あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 児玉源太郎と夏目漱石の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

児玉源太郎(こだまげんたろう)

 

夏目漱石(なつめそうせき)

/kodama.jpg
/soseki_2s.jpg

児玉源太郎(こだまげんたろう)と夏目漱石(なつめそうせき)に関する本・DVD

Ads by Google

児玉源太郎   夏目漱石
年月日 できごと   年月日 できごと
1852 周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。父とは5歳で死別し、家督を継いだ姉婿に養育された情報源のサイトへ      
1852 兒玉 源太郞(こだま げんたろう, 嘉永5年閏情報源のサイトへ      
1852 児玉源太郎(こだま げんたろう, 嘉永5年閏情報源のサイトへ      
1852 児玉源太郎 生情報源のサイトへ      
1852/2/25 児玉源太郎(陸軍大臣) [1852年2月25日生]情報源のサイトへ      
      1867/1/5 夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日情報源のサイトへ
      1867/1/5 夏目漱石(1867年1月5日〜情報源のサイトへ
      1867/1/5 生まれる 金之助と名付けられる 情報源のサイトへ
      1867/2/9 生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった情報源のサイトへ
      1867/2/9 江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子(五男)として出生。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる情報源のサイトへ
      1868 塩原昌之助の養子になる。情報源のサイトへ
      1868/8/25 山田美妙(1868年8月25日〜情報源のサイトへ
      1868/11 内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。情報源のサイトへ
1870 軍曹として陸軍入り情報源のサイトへ   1870 この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい情報源のサイトへ
      1870/7/4 巌谷小波(1870年7月4日〜情報源のサイトへ
      1872/5/22 生〜情報源のサイトへ
      1872/12/3 武島羽衣(1872年12月3日〜情報源のサイトへ
      1874 公立戸田学校下等小学第八級に入学。情報源のサイトへ
      1874/12 公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。情報源のサイトへ
      1875/9/25 益田太郎冠者(1875年9月25日〜情報源のサイトへ
1876 熊本鎮台准参謀時の明治9年情報源のサイトへ      
1876 神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の情報源のサイトへ      
      1876/3/15 蒲原有明(1876年3月15日〜情報源のサイトへ
      1876/5 市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校する。                                情報源のサイトへ
1877 西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる情報源のサイトへ      
1878 頃、乃木希典が歩兵第一連隊長の時、佐倉の歩兵第二連隊長の児玉源太郎と習志野で対抗演習を行いました。情報源のサイトへ      
      1878/4 市ケ谷小学校上等小学第八級を卒業。 神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期を卒業し、一ツ橋中学(東京府立一中)に入学情報源のサイトへ
      1878/4 市谷学校上等小学第八級を卒業。情報源のサイトへ
      1878/10 錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。情報源のサイトへ
      1879/8/24 瀧廉太郎(1879年8月24日〜情報源のサイトへ
1880 歩兵第二連隊長情報源のサイトへ      
      1881 実母死去。第一中学退学情報源のサイトへ
      1881/1/21 母千枝没。情報源のサイトへ
      1881/5/17 乙骨三郎(1881年5月17日〜情報源のサイトへ
      1881/11/30 小林愛雄(1881年11月30日〜情報源のサイトへ
      1883 神田駿河台の成立学舎に入学。情報源のサイトへ
      1883/3/13 高村光太郎(1883年3月13日〜情報源のサイトへ
      1884 大学予備門情報源のサイトへ
      1884/9 大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた情報源のサイトへ
      1884/11/4 楠山正雄(1884年11月04日〜情報源のサイトへ
      1885/4/4 本居長世(1885年4月4日〜情報源のサイトへ
      1885/5/13 長田秀雄(1885年5月13日〜情報源のサイトへ
      1886 大学予備門は第一高等中学校に改称。情報源のサイトへ
      1886/3/24 大和田愛羅(1886年3月24日〜情報源のサイトへ
      1886/4 大学予備門が第一高等中学校と改称される。情報源のサイトへ
      1886/6/9 山田耕筰(1886年6月9日〜情報源のサイトへ
      1886/7/8 中田章(1886年7月8日〜情報源のサイトへ
