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佐久間象山(さくましょうざん)
| 生没 | 1811年~1864年 | カテゴリ | 幕末の人物 芸術家・思想家 |
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| 主なできごと |
1811年 佐久間象山、兵学者(+ 1811年 信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。 1833年 江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に... 1864年 上洛中の将軍家茂の召命により上京、海陸御備向... 1864年 門人吉田松陰のアメリカ密航失敗事件に連座して... |
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| ライバルや仲間 |
吉田松陰
勝海舟 井伊直弼 真田幸村 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1811/2/22 |
佐久間象山、兵学者(+
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| 1811/2/28 |
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
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| 1833 |
江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に |
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| 1839 |
江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
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| 1842 |
ころが天保13年
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| 1842 |
象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。藩主・幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶことになる
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| 1848 |
●幕府、品川に砲台を築造。佐久間象山、初めて洋式大砲を鋳造
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| 1851 |
江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという
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| 1852 |
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| 1852 |
象山に嫁いだので義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった
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| 1853 |
ペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
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| 1854 |
再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は
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| 1854 |
しかし嘉永7年
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| 1862 |
まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
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| 1864 |
象山は一橋慶喜に招かれて入洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)
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| 1864 |
カテゴリ: 日本の文人 | 幕末の人物 | 経世論 | 信濃国の人物 | 長野県の歴史 | 暗殺された人物 | 1811年生 | 1864年没
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| 1864/3 |
上洛中の将軍家茂の召命により上京、海陸御備向手附雇となり、公武合体論と開国進取論の立場から皇族、公卿、諸侯の間を奔走したが、 |
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| 1864/4 |
門人吉田松陰の |
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| 1864/7/11 |
三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54
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| 1864/7/11 |
三条木屋町筋において尊攘派の手により暗殺された。時に54歳
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| 1864/9 |
国元に蟄居を命ぜられ、44歳から52歳までの働き盛りの丸8年間を松代でおくり、その間、蘭書等を読んで知識をひろめた。この間に「省侃(かん:下に言あり)録」を著した
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