あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 戦国時代の人物 > 千利休

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

千利休(せんのりきゅう)

/img64282f51wx8r3b.jpeg

千利休(せんのりきゅう)に関する本・DVD

Ads by Google

年月日 できごと 写真
1522 (さかい 大阪府)の商人の千与兵衛(せんのよへえ)の子として 情報源のサイトへ
1522 でうまれました。生れた年がはっきりわかるものはないけれど、いろんなことをかんがえて 情報源のサイトへ
1522 千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、大2年 情報源のサイトへ
1532 剃髪し紹鷗と号す。 情報源のサイトへ
1537/2/13 与四郎(利休か?)の朝会が京都で催され、松屋源三郎久政が招かれる。 情報源のサイトへ
1538 17さいのときです。そして与四郎は道陳によって武野紹鴎にあうことができ、紹鴎にお茶をならうようになりました 情報源のサイトへ
1539/10/30 です。 情報源のサイトへ
1539/11/30 与四郎のお父さん田中与兵衛がなくなっています。そして与四郎ではなく、宗易というなまえをつかうようになったのも 情報源のサイトへ
1540 武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、宗易(そうえき)を名のる。 情報源のサイトへ
1540 ごろです。 情報源のサイトへ
1542 頃に利休に嫁ぎ、一男三女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる 情報源のサイトへ
1544 じめて千宗易というなまえでお茶会をひらいているのが『松屋久政茶会記』にかかれています。 情報源のサイトへ
1549 一閑居士と号す。弟子には嫡子新五郎宗瓦、娘婿今井宗久、天王寺屋津田宗達、宗及、千宗易ら 情報源のサイトへ
1551 天王寺屋宗達の茶会に招かれる。 情報源のサイトへ
1553 頃、夫に先立たれる。 情報源のサイトへ
1554 大徳寺塔頭大仙院に 情報源のサイトへ
1554/2 連歌師谷宗養(1526-63)、里村紹巴(1524-1602)と共に長慶、連歌会。 情報源のサイトへ
1555 利休のお茶の先生であった武野紹鴎がなくなり 情報源のサイトへ
1555 紹鷗の家財、茶道具一式を譲られ、宗瓦の後見になる。 情報源のサイトへ
1555/10 宗易(34)、奈良の茶会に出席。 情報源のサイトへ
1556 大林宗套のためにに南宗寺を建立する。弟は三好之康(実休1527-62)、紹鷗と親しく、津田宗達とも昵懇 情報源のサイトへ
1558 頃、茶人石橋良叱に嫁いだ。 情報源のサイトへ
1558/1/5 を初見に、三好実休の茶会にしばしば招かれる。 情報源のサイトへ
1560 長慶は京都立売の自宅にてヴィレラと引見し布教許可の制札を与える。三好家では七十余人の武士が洗礼を受けた 情報源のサイトへ
1562 さいしょにお茶をおしえてもらった、北向道陳がなくなりました。 情報源のサイトへ
1562/3 有力な後援者三好実休が和泉国久米田で戦死。 情報源のサイトへ
1566/8 父の死と共に稼業を継ぐ。茶の湯、武芸、蹴鞠、生花、聞香、歌道まで通じ、刀剣の鑑定と挿花の技は特に秀でていた 情報源のサイトへ
1568 訴訟事件以後、宗久は秀吉と昵懇になり、援助を惜しまなかった。 情報源のサイトへ /4-417-01400-0.jpg /4-417-01364-0.jpg
1568 松永久秀は九十九髪茄子を信長に進上、今井宗久は松島の茶壷と紹鷗茄子を進上。 情報源のサイトへ /dorui.jpg /m0401480.jpg
1569 の町が織田信長(おだのぶなが)に降伏(こうふく)する。 情報源のサイトへ /nagasima-p.jpg /sannomaru.jpg
1570 ごろに千宗易(利休)は、織田信長のそばで茶の湯のしごとをするようになりました。それが 情報源のサイトへ /img41346f46zikezj.jpeg /clip_image00217.jpg
1570 千宗易が織田信長の前で茶をたてる。 情報源のサイトへ /img41346f46zikezj.jpeg /clip_image00217.jpg
1570/4 宗易、信長の点前で薄茶を賜る。 情報源のサイトへ
1570/6 姉川の戦いのおり、信長の部将、羽柴秀吉の依頼で鉄砲薬、焔硝薬各30斥を送り勝利に貢献する。 情報源のサイトへ /pho44-05-01.jpg /P1118.jpg /IMG_10401.jpg
1573/1 信長は宗及、塩屋宗悦、松江隆の3人を京都妙覚寺に招き茶会を催した上、宗及には駿馬1頭を贈る。 情報源のサイトへ
1573/11/24 朝、京都妙覚寺において信長の茶会が催され、代官松井友閑と宗久、山上宗二が招かれ、この席で宗易は濃茶の点前を行う。 情報源のサイトへ
1575 三好笑岩が信長に三日月の茶壷を献じ降りる。 情報源のサイトへ
