事を祈り
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| 1863/2/19 |
二条城に入り
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| 1863/2/24 |
から増上寺の黒本尊の御札を勧請し御百度を踏んでいる。家茂は
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| 1863/3/11 |
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| 1863/4/11 |
石清水八幡宮への行幸には風邪による高熱を理由に欠席したが(天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを避けるために仮病を使ったといわれる)、「
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| 1863/8/18 |
政変で長州藩を始めとする過激な尊皇攘夷を唱える勢力が京都から追放されると、同
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| 1863/9/4 |
から春日神社にお百度詣でを始め
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| 1863/11/10 |
朝廷に「御用の済み次第、将軍の速やかな江戸帰還」を願っている。
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| 1863/12/27 |
家茂は海路を京へ向けて出立した
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| 1864/5/8 |
帰府)。
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| 1864/8/2 |
家茂は長州征伐の命を下す。長州藩は事変の責任者を処分し、藩主父子が謝罪文を提出して恭順の意を表して事態は一旦収束する
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| 1865/5/16 |
家茂は大奥対面所で和宮の見送りを受けた後、品川から海路大阪へ向かった。これが二人の今生の別れとなる
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| 1865/8/10 |
和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた母・観行院が薨去する。
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| 1865/9/16 |
アメリカ・イギリス・フランス・オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫浦に集結し、幕府の奏請を受けた |
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| 1865/10/5 |
条約を勅許した。条約勅許の報を受けた和宮は
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| 1865/11/1 |
「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇・当今様( |
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| 1866/4 |
なると大坂城の家茂は体調を崩し
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| 1866/6 |
食事も進まなくなっていた。家茂の病状が伝えられると和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配し、医師3名を大坂に向かわせた
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| 1866/7/20 |
家茂が大坂城にて死去。輪王寺宮慈性入道親王を戒師として落飾し
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| 1866/7/20 |
家茂は大坂城で薨去。
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| 1866/7/25 |
家茂の訃報が江戸に届くと老中から「継嗣は家茂の遺言通り田安亀之助でよいか」と和宮の意向が問われた。和宮は、「時勢を鑑みて、幼い亀之助ではいかがなものか
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| 1866/9/2 |
休戦協定が結ばれて終結した。和宮は慶喜に、攘夷の実行を願う書状を度々出しているが、慶喜はそれを黙殺している
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| 1866/12/9 |
和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた[6]。
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| 1866/12/9 |
「静寛院宮」を称す。
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| 1866/12/25 |
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| 1867/1/9 |
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| 1867/5/8 |
天皇は摂政・二条斉敬に和宮の帰京の方策を講ずるように内旨し
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| 1867/6 |
入ると朝廷と幕府の間で内交渉が始まったが、交渉は進まなかった。
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| 1867/10 |
入って和宮から、「攘夷のために下向したが、その甲斐無く。これ以上、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すことになるので善処して欲しい」との要請があると、交渉は加速し、「明年
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| 1867/10/14 |
将軍・ |
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| 1867/12/9 |
王政復古の大号令を発し、旧弊を廃して官制を一新し、慶喜には辞官と領地の返上を求めた。この同じ日に和宮を京都に迎えるため公卿を江戸に派遣する旨が布告された
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| 1868/1/3 |
鳥羽・ |
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| 1868/1/12 |
軍艦「開陽丸」で江戸へ戻った。江戸城では軍議が開かれたものの議論百出で結論は出なかった
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| 1868/1/15 |
大坂より帰府した慶喜と対面。
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| 1868/1/21 |
土御門藤子を使者として上洛させて徳川家のための嘆願書を提出。
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| 1868/3/1 |
土御門藤子は朝廷の返書を持って江戸に帰還。朝廷からの返答は「願いの儀については朝議を尽くす」とだけあったが、共に持参した橋本実麗の文に副えられた正親町三条実愛の書状の写しには、「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」との旨があった
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| 1868/3/2 |
一橋茂徳・田安慶頼の歎願書を一橋が大総督有栖川宮に持参することになった。和宮は進軍の猶予は請わないが、歎願書を直接有栖川宮に見てもらえるよう橋本実梁に頼んでいる
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| 1868/3/5 |
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| 1868/3/9 |
山岡は駿府にて |
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| 1868/3/10 |
再び藤子を沼津に遣わし官軍の江戸進撃猶予を嘆願
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| 1868/3/13 |
江戸高輪の薩摩藩邸で勝と |
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| 1868/3/13 |
和宮様について、皇女を人質にとろうなどという卑劣な考えは微塵も無いのでご安心されたい。その他のことは明日に改めて談判しようとだけ言って帰宅した」と述懐している(『清譚と逸話』)
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| 1868/3/14 |
会談で、勝は山岡の持ち帰った条件に添う形での恭順の意を示した歎願書を渡し、西郷もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなる。
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| 1868/3/18 |
和宮は田安慶頼の願いを受けて徳川家の家臣たちに向け、徳川家存続の朝廷の内意を知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であり、家名を守ることになる。」との書付を出し、幕臣達の説得にあたった
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| 1868/3/20 |
朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定した。
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| 1868/4 |
江戸幕府は官軍に江戸城と大奥を明渡すことになり実成院とともに田安屋敷へと移る。
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| 1868/4/7 |
和宮と実成院(家茂生母)は清水邸へ天璋院は一橋邸への立ち退きが決定し
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| 1868/4/21 |
和宮は朝廷に徳川家への寛大な処分に対する御礼文を書いている。
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| 1868/5/27 |
上洛が勧告されると、「徳川家の人々の身の安堵を確認した上で」と一旦は上洛を見合わせ、明春の上洛を企図したが、橋本実麗から |
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| 1868/7/17 |
改称)行幸が終るまでは見合わせるようにと止められる。
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| 1869/1/11 |
天璋院を訪問して暇乞いをし
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| 1869/1/18 |
東京を発ち
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| 1869/1/18 |
和宮一向は東海道を京都へと向かった。
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| 1869/2/24 |
参内して |
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| 1869/5/19 |
京都在住の沙汰があり、聖護院の屋敷が栄御殿と改称される。
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| 1870/1/25 |
和宮は念願だった |
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| 1871 |
までは旧暦
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| 1873/3/20 |
二品に昇叙。
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| 1874 |
東京移住後は天璋院を始めとする徳川家の人々とも親しく交流している。天璋院と共に |
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| 1874/7 |
東京に戻る。麻布市兵衛町にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・家達をはじめとした徳川一門など幅広い交流を持つようになった
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| 1874/7/8 |
居を東京麻布へ移す。
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| 1874/11/12 |
徳川家達を招待
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| 1874/11/29 |
天璋院、本寿院らを御殿に招待する。
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| 1875/10/9 |
徳川邸を訪問する。
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| 1877 |
しかしこの頃より脚気を患い、明治10年
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| 1877 |
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| 1877/8 |
元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言がある [7]
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| 1877/9/2 |
療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて薨去、享年32。
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| 1877/9/2 |
脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で死去した
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