      1886/7/15 佐々紅華(1886年7月15日〜情報源のサイトへ
      1886/10/8 吉井勇(1886年10月8日〜情報源のサイトへ
      1887 先立つ明治20年情報源のサイトへ
      1887/3 長兄・大助と死別。情報源のサイトへ
      1887/3/1 長田幹彦(1887年3月1日〜情報源のサイトへ
      1887/6 次兄・栄之助と死別。さらに直後の情報源のサイトへ
      1887/6/21 次兄栄之助没(享年28)情報源のサイトへ
      1887/7 下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する           情報源のサイトへ
      1887/12/1 伊庭孝(1887年12月1日〜情報源のサイトへ
      1888/7 第一高等中学校予科を卒業する。情報源のサイトへ
      1888/7/9 川路柳虹(1888年7月9日〜情報源のサイトへ
      1888/9 同校本科英文科に入学する。情報源のサイトへ
1889 陸軍少将情報源のサイトへ      
      1890 創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる情報源のサイトへ
      1890 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する情報源のサイトへ
1890/2/20 付で内閣総理大臣桂太郎宛に出されており、その「結婚願」の裏に「不都合無之付御許可相成度候也」と児玉源太郎陸軍大臣の添書きが記されている。この?外自筆の「結婚願」に荒木しげの「身元証書」を添えて、結婚の許可を求める児玉陸軍大臣名義の「上奏書」が陸軍大臣から内閣総理大臣に進達され、さらに内閣総理大臣から先に紹介した裁可奏請書が明治天皇に出されて、その奏請書に明治天皇が裁可を下したことによって、?外はめでたくしげ女と結婚することができたわけである(3)情報源のサイトへ      
      1890/7 第一高等中学校本科卒業。                          情報源のサイトへ
      1890/9 東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる情報源のサイトへ
      1891/5/9 鹿島鳴秋(1891年5月9日〜情報源のサイトへ
      1891/12 J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。情報源のサイトへ
1892 執筆・報告した「欧州巡回報告書」が陸軍幼年学校と深く関わりをもつことが指摘されている。それによると、彼はドイツにおける軍人教育が皇帝への絶対的な臣従を旨としていることに感銘を受け、日本においてもそれを推進すべきであると主張していたと述べている情報源のサイトへ   1892 兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。情報源のサイトへ
      1892/1/15 西條八十(1892年1月15日〜情報源のサイトへ
      1892/3/1 芥川龍之介(1892年3月1日〜情報源のサイトへ
      1892/4 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17情報源のサイトへ
      1892/4 北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。情報源のサイトへ
      1892/5 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。情報源のサイトへ
      1892/7/8 京都に到着して二泊し情報源のサイトへ
      1892/7/10 神戸で子規と別れて情報源のサイトへ
      1892/7/11 岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する情報源のサイトへ
      1892/8/10 岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う情報源のサイトへ
      1892/12 試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は情報源のサイトへ
      1893 大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める情報源のサイトへ
      1893 帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の情報源のサイトへ
      1893/7 英文科を卒業し、大学院に進学する。情報源のサイトへ
      1893/10 東京高等師範学校の英語嘱託となる。情報源のサイトへ
      1894 初期の肺結核と診断される。情報源のサイトへ
      1894/12/25 水谷まさる(1894年12月25日〜情報源のサイトへ
1895 男爵・陸軍中将情報源のサイトへ   1895 東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた情報源のサイトへ
      1895/4 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。情報源のサイトへ
      1895/4 菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。情報源のサイトへ
      1895/8 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する情報源のサイトへ
      1895/10/21 箕作秋吉(1895年10月21日〜情報源のサイトへ
      1895/12 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。情報源のサイトへ
