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今川義元(いまがわよしもと)

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今川義元(いまがわよしもと)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1519 建設)を中心に城下町が整備され強力な軍勢を組織しており 情報源のサイトへ
1519 今川氏親の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる今川氏輝がいたため、4歳で仏門に出されて臨済宗の駿河富士瀬古の善徳寺に預けられ、栴岳承(せんがくしょうほう(梅岳承(ばいがくしょうほう)は誤伝))と称し教育係につけられた今川家重臣出身の禅僧・太原雪斎とともに京都に上って五山に学んだ 情報源のサイトへ
1521 駿河・遠江軍を率いて甲斐に進攻。「上条河原の合戦」に敗北し戦死 情報源のサイトへ
1521 遠江国曳馬城の斯波義達を討ち、遠江国を統一する。 情報源のサイトへ
1521/11/3 甲斐国守護・武田信虎と正室・大井夫人との間の子として誕生しました。晴信の父である武田信虎(のぶとら, 1494-1574)は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点として甲斐国を統一することに成功しており、甲斐の有力国人層の大半が信虎へ帰属していました 情報源のサイトへ /singen.gif /singen.jpg /travel-urabe14l.jpg
1522 (4歳) 情報源のサイトへ
1523 13歳で家督相続。山中城主・西郷信貞を破り、叔父・福釜・桜井信定・東条義春・藤井利長を従え西三河の領主 情報源のサイトへ
1524 山内上杉氏・扇谷上杉氏・後北条氏(北条氏綱)と戦闘を行い、信濃国への進出の機会を伺っていました。武田信虎は 情報源のサイトへ
1524 両国で検地を実施 情報源のサイトへ
1526 「分国法」を定め、戦国的領内経営を進める。駿府に海道一の城下町を作り、友野・松木という有力商人を育てた 情報源のサイトへ
1526/4 戦国時代の分国法として有名な『今川仮名目録』を作成したことで知られますが、『今川仮名目録』は今川宗家の分家・家臣に対する権限(指令権・立法権)を強化する目的で制作されました。武田氏(武田信虎)と北条氏(北条氏綱)との間では頻繁に戦闘が行われていましたが、甲駿同盟の成立によって相駿同盟(北条・今川の同盟関係)が崩れることとなり、北条氏綱は今川義元の駿河に進撃を加えます 情報源のサイトへ /20081020005_DAT_20081020192046001.jpg /20090127003_DAT_20090127140644008.jpg
1527 和睦していましたが 情報源のサイトへ
1529 「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。尾張品野城主 情報源のサイトへ
1529 東三河の牧野氏を降し、田原城主・戸田康光、作手城主・奥平氏、長篠城主・菅沼氏を降す。 情報源のサイトへ
1530 宇利城主熊谷忠重、広瀬城主三宅氏、寺部城主鈴木氏を降す。 情報源のサイトへ
1530 山内上杉氏の上杉憲房(のりふさ,1467-1525)の後室を側室としていますが、子の武田晴信(信玄)も扇谷上杉氏の上杉朝興(ともおき,1488-1537)の娘と 情報源のサイトへ
1530/1/21 越後守護代・長尾為景(ためかげ)の四男(又は三男)・虎千代として生まれた長尾景虎は、元服すると周囲の国人から擁立されて家督を継いだ兄の長尾晴景(はるかげ,1509-1553)と対立することになり、最終的に主君の上杉定実の仲介で晴景の養子となった景虎が長尾氏の家督を継承することになります。19歳で家督を継いだ長尾景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入りますが 情報源のサイトへ /kenshin.jpg /Pb170126_1.jpg
1531 (13歳) 情報源のサイトへ
1533 婚姻関係を結んで関東との結びつきを強めています。武田晴信の『晴』の文字は、12代将軍・足利義晴から偏諱を賜ったもので幼名は勝千代(かつちよ)といいました 情報源のサイトへ
1535 (17歳) 情報源のサイトへ