1575 ごろまでつづき 情報源のサイトへ
1575/10/28 信長は京都の茶湯者を17名を妙心寺に招き、茶会を催す。松島の茶壷の茶で宗易が茶を点てる。 情報源のサイトへ
1576 頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている 情報源のサイトへ
1576/11/30 妻を亡くしていたため、利休と再婚した。自身も茶の湯に堪能であったという 情報源のサイトへ
1577/7/16 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 天正5年7月16日 情報源のサイトへ
1578 兼ねてより縁のあった利休が 情報源のサイトへ
1578/9 信長は九鬼の戦艦を観艦した際、宗久の所に寄り茶を振る舞われ、その帰りに宗及、天王寺屋道叱、臙脂屋宗陽の順デ各々の邸宅に立ち寄る。宗易は単なるお供衆の一人に過ぎなかった。 情報源のサイトへ
1581/6/12 姫路城の朝会をもって初見。 情報源のサイトへ
1582 本能寺の変で織田信長が討たれる。 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /hon-hieizan.jpg /douzou.jpg /P32400851.jpg
1582 信長がなくなってから、こんどは豊臣秀吉のそばで茶の湯のしごとをするようになりました。秀吉がはじめてお茶会をひらいたときに、宗易がしゅっせきしていることが、お茶会があったときのことをかいている茶会記にかきのこされています 情報源のサイトへ /P10003521.jpg /02_big.jpg
1583 描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている 情報源のサイトへ
1583 千宗易が豊臣秀吉(とよとみひでよし)に認められ、茶坊主(ちゃぼうず)に 情報源のサイトへ /P10102562.jpg /hideyosifu.jpg
1584 大坂城に山里の茶室をつくり、はじめての山里の茶会をひらいています。利休が京都につくったさいしょの茶室が、大徳寺のもんのまえにつくられた不審庵です 情報源のサイトへ
1584 本能寺の僧侶円乗坊宗円に嫁ぐ。 情報源のサイトへ
1584 千宗易が大阪城内に茶室を開く。 情報源のサイトへ
1585 関白というくらいにつきました。そのときのお茶会で、利休は、秀吉が正親町天皇にお茶をさしあげるのをてつだっています 情報源のサイトへ
1585 禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある 情報源のサイトへ
1585 千宗易が正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献じ、利休の名をたまわる。 情報源のサイトへ
1585/10 秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく 情報源のサイトへ
1587 北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。 情報源のサイトへ /b0063958_22494646.jpg /gionkaku07073117.jpg /dsc71528a.jpg /azemati33.jpg
1587 北野大茶会(きたのおおちゃかい)で千利休が豊臣秀吉、今井宗久 情報源のサイトへ /b0063958_22494646.jpg /azemati33.jpg
1587/10 千利休とともに北野大茶湯を催して世間を驚かせた。 情報源のサイトへ
1589 豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという。 情報源のサイトへ /photo0501-13.jpg /getimage.php?acnt=40993&fn=139440.jpg
1589 利休は大徳寺の門を大きな門につくりかえ、そこに木で自分のかたちをしたものをつくってかざりました。これがころされるげんいんになったのではないかともいわれています 情報源のサイトへ
1591 利休は自分で死ななければならないようになりました。 情報源のサイトへ
1591 利休は突然秀吉の勘気に触れ、に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる 情報源のサイトへ /rikyu.jpg
1591 没 | 千家 情報源のサイトへ
1591 千利休が豊臣秀吉の命令により、(さかい)に閉じこめられる。 情報源のサイトへ /51.20.katumoro10.jpg /dsc_0178a.jpg
1591/1/18 また三・亀を除くいずれかの女子が、天正19年1月18日 情報源のサイトへ
1591/2/11 自害している。 情報源のサイトへ
1591/4/21 中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる 情報源のサイトへ

あしたね年表について

このページのトップに戻る