      1896 熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが情報源のサイトへ
      1896/4 熊本県の第五高等学校講師に就任。情報源のサイトへ
      1896/4 熊本県の第五高等学校講師として赴任する。情報源のサイトへ
      1896/4/19 大中寅二(1896年4月19日〜情報源のサイトへ
      1896/6 鏡子と結婚。情報源のサイトへ
      1896/7 五高教授となる。情報源のサイトへ
      1897/2/6 中村雨紅(1897年2月6日〜情報源のサイトへ
      1897/6 実父直克死去。情報源のサイトへ
      1897/7 妻鏡子流産。情報源のサイトへ
      1897/9 大江村401に転居。情報源のサイトへ
      1897/12/6 堀内敬三(1897年12月6日〜情報源のサイトへ
1898 第4代:1898年 -情報源のサイトへ      
1898 台湾総督情報源のサイトへ      
1898 (1898)に第4代台湾総督に就任した。その間、第4次伊藤内閣の陸相や第1次桂内閣の内相などを兼任情報源のサイトへ      
1898 日露戦争開戦前の1898年情報源のサイトへ      
1898 児玉源太郎は台湾総督に任命されます。そして情報源のサイトへ      
      1898/3 同市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化情報源のサイトへ
      1898/6 寺田寅彦が初めて訪問する。情報源のサイトへ
      1898/7/1 清水かつら(1898年7月1日〜情報源のサイトへ
      1898/11/18 近衛秀麿(1898年11月18日〜情報源のサイトへ
      1899/6 英語科主任となる。情報源のサイトへ
1900 台湾総督のまま陸軍大臣を兼任。そして情報源のサイトへ      
1900 陸軍大臣情報源のサイトへ      
1900 第8代:1900年 -情報源のサイトへ      
1900 第10代:1900年 -情報源のサイトへ      
1900 ミッション経営の盲学校が財政難に陥っていたために、児玉源太郎総督を訪問、盲学校の公立化に好意的な意見を引き出すとともに「援助が必要な時には、どんなことでもミッションの力になる」という言葉をかけてもらっている89)。実際、盲学校は情報源のサイトへ      
      1901/5 池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」情報源のサイトへ
      1901/10/7 村野四郎(1901年10月7日〜情報源のサイトへ
      1902 以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年情報源のサイトへ
      1902 子規が没するまで続く。情報源のサイトへ
      1902/1/29 勝承夫(1902年1月29日〜情報源のサイトへ
      1902/9/19 正岡子規没(享年36)。情報源のサイトへ
      1902/10 スコットランドを旅行。情報源のサイトへ
      1902/11/22 佐伯孝夫(1902年11月22日〜情報源のサイトへ
1903 第21代:1903年 -情報源のサイトへ      
1903 第19代:1903年 -情報源のサイトへ      
1903 内務大臣・文部大臣情報源のサイトへ      
1903 内務大臣を兼任します。しかしこれだけの重任にもかかわらず、さらに文部大臣までも兼任しました情報源のサイトへ      
1903 日露戦争開戦前には内務大臣を務めていたが、 明治36年情報源のサイトへ      
1903 対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する情報源のサイトへ      
      1903/1/21 熊本に入る。情報源のサイトへ
      1903/3 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。情報源のサイトへ
      1903/4 第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。               情報源のサイトへ
1903/5  - 近江巳記夫 - 田中眞紀子 - 浦野烋興 - 中川秀直 - 近岡理一郎 - 谷垣禎一 - 竹山裕 - 有馬朗人 - 中曽根弘文 - 大島理森 - 町村信孝情報源のサイトへ      
      1903/5/23 サトウハチロー 1903年5月23日〜情報源のサイトへ
      1903/6/4 文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒が        情報源のサイトへ
      1903/10 三女栄子誕生情報源のサイトへ
      1903/11/30 暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す情報源のサイトへ
1904 一般に知られている説によれば、明治37年情報源のサイトへ   1904 明治大学の講師も務める。情報源のサイトへ
1904 陸軍大将、参謀本部次長情報源のサイトへ      
1904/1 降伏する。情報源のサイトへ      
1904/1 降服する。情報源のサイトへ      
      1904/4 明治大学講師となる。情報源のサイトへ
1904/8 脳溢血で急逝した(後藤新平らによる暗殺説あり[2])。享年55情報源のサイトへ      
1904/8 脳溢血で急逝した(後藤新平らによる暗殺説あり[2])。享年55情報源のサイトへ      
      1904/9/14 橋本国彦(1904年9月14日〜情報源のサイトへ
1904/12/5 兒玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた情報源のサイトへ      
1904/12/5 児玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた情報源のサイトへ      