1535 守山崩れと呼ばれる内紛で阿部弥七郎正豊に突如斬殺されてしまいます。三河の内部分裂に勝機を見出した織田信秀(1510-1551)は、三河に進軍して 情報源のサイトへ /02_01daiju.jpg /02_01daiju.jpg
1535 「守山崩れ」に親・信定派。息・真乗(1553〜1582) 情報源のサイトへ
1535 氏輝は相模の北条氏綱と連携して再び甲斐の武田信虎を攻めてきました。今川氏輝は武勇に優れた武将でしたが 情報源のサイトへ
1535/12 美濃と結び尾張乱入。守山に向かうが守山崩れで死亡 情報源のサイトへ
1536 (18歳) 情報源のサイトへ
1536 24歳の若さで死去します。氏輝には嗣子が無かったため、弟の今川義元と玄広恵探(げんこうえたん,良真)の間で後継者争い(花倉の乱)が生じましたが、信虎は義元を支援して駿河守護・今川氏の家督を継がせました 情報源のサイトへ /img013.jpg /ujiyasu.jpg
1536 花倉の乱」に義元を家督に擁立。 情報源のサイトへ /img013.jpg /ujiyasu.jpg
1536 家督を継承する。蒲原城主 情報源のサイトへ
1536/3 弟とともに屋敷で生害される。 情報源のサイトへ
1537 不在時に岡崎城を奪取される。家老・石川康長、その息・石川康利、康定兄弟は殺害される 情報源のサイトへ
1537 武田家に臣従。 情報源のサイトへ
1537 死去して幼少の上杉定(ともさだ,1525-1546)が家督を継ぐと、そのチャンスを逃さずに川越城も陥落させます。 情報源のサイトへ
1537 今川義元の協力で岡崎奪取。 情報源のサイトへ
1537 松平信定を追い、流浪の松平広忠を岡崎城に戻す。 情報源のサイトへ
1537 (19歳) 情報源のサイトへ
1537/2 氏輝期までの抗争状態にあった甲斐国の守護武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結んだ(甲駿同盟)。甲駿同盟の成立は旧来の縁戚であった伊豆静岡県伊豆地方)・相模神奈川県西南部)を領する北条氏との駿相同盟決裂を招き、北条氏綱が駿河河東郡吉原に侵攻する(河東の乱情報源のサイトへ /96b0e790d1aa885ff08d_ll.JPG
1537/2 武田信虎の娘婿となり同盟。親武田、反北条路線 情報源のサイトへ
1540 さらに、尾張愛知県西部)の織田信秀が天文9年 情報源のサイトへ
1540 から三河(愛知県東部)に対して侵攻を開始する。このため、義元は三河の諸豪族と連合して 情報源のサイトへ
1540 拠点の安祥城が落とされて矢作川以西を信秀に奪われます。 情報源のサイトへ
1540/6 織田信秀が三河「安祥城攻略」。のち織田家に臣従し、親今川の宗家・松平広忠を岡崎より追う 情報源のサイトへ
1540/6 信秀に従い安城長家(親忠の息)を討つ。碧海郡筒針村 情報源のサイトへ
1541 海野平合戦による滋野一族の打倒など)。 情報源のサイトへ /96b0e790d1aa885ff08d_ll.JPG
1541/6/14 板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)、飯富虎昌(おぶとらまさ)など譜代家臣からの支持を取り付けた武田晴信(武田信玄)が父親の信虎を甲州から追放したのでした。故国の甲斐を追放された武田信虎は駿河の今川義元を頼って落ちていき、武田晴信が武田氏の家督と甲斐守護の官職を継承しました 情報源のサイトへ /080614.jpg /hirashiogenji.jpg
1542 信秀と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れた(第1次小豆坂の戦い)。ただしこの戦いを創作とする説もあり、その場合は第2次小豆坂の戦いのみが存在する事になる 情報源のサイトへ
1542 信濃・諏訪に攻め込んだ晴信(信玄)は、諏訪頼重を謀略にかけて降伏させその後に自害に追い込みます。諏訪上社大祝(すわかみしゃおおほふり)の諏訪氏を滅亡させ、拠点の上原城を取った晴信は、上原城に家臣の板垣信方を諏訪郡代として送り込みます 情報源のサイトへ
1542 松平信孝に従い叛乱。 情報源のサイトへ
1542 頃三木城を広忠派に奪取され、織田信秀を頼り大岡城主上和田城に松平忠倫 情報源のサイトへ
1543 上和田城主。 情報源のサイトへ
1543 水野信元が織田に臣従したため水野氏の妻を離縁。 情報源のサイトへ
