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千利休(せんのりきゅう)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1522 |
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| 1522 |
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| 1522 |
千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、大 |
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| 1532 |
剃髪し紹鷗と号す。
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| 1537/2/13 |
与四郎(利休か?)の朝会が |
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| 1538 |
17さいのときです。そして与四郎は道陳によって武野紹鴎にあうことができ、紹鴎にお茶をならうようになりました
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| 1539/10/30 |
です。
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| 1539/11/30 |
与四郎のお父さん田中与兵衛がなくなっています。そして与四郎ではなく、宗易というなまえをつかうようになったのも
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| 1540 |
武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、宗易(そうえき)を名のる。
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| 1540 |
ごろです。
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| 1542 |
頃に利休に嫁ぎ、一男三女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる
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| 1544 |
じめて千宗易というなまえでお茶会をひらいているのが『松屋久政茶会記』にかかれています。
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| 1549 |
一閑居士と号す。弟子には嫡子 |
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| 1551 |
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| 1553 |
頃、夫に先立たれる。
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| 1554 |
大徳寺塔頭 |
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| 1554/2 |
連歌師谷宗養(1526-63)、里村紹巴(1524-1602)と共に長慶、連歌会。
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| 1555 |
利休のお茶の先生であった武野紹鴎がなくなり
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| 1555 |
紹鷗の家財、茶道具一式を譲られ、宗瓦の後見になる。
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| 1555/10 |
宗易(34)、 |
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| 1556 |
大林宗套のために |
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| 1558 |
頃、茶人石橋良叱に嫁いだ。
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| 1558/1/5 |
を初見に、三好実休の茶会にしばしば招かれる。
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| 1560 |
長慶は |
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| 1562 |
さいしょにお茶をおしえてもらった、 |
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| 1562/3 |
有力な後援者三好実休が和泉国久 |
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| 1566/8 |
父の死と共に稼業を継ぐ。茶の湯、武芸、蹴鞠、生花、聞香、歌道まで通じ、刀剣の鑑定と挿花の技は特に秀でていた
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| 1568 |
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| 1568 |
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| 1569 |
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| 1570 |
ごろに千宗易(利休)は、 |
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| 1570 |
千宗易が |
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| 1570/4 |
宗易、信長の点前で薄茶を賜る。
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| 1570/6 |
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| 1573/1 |
信長は宗及、塩屋宗悦、松江隆 |
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| 1573/11/24 |
朝、 |
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| 1575 |
三好笑岩が信長に三日月の茶壷を献じ降りる。
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| 1575 |
ごろまでつづき
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| 1575/10/28 |
信長は |
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| 1576 |
頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている
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| 1576/11/30 |
妻を亡くしていたため、利休と再婚した。自身も茶の湯に堪能であったという
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| 1577/7/16 |
宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - |
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| 1578 |
兼ねてより縁のあった利休が
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| 1578/9 |
信長は九鬼の戦艦を観艦した際、宗久の所に寄り茶を振る舞われ、その帰りに宗及、 |
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| 1581/6/12 |
姫路城の朝会をもって初見。
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| 1582 |
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| 1582 |
信長がなくなってから、こんどは |
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| 1583 |
描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている
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| 1583 |
千宗易が |
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| 1584 |
大坂城に山里の茶室をつくり、はじめての山里の茶会をひらいています。利休が |
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| 1584 |
本能寺の僧侶円乗坊 |
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| 1584 |
千宗易が大阪城内に茶室を開く。
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| 1585 |
関白というくらいにつきました。そのときのお茶会で、利休は、秀吉が正親町天皇にお茶をさしあげるのをてつだっています
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| 1585 |
禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある
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| 1585 |
千宗易が正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献じ、利休の名をたまわる。
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| 1585/10 |
秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花 |
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| 1587 |
北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。
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| 1587 |
北野大茶会(きたのおおちゃかい)で千利休が |
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| 1587/10 |
千利休とともに北野大茶湯を催して世間を驚かせた。
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| 1589 |
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| 1589 |
利休は大徳寺の門を大きな門につくりかえ、そこに木で自分のかたちをしたものをつくってかざりました。これがころされるげんいんになったのではないかともいわれています
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| 1591 |
利休は自分で死ななければならないようになりました。
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| 1591 |
利休は突然秀吉の勘気に触れ、 |
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| 1591 |
没 | 千家
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| 1591 |
千利休が |
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| 1591/1/18 |
また三・亀を除くいずれかの女子が、 |
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| 1591/2/11 |
自害している。
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| 1591/4/21 |
中世末期、戦国時代、 |
