年表トップ > 特集 『坂の上の雲』 > 児玉源太郎
ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。
児玉源太郎(こだまげんたろう)
| 生没 | 1852年~1906年 | カテゴリ | 特集 『坂の上の雲』 明治時代の人物 武士・軍人 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1852年 兒玉 源太郞(こだま げんたろう, 嘉永5年閏 1852年 周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長... 1904年 脳溢血で急逝した(後藤新平らによる暗殺説あり... 1904年 脳溢血で急逝した(後藤新平らによる暗殺説あり... 1906年 カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 日本... |
||
| ライバルや仲間 |
大山巌
秋山真之 乃木希典 伊藤博文 桂太郎 夏目漱石 |
||
Ads by Google
| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1852 |
周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。父とは5歳で死別し、家督を継いだ姉婿に養育された
|
|
| 1852 |
兒玉 源太郞(こだま げんたろう, 嘉永5年閏
|
|
| 1852 |
児玉源太郎(こだま げんたろう, 嘉永5年閏
|
|
| 1852 |
児玉源太郎 生
|
|
| 1852/2/25 |
児玉源太郎(陸軍大臣) [1852年2月25日生]
|
|
| 1870 |
軍曹として陸軍入り
|
|
| 1876 |
熊本鎮台准参謀時の明治9年
|
|
| 1876 |
|
|
| 1877 |
|
|
| 1878 |
頃、 |
|
| 1880 |
歩兵第二連隊長
|
|
| 1889 |
陸軍少将
|
|
| 1890/2/20 |
付で内閣総理大臣 |
|
| 1892 |
執筆・報告した「欧州巡回報告書」が陸軍幼年学校と深く関わりをもつことが指摘されている。それによると、彼はドイツにおける軍人教育が皇帝への絶対的な臣従を旨としていることに感銘を受け、日本においてもそれを推進すべきであると主張していたと述べている
|
|
| 1895 |
男爵・陸軍中将
|
|
| 1898 |
第4代:1898年 -
|
|
| 1898 |
台湾総督
|
|
| 1898 |
(1898)に第4代台湾総督に就任した。その間、第4次伊藤内閣の陸相や第1次桂内閣の内相などを兼任
|
|
| 1898 |
|
|
| 1898 |
児玉源太郎は台湾総督に任命されます。そして
|
|
| 1900 |
台湾総督のまま陸軍大臣を兼任。そして
|
|
| 1900 |
陸軍大臣
|
|
| 1900 |
第8代:1900年 -
|
|
| 1900 |
第10代:1900年 -
|
|
| 1900 |
ミッション経営の盲学校が財政難に陥っていたために、児玉源太郎総督を訪問、盲学校の公立化に好意的な意見を引き出すとともに「援助が必要な時には、どんなことでもミッションの力になる」という言葉をかけてもらっている89)。実際、盲学校は
|
|
| 1903 |
第21代:1903年 -
|
|
| 1903 |
第19代:1903年 -
|
|
| 1903 |
内務大臣・文部大臣
|
|
| 1903 |
内務大臣を兼任します。しかしこれだけの重任にもかかわらず、さらに文部大臣までも兼任しました
|
|
| 1903 |
|
|
| 1903 |
対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する
|
|
| 1903/5 |
- 近江巳記夫 - 田中眞紀子 - 浦野烋興 - 中川秀直 - 近岡理一郎 - 谷垣禎一 - 竹山裕 - 有馬朗人 - 中曽根弘文 - 大島理森 - 町村信孝
|
|
| 1904 |
一般に知られている説によれば、明治37年
|
|
| 1904 |
陸軍大将、参謀本部次長
|
|
| 1904/1 |
降伏する。
|
|
| 1904/1 |
降服する。
|
|
| 1904/8 |
脳溢血で急逝した( |
|
| 1904/8 |
脳溢血で急逝した( |
|
| 1904/12/5 |
兒玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた
|
|
| 1904/12/5 |
児玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた
|
|
| 1904/12/5 |
乃木第三軍がついに旅順要塞攻略戦の帰趨を決するニ〇三高地を占領しました。
|
|
| 1906 |
子爵、参謀総長、金鵄勲章功一級
|
|
| 1906 |
カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 日本の華族 | 日本の閣僚経験者 | 台湾総督 | 山口県出身の人物 | |
|
| 1906 |
1906年)
|
|
| 1906/7/21 |
児玉は体調がすぐれないと主治医多納氏を呼びます。診断したところ熱37度6分はあるが、ただ咳や頭痛もなく食事も平生と変わらないので、主治医は軽い感冒と診たて、とりあえず本日は外出を控えて安静するようにお願いします
|
|
| 1906/7/23 |
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉 源太郞の表記もある
|
|
| 1906/7/23 |
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、現在では通常児玉 源太郎の表記の方が多い
|
|
| 1906/7/23 |
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、兒玉 源太郞の表記もある
|
|
| 1906/7/23 |
大軍師児玉源太郎の命日。
|
|
| 1906/7/23 |
(1852~1906)
|