1545 同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信(信玄)の仲介により、北条家の河東郡今川家に返還するという義元に有利な条件で和睦した 情報源のサイトへ
1545 頃家督継承。 情報源のサイトへ
1545 扇谷上杉家の上杉定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の『北条包囲網』を切り崩して、定を討死させて晴氏に古河公方を引退させましたが、上杉憲政(のりまさ,1523-1579)は越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を求めて落ち延びていきました 情報源のサイトへ /sunakubo.JPG /top_gankaiji.jpg
1545/9 三河「安祥城攻囲」、織田援軍に敗戦。 情報源のサイトへ
1546 北条氏康(うじやす,1515-1571)と河の戦いを戦った上杉定は22歳の若さで討死しました(扇谷上杉氏の滅亡)。氏康に敗れた古河公方・足利晴氏も強引に子の足利義氏(よしうじ,1541-1583)に譲位させられ、古河公方は実質的に北条氏の傀儡の地位に落ちていきます 情報源のサイトへ /spc_blue.jpg /middle_1195819632.jpg /Pa003767.jpg /image68.jpg
1546 義元の命で東三河攻略の先陣を務め「吉田城攻略」。 情報源のサイトへ
1546/10 石川式部とともに今川軍に従い「吉田城攻撃」。 情報源のサイトへ
1547 織田信秀から「三河切り取り次第」の許可。 情報源のサイトへ
1547 田原城主・戸田康光、政直親子(宗光、尭光親子とも)の謀略で竹千代が織田信秀に奪取される。のち三河広瀬城主・佐久間全孝の刺客・岩松八弥に殺害される 情報源のサイトへ
1547 分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めています。武田晴信は怒涛の勢いで信州の諏訪地方に続いて佐久地方も占領しますが 情報源のサイトへ
1547 三河侵攻に従軍。 情報源のサイトへ
1547 「田原城攻囲」。安祥城主 情報源のサイトへ
1548 義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した(第2次小豆坂の戦い)。 情報源のサイトへ
1548 先陣として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」に軍功、敗色を覆す横槍を入れる。良綱弟の系統が左京進家 情報源のサイトへ
1548 (30歳) 情報源のサイトへ
1548/2 信濃の有力国人である村上義清と『上田原の戦い』で衝突して大敗を喫してしまい、重臣の板垣信方や甘利虎康などを失ってしまいました。 情報源のサイトへ /021ueda.jpg /b05.jpg
1549 今川義元が織田信秀方の安祥城を攻め落として信秀の子・織田信広(のぶひろ,生年不詳-1574)を人質にし、信広と竹千代を交換して竹千代は本来の今川義元方の人質になりました。松平広忠が死去すると三河地方も今川義元の勢力下に組み入れられ、信秀が死んで『大うつけ』と呼ばれた織田信長が家督を継ぐと、義元は今が好機とばかりに尾張制覇(信長打倒)の野心を持ち始めます 情報源のサイトへ
1549 松平広忠暗殺事件後、親今川派として岡崎奉行。<植村氏明と阿部弥七、松平清康の三人でいる時に2名が殺害される 情報源のサイトへ
1549/11/30 義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた 情報源のサイトへ
1550 信州の国人の小笠原長時を打ち破って拠点の林城を奪い取り、長時は村上義清の元へと落ち延びていきますが、村上義清の支城である砥石城(といしじょう)を攻めた晴信は再び義清に敗北してしまいます。しかし、真田幸隆(幸綱)の策略によって砥石城を陥落させると武田晴信の優勢が確定し 情報源のサイトへ
1550 実子がいなかった主君の上杉定実が死去すると、将軍・足利義輝の指示で長尾景虎が越後守護の官職に任命されました。 情報源のサイトへ
1551 織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。 情報源のサイトへ
1551 氏康によって興国寺城を奪われたものの、すぐに奪還して黄瀬川を国境としている。 情報源のサイトへ
1551 頃から山口氏の要請により、岡部・浅井・飯尾・葛山とともに五将で尾張に出征。 情報源のサイトへ
