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北条泰時(ほうじょうやすとき)

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北条泰時(ほうじょうやすとき)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1183 北条泰時が北条義時(ほうじょうよしとき)の長男として生まれる。 情報源のサイトへ
1192 源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり 情報源のサイトへ /d0-1537.jpg /img_20070108T005905244.png
1194 頼朝主催の北条泰時元服式に列席。⇔*比企能員 〈1199−1203〉(*〜1203)藤四郎・右衛門尉 情報源のサイトへ
1194/2/2 13歳で元服する。幕府の初代将軍となった頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って、頼時と名乗る 情報源のサイトへ
1199 源頼朝が死ぬ。 情報源のサイトへ /yoritomo.jpg /DSC014001.jpg
1202/8/23 三浦義の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。 情報源のサイトへ
1203 引企能員の乱」の残党を鎮圧。「承久の乱」に北条泰時・時房の軍に従軍し上洛 情報源のサイトへ
1203 2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)が伊豆(いず 静岡県)に流され 情報源のサイトへ /143sihonbokusyo.jpg /SANY0632.jpg
1203/7/30 嫡男時氏が生まれるが、後に三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を正室に迎えている。 情報源のサイトへ
1205 北条義時 情報源のサイトへ
1205 父の北条義時(ほうじょうよしとき)が祖父の北条時政(ほうじょうときまさ)に 情報源のサイトへ
1211 修理亮に補任する。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子である次郎時であったが、時が第3代将軍・源実の怒りを買って失脚したため、庶長子であった泰時が嫡男とされた 情報源のサイトへ /1166708114_s.jpg /1166708114.jpg
1211/9/8 修理亮に任官。 情報源のサイトへ
1213 和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。 情報源のサイトへ
1213 執権の北条氏が政治を動かすことに反対した和田義盛(わだよしもり)が反乱をおこす。 情報源のサイトへ
1216/12/30 従五位下に叙位。式部丞如元 情報源のサイトへ
1218 讃岐守に転任。 情報源のサイトへ
1218 父から侍所の別当に任じられる。 情報源のサイトへ
1219 3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺される。 情報源のサイトへ /sanetomo3.jpg /DSCF5409.jpg
1219 従五位上・駿河守に叙位・任官される。 情報源のサイトへ
1219/11/13 武蔵守に転任。 情報源のサイトへ
1221 承久の乱では、幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破ってへ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg
1221 承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg
1221 承久の乱」に北条時房に従い軍功。娘が北条泰時の嫡子・時氏の室となり、北条家の外戚として権勢を得る 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg
1221/5/15 北条義時追討の院宣と宣旨を下し、鳥羽離宮にある城南寺[せいなんじ]に北面の武士や西面の武士(新設)を集結させた後、朝臣の藤原秀康・藤原秀能兄弟に命じて手初めに守護の伊賀光季[いがみつすえ]に誅伐を加えた。後鳥羽上皇の予想では、幕府の御家人たちは朝敵になることを恐れて崩壊する筈だったが、御家人は識字者が藤田三郎らごく僅かしかいない無知蒙昧な輩だった上、北条政子や大江広元らの煽動で結束したため、19万と言われる大軍が北条泰時(北条義時の子)と北条時房(北条義時の弟)に率いられを目指した 情報源のサイトへ /C0215.10.jpg /yumi.jpg
1221/6/16 幕府六波羅探題北方となる。 情報源のサイトへ
1224 北条義時死去の後、政界では北条義時の後妻の伊賀ノ方が政所執事である兄の伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を将軍、自身の子の北条政を執権にそれぞれ就け、実権を掌握しようとする伊賀氏の陰謀事件が発生した。こうした政情不安を打開するべく、北条政子と大江広元は都から北条泰時と北条時房を召喚し、北条泰時を執権に就任させた 情報源のサイトへ /epil856150000000.jpg /epil856149000000.jpg
1224 父の北条義時の急死により、北条泰時が執権(しっけん)になる。 情報源のサイトへ /hojo.gif
1224/6 父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると義母の伊賀の方が実子の政を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母の尼将軍北条政子の命によって伊賀の方らは追放され、泰時が家督を相続し、42歳で第3代執権となった 情報源のサイトへ /igagoe.jpg /p-hukutijo.jpg
1224/6/17 六波羅探題退任。 情報源のサイトへ
1225 北条泰時が叔父(おじ)の北条時房(ほうじょうときふさ)を 情報源のサイトへ
1225 大江広元や北条政子が相次いで没し世代交代が進み、北条泰時はそれまでの大倉御所に代わって若宮大路の宇都宮辻子[うつのみやずし](若宮御所)に幕府を移転させ、率先して政務を執った。北条泰時は訴訟・政務の最高合議機関として有力御家人11人(後に15人程度)からなる評定衆を設置し、独裁を廃して合議制による公平裁定を目指した 情報源のサイトへ /DSCF0012.JPG /syokok2.jpg
1225/6 有力幕臣・大江広元が没し 情報源のサイトへ
1225/7 政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。泰時はこの難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した 情報源のサイトへ
1226 正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降 情報源のサイトへ
1227 3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は嘉禄3年 情報源のサイトへ /WA002301.jpg
1227 一方、家庭内では嘉禄3年 情報源のサイトへ
1227/6/18 16歳の次男時実が家臣によって殺害されている。 情報源のサイトへ
1230/6/18 長男の時氏が病のため28歳で死去し、その 情報源のサイトへ
1230/7 三浦泰に嫁いだ娘が出産するも子は 情報源のサイトへ
1230/7/10 余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く 情報源のサイトへ
1230/8/4 25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。 情報源のサイトへ
1232 北条泰時が御成敗式目(ごせいばいしきもく)を決める。  情報源のサイトへ
1232 泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞元年 情報源のサイトへ
1232 評定衆の設置によって『有力御家人の合議制』が確立しましたが、北条氏の得宗専制体制が強化される鎌倉時代後期になると評定衆の権限は弱体化(形骸化)しました。北条泰時は、1232年 情報源のサイトへ
1232/4/11 正五位下に昇叙。武蔵守如元 情報源のサイトへ
1232/8 全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。はじめはただ『式条』『式目』と呼ばれ、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになる 情報源のサイトへ
1235 石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、強権を発して寺社勢力を押さえつけた。興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた 情報源のサイトへ
1236/12/8 左京権大夫兼任。 情報源のサイトへ
1238/3/18 従四位上に昇叙。左京権大夫・武蔵守如元 情報源のサイトへ
1238/4/6 武蔵守辞任。 情報源のサイトへ
1239/9/9 正四位下に昇叙。 情報源のサイトへ
1241 出家。54歳 情報源のサイトへ
1242 朝廷の天皇問題の頃から過労が原因で倒れていた泰時は、赤痢を併発させて体調が悪化したため、出家して観阿と号し、1ヶ月半後の仁治3年 情報源のサイトへ
1242 北条経時 情報源のサイトへ
1242 四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、王即位が実現するならば退位を強行させるという態度をとり、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を新たな天皇として即位させた。新天皇の外戚(叔父)である土御門定通は泰時の妹を妻としていたため、以後泰時は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させていくことになる 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg /tenryu04.jpg /tenryu05.jpg
1242 病死(60才)  情報源のサイトへ
1242 カテゴリ: 北条氏 | 鎌倉時代の武士 | 1183年生 | 1242年没 情報源のサイトへ
1242/5/9 出家。 情報源のサイトへ
1242/6/15 死去した。享年60 情報源のサイトへ

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