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伊達政宗(だてまさむね)

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伊達政宗(だてまさむね)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1567/8/3 伊達政宗(だて まさむね:永禄10年8月3日[ 情報源のサイトへ
1570 中野宗時が輝宗の追討を受けて相馬に逃れる途中、むざむざ白石を通過させたことで輝宗の怒りを買ったが、同様に見逃した高畠城主小梁川盛宗とともに許されている。宗実は伊達政宗に従い 情報源のサイトへ /hiest_soldiers.jpg /4582474322.09._SCLZZZZZZZ_.jpg
1572 輝宗の要請で資福寺(高畠町)の住持となり、伊達政宗の師としても活躍する。した 情報源のサイトへ
1574 夫輝宗が弟中野義時について兄最上義光と戦った際、あるいは 情報源のサイトへ
1577 元服し、置賜を制圧して鎌倉公方の軍勢と互角に渡り合った伊達家中興の祖、9代伊達政宗にあやかって伊達藤次郎政宗と称す。三春城主田村清の娘、愛姫(陽徳院)を妻に娶る 情報源のサイトへ
1577 元服し、藤次郎政宗と名乗る。 情報源のサイトへ
1579 伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという 情報源のサイトへ
1581 隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。 情報源のサイトへ
1584 18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、年少を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった 情報源のサイトへ
1584 若干18歳にて家督を継ぐが 情報源のサイトへ
1584/11/30 二本松義継により父輝宗を拉致され、これを失う。その後勢力を拡大して 情報源のサイトへ
1585 政宗は小手森城へ兵を進める。討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非道な一面を見せた 情報源のサイトへ
1585 家督を相続し、大森城主(福島市)。 情報源のサイトへ
1585/8/30 従五位下美作守となる。 情報源のサイトへ
1585/9 三春訪問の際に伊達政宗と初対面します! 情報源のサイトへ
1585/9/30 蘆名・佐竹・岩城の連合軍と戦う。 情報源のサイトへ
1585/10/6 二本松城の畠山義継が投降。 情報源のサイトへ
1585/10/8 義継が輝宗に謁見した直後、輝宗を人質にし、逃走。 情報源のサイトへ
1585/10/14 伊達政宗に援軍を送ってますwその一方で… 情報源のサイトへ
1586 仙北の小野寺義道が最上に攻め込み、義光の嫡男最上義康らが有屋峠(金山町)で迎え撃った。 情報源のサイトへ
1586 二本松上を接収。 情報源のサイトへ
1586 伊達政宗らに呼応して横手城の小野寺義道が侵攻してきた際は、有屋峠の戦いで小野寺義道と戦った。 情報源のサイトへ
1588 伊達政宗は大崎義隆に謀反した氏家吉を応援して大崎を攻め、義光は大崎義隆を後援したため対立が激化し、中山(上山市)で最上・伊達両軍が対峙するが義光の妹で政宗の母、義姫が両軍の間に居座り、最上と伊達を講和させた。一方、庄内では越後に逃れた武藤義勝(義興養子)が本庄繁長(義勝実父、上杉家臣)とともに庄内を攻撃 情報源のサイトへ
1589 会津・蘆名氏を摺上原合戦で破り、近隣諸家を尽く勢力下に置いた。しかし、羽柴秀吉小田原征伐に際してこれに参陣し、会津等所領の大半を失う 情報源のサイトへ
1589 芦名家が伊達政宗に滅ぼされると浪人となり、越後に逃れて木戸玄斎に仕えた。のちに上杉景勝に近侍し、景勝の信頼を得て重用される 情報源のサイトへ
1589/5/30 蘆名氏滅亡会津に支配下を置く 情報源のサイトへ
1590 秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)。記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させた 情報源のサイトへ /meoto28.jpg /meoto29_1.jpg /sounji02_thumb.JPG
1591/3 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる 情報源のサイトへ /51.20.katumoro10.jpg /dsc_0178a.jpg
1595 秀吉から謀反の疑いをかけられた関白豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう 情報源のサイトへ
1600 家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して 情報源のサイトへ
1600 直江兼続率いる上杉軍に攻められた際、伊達政宗に援軍を要請に行き、援軍を連れて帰る。さらに撤退する上杉軍追撃を行った 情報源のサイトへ /eguchi.jpg /ieyasu.jpg
1600/7/25 上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった 情報源のサイトへ /sekigahara-s.jpg /PICT65471.jpg /073.jpg /edo_mori.jpg
1600/9/25 茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。 情報源のサイトへ
1600/10/6 宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い) 情報源のサイトへ /eguchi.jpg /ieyasu.jpg /jap40a.jpg /rifushiro-hon1g.JPG
1601/1 家臣水谷胤重の勧めで伊達政宗と一緒に上杉領へ侵攻します!! 情報源のサイトへ
1601/4 敗北)。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした 情報源のサイトへ
1602 仙台城を築き、拠点地とする。以後新田開発の奨励、行政区分の整備、キリストの保護などした 情報源のサイトへ
1613 仙台領内において、エスパーニャ帝国国王フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣使節) 情報源のサイトへ
1613 伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年 情報源のサイトへ
1613 家臣支倉常長をローマ教皇のもとへ派遣(慶長遣使節)。 情報源のサイトへ
1615 大阪夏の陣で徳川方につき奮戦。 情報源のサイトへ
1628 頃…白髪で江戸登城した際に入れ違いで伊達政宗が退出してきたんですよ!!その時に伊達政宗は輿にはすぐに乗らずにしばらく立ったまま義胤を見送ったんです!これを見て若い頃の伊達政宗を思い出して孫虎之助に向かって「若い者は朝夕交わる中でも気を抜かずに用心すべきだぞ!!」と忠告したと言われてますw 情報源のサイトへ
1628 白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した 情報源のサイトへ
1628/1/30 も。日本の神かけて毒などにて 情報源のサイトへ
1628/2/30 事なり 情報源のサイトへ
1628/3/12 政宗は徳川秀忠仙台江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた 情報源のサイトへ /RIMG0332.JPG
1636/5/24 江戸桜田邸で没する。 情報源のサイトへ
1636/6/27 戦国時代の武将。)と陸奥国(奥)の戦国大名 情報源のサイトへ

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