1552 「今川仮名目録」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。後にこの政策は江戸幕府を開府した徳川家康によって踏襲されている 情報源のサイトへ /gyoukakuhonbu.JPG /teigen.jpg
1552 越後守護の長尾景虎に助けを求めてくると、景虎は北条氏を攻めて平井城を奪還し憲政に返上しました。上杉謙信情報源のサイトへ /middle_1190326356.jpg /tama_02.jpg /aoyagijou_kamurikimon-thumb.jpg /img_0900jpg.jpg /img127.jpg
1552/11 今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり 情報源のサイトへ
1553 多方面に才覚を発揮したが、特に内政面において辣腕を振るい、天文22年 情報源のサイトへ
1553 亡父の定めた今川仮名目録に追加法を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。 情報源のサイトへ
1553 今川仮名目録。 情報源のサイトへ
1553 晴信は村上義清を攻撃して打ち破ります。敗れた村上義清は、拠城の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ちていきますが、これが日本史上もっとも有名な戦いである『川中島の戦い』の遠因となります 情報源のサイトへ /gyodah-kensin.jpeg /1i4Nb6oJ.jpg /39.jpg
1553 武田晴信(武田信玄)の信濃侵攻によって領地を奪われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)ら信濃の有力国人が、旧領回復を求めて上杉謙信のもとへ落ちてきます。信濃国人と長年の交流関係があった上杉謙信は、『信玄の不条理な侵略(国人の領地の簒奪)』を許すことはできないとして『川中島の戦い』に出陣します 情報源のサイトへ /gyodah-kensin.jpeg /1i4Nb6oJ.jpg /39.jpg
1553/4 川中島の戦い(川中島合戦)は、『1553年4月・ 情報源のサイトへ /39.jpg
1554 武田晴信の援軍として信濃に派遣される。 情報源のサイトへ
1554 三河田原城攻略」に戦死。 情報源のサイトへ
1554 三国同盟の成立に尽力する。60歳 情報源のサイトへ
1554 今川義元に攻略され降服。 情報源のサイトへ
1554/7 北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ 情報源のサイトへ
1554/12 武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことで、三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立しました。 情報源のサイトへ /4-01.JPG /header.jpg /kaiken0806262.jpg /01_03_07_00_c027.jpg
1555 尾張「蟹江の合戦」に軍功。兄とともに旗本の旗頭となり、今川領平定に活躍 情報源のサイトへ
1555 大原雪斎が死去するまでその薫陶をうけるという。 情報源のサイトへ
1555 三河に移住する。今川義元に出仕し遠江国頭陀寺城主 情報源のサイトへ
1555/3 松平元康(元信)元服に立会。娘(築山殿)婿に迎える 情報源のサイトへ
1556 臣従。家康の「康」の字を拝領 情報源のサイトへ
1556/6 出家すると宣言して、高野山(または比叡山)で隠遁しようとしますが、家臣に引き止められて再び北条氏征伐と武田氏討伐の戦いの日々に明け暮れることになります。 情報源のサイトへ
1557 朝比奈泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。 情報源のサイトへ
1557 関東管領・上杉憲政は長尾景虎を養子としており 情報源のサイトへ
1557 関口氏広の婿。 情報源のサイトへ
1557 16歳で出仕、三河一向一揆に参加する。数々の軍功によりのちに「槍の半蔵」の異名 情報源のサイトへ /ikkouikki-p.jpg /pic127.gif
1558 松平元康初陣に従軍。父、正親の遺領を継ぎ西尾城主 情報源のサイトへ
1558 臣従。15歳で家康の「康」の字を拝領 情報源のサイトへ