1904/12/5 乃木第三軍がついに旅順要塞攻略戦の帰趨を決するニ〇三高地を占領しました。情報源のサイトへ      
      1905 東京帝国大学文学部に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、「木曜会」に参加情報源のサイトへ
      1905/1 「吾輩は猫である」(「ホトトギス」)                     情報源のサイトへ
      1905/1 『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく情報源のサイトへ
      1905/1 『帝国文学』/情報源のサイトへ
      1905/1 吾輩は猫である(1905年1月 -情報源のサイトへ
      1905/3/8 岩佐東一郎(1905年3月8日〜情報源のサイトへ
      1905/4 「幻影の盾」(「ホトトギス」)情報源のサイトへ
      1905/5 「琴のそら音」(「七人」)                          情報源のサイトへ
      1905/7 『七人』/『漾虚集』収録)情報源のサイトへ
      1905/9 「一夜」(「中央公論」)                           情報源のサイトへ
      1905/9 『中央公論』/『漾虚集』収録)情報源のサイトへ
      1905/11 「薤露行」(「中央公論」)情報源のサイトへ
1906 子爵、参謀総長、金鵄勲章功一級情報源のサイトへ   1906 漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日をと定めた。これが後の「木曜会」の起こりである情報源のサイトへ
1906 カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 日本の華族 | 日本の閣僚経験者 | 台湾総督 | 山口県出身の人物 | 西南戦争 | 1852年生 | 1906年没情報源のサイトへ      
1906 1906年)情報源のサイトへ      
      1906/1 「趣味の遺伝」(「帝国文学」)                        情報源のサイトへ
1906/7/21 児玉は体調がすぐれないと主治医多納氏を呼びます。診断したところ熱37度6分はあるが、ただ咳や頭痛もなく食事も平生と変わらないので、主治医は軽い感冒と診たて、とりあえず本日は外出を控えて安静するようにお願いします情報源のサイトへ      
1906/7/23 日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉 源太郞の表記もある情報源のサイトへ      
1906/7/23 日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、現在では通常児玉 源太郎の表記の方が多い情報源のサイトへ      
1906/7/23 日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、兒玉 源太郞の表記もある情報源のサイトへ      
1906/7/23 大軍師児玉源太郎の命日。情報源のサイトへ      
1906/7/23 (1852~1906)情報源のサイトへ      
      1906/8 『ホトトギス』/情報源のサイトへ
      1906/10 10月 「情報源のサイトへ
      1906/10/10 」(「中央公論」)情報源のサイトへ
      1906/12 本郷区西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。情報源のサイトへ
      1906/12/18 高田三九三(1906年12月18日〜情報源のサイトへ
      1907 朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる情報源のサイトへ
      1907/2 一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める情報源のサイトへ
      1907/4 かけて京都・大阪を旅行する。情報源のサイトへ
      1907/5 大倉書店・服部書店)情報源のサイトへ
      1907/5/4 「文芸の哲学的基礎」第1回〜第27回(〜6/4まで)情報源のサイトへ
      1907/7/8 平尾貴四男(1907年7月8日〜情報源のサイトへ
      1907/12/22 長谷川良夫(1907年12月22日〜情報源のサイトへ
      1908/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1908/1 坑夫(1908年1月 -情報源のサイトへ
      1908/3/6 大久保徳二郎(1908年3月6日〜情報源のサイトへ
      1908/4 『朝日新聞』/『草合』収録)情報源のサイトへ
      1908/7 夢十夜(1908年7月 -情報源のサイトへ
      1908/8/13 井田誠一(1908年8月13日〜情報源のサイトへ
      1908/9 「三四郎」(〜情報源のサイトへ
      1908/12 次男伸六誕生情報源のサイトへ
      1909 親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される情報源のサイトへ
      1909/1 「永日小品」(〜情報源のサイトへ
      1909/1 永日小品(1909年1月 -情報源のサイトへ
      1909/5 春陽堂)情報源のサイトへ
      1909/10 中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。情報源のサイトへ
      1909/10 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1909/10 「満韓ところ\/」(〜情報源のサイトへ