1558 からは氏真と政務の分担を図っている。駿河・遠江・三河で検地も実施している 情報源のサイトへ
1558 織田に通じた三河寺部城主、鈴木重辰を攻撃。広瀬城主、佐久間平兵衛を攻撃 情報源のサイトへ
1558 家督を譲られる。 情報源のサイトへ
1558 初陣、寺部城・鈴木重教を攻撃。援軍にきた織田信長と初対戦 情報源のサイトへ /img995kawajirie.jpg /ukino2.jpg
1558 今川義元に出仕し同朋衆。氏真の代に海賊奉行となる 情報源のサイトへ
1558 松平元康初陣に従軍。織田家との同盟に尽力する 情報源のサイトへ
1558 松平元康初陣に従軍。息子・重利は1560討死 情報源のサイトへ
1559 鵜殿長照の為に尾張大高城に兵糧を搬入。 情報源のサイトへ
1559 大高救援に活躍。 情報源のサイトへ
1559 山口氏に代わり鳴海入城。最前線の尾張鳴海城主 情報源のサイトへ
1559/4 京都に上洛して奈良天皇と13代将軍・足利義輝に謁見を果たしており、北条氏を牽制するための関東進出と、北信の国人(村上・高梨ら)の旧領復帰・信玄討伐に対する大義名分を得ようとしたようです。上杉謙信は13代将軍・義輝に忠誠を誓い、関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)に認められることで、三管領家(斯波・細川・畠山)に次ぐ身分上の特権を得ることにも成功しました 情報源のサイトへ /4.jpg /20061124224839.jpg
1560 「大高城救援」に従軍。 情報源のサイトへ
1560 「桶狭間の合戦」に戦死した長沢松平政忠の息。清康娘が母で、広忠娘と婚姻する 情報源のサイトへ
1560 徳川家に服従。酒井忠次の配下で遠江攻略に尽力 情報源のサイトへ
1560 織田丸根砦攻略に従軍。家康の「家」の字を拝領する 情報源のサイトへ
1560 織田丸根砦を今川軍の先鋒として攻撃。 情報源のサイトへ /ikkouikki-p.jpg /pic127.gif
1560 「桶狭間の合戦」に従軍戦死。 情報源のサイトへ
1560 丸根砦攻略」、三河一向一揆鎮圧戦に軍功。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる 情報源のサイトへ /ikkouikki-p.jpg /pic127.gif
1560 「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」 情報源のサイトへ
1560 善四郎・正親丸根砦攻略に戦死。元一向宗 情報源のサイトへ
1560 徳川家康が兵糧入れに入場。弟に鵜殿長忠 情報源のサイトへ /douzou.jpg /pic124.jpg
1560 丸根砦の佐久間盛重を攻略。のち独立、旧領三河・岡崎城を奪取する 情報源のサイトへ
1560 桶狭間の戦い』で今川義元はあっけなく織田信長に敗れて首級を挙げられますが、大名としての格・領土の広さ・集められる軍勢の数では圧倒的に義元のほうが有利な状況にありました。 情報源のサイトへ /oke1.jpg /poster.jpg /14banura.jpg /douzou.jpg
1560 「鷲津砦攻略」。織田秀敏、飯尾定宗を討つ 情報源のサイトへ
1560 カテゴリ: 今川氏 | 守護大名 | 戦国大名 | 還俗した人物 | 静岡県の歴史 | 愛知県の歴史 | 中部地方の歴史 | 駿河国の人物 | 臨済系仏教 | 1519年生 | 1560年没 情報源のサイトへ
1560 松平元康の丸根襲撃に従軍し戦死。> 情報源のサイトへ
1560 桶狭間にて討死。 情報源のサイトへ /douzou.jpg /pic124.jpg
1560 「桶狭間」に先陣として出陣。叔父・直満の後見で、従兄弟の直親が家督継承 情報源のサイトへ
1560 2万7千の大軍を率いて上洛を図る(尾張攻略のみとも)が、桶狭間において雨の中休息中、尾張織田信長に奇襲を受け、自ら太刀を振るって戦うが、その臣毛利新介に討たれた。享年42歳 情報源のサイトへ /14banura.jpg /douzou.jpg
1560 「桶狭間の合戦」以降、三河国にて今川勢力として奮闘するが父は戦死し、弟とともに捕虜となる。人質交換として徳川信康が解放され、今川家に戻る 情報源のサイトへ
1560/1 長得 情報源のサイトへ
1560/5 (享年42歳) 情報源のサイトへ

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