      1909/12 『朝日新聞』/『四篇』収録)情報源のサイトへ
      1910 「夏目漱石は1910年情報源のサイトへ
      1910 春陽堂刊『四篇』収録)情報源のサイトへ
      1910/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1910/3 「門」(〜情報源のサイトへ
      1910/8 療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る情報源のサイトへ
      1910/10 容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる情報源のサイトへ
      1910/10 帰京し、長与胃腸病院に入院する。「思い出す事など」(〜情報源のサイトへ
      1910/12/5 清水保雄(1910年12月5日〜情報源のサイトへ
      1911 養父塩原に金を無心される。情報源のサイトへ
      1911 和歌山県会議事堂/情報源のサイトへ
      1911/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1911/2 文学博士号辞退。情報源のサイトへ
      1911/2/21 文学博士号辞退。退院情報源のサイトへ
      1911/2/26 伊藤翁介(1911年2月26日〜情報源のサイトへ
      1911/6 長野へ夫人同行で講演旅行。                         情報源のサイトへ
      1911/8 関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院情報源のサイトへ
      1911/8 関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。情報源のサイトへ
      1911/11/1 池辺三山、朝日文芸欄の廃止によって辞表を提出するが慰留される。情報源のサイトへ
      1911/11/29 雛子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。情報源のサイトへ
      1912/1 彼岸過迄(1912年1月 -情報源のサイトへ
      1912/2/1 渡辺茂(1912年2月1日〜情報源のサイトへ
      1912/4 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1912/9 春陽堂)情報源のサイトへ
      1912/9/13 明治天皇の大喪の礼の日)[1]情報源のサイトへ
      1912/10/3 米山正夫(1912年10月3日〜情報源のサイトへ
      1912/12 行人(1912年12月 -情報源のサイトへ
      1912/12 「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。情報源のサイトへ
      1913 強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る情報源のサイトへ
      1913/3 末 胃潰瘍のため病臥。情報源のサイトへ
      1913/9 「行人」の続編「塵労」を発表情報源のサイトへ
      1913/10/30 北海道から移籍して、東京府平民に戻る。情報源のサイトへ
      1913/11 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1914/1 大倉書店)情報源のサイトへ
      1914/8 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1914/8/31 ち「こゝろ」と改題)情報源のサイトへ
      1914/9 4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく情報源のサイトへ
      1914/9 岩波書店)情報源のサイトへ
      1914/11 講演「私の個人主義」(学習院大学)情報源のサイトへ
      1915/1/13 「硝子戸の中」(〜情報源のサイトへ
      1915/2 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1915/3 岩波書店)情報源のサイトへ
      1915/3 末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥情報源のサイトへ
      1915/9 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1916 糖尿病にも悩まされる。情報源のサイトへ
      1916 カテゴリ: 夏目漱石 | 日本の小説家 | 日本の文芸評論家 | イギリス文学者 | 俳人 | 日本の漢詩人 | 明治時代の人物 | 紙幣の人物 | 朝日新聞社の人物 | 東京都出身の人物 | 1867年生 | 1916年没情報源のサイトへ
      1916/4 糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける情報源のサイトへ
      1916/5/26 「明暗」(〜情報源のサイトへ
      1916/12 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1916/12/9 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助情報源のサイトへ
      1916/12/9 死去 『明暗』は未完に終わる情報源のサイトへ
      1916/12/9 胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。情報源のサイトへ
      1916/12/14 「明暗」の連載が終了する。情報源のサイトへ
      1916/12/28 雑司ヶ谷墓地で埋骨式。情報源のサイトへ

あしたね年表について

このページのトップに戻る