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今川義元(いまがわよしもと)
| 生没 | 1519年~1560年 | カテゴリ | 戦国時代の人物 武士・軍人 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1519年 今川氏親の五男として生まれる。生まれたときは... 1521年 甲斐国守護・武田信虎と正室・大井夫人との間の... 1537年 氏輝期までの抗争状態にあった甲斐国の守護武田... 1546年 北条氏康(うじやす,1515-1571)と河... 1552年 越後守護の長尾景虎に助けを求めてくると、景虎... |
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| ライバルや仲間 |
武田信玄
徳川家康 織田信長 豊臣秀吉 上杉謙信 斉藤道三 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1519 |
建設)を中心に城下町が整備され強力な軍勢を組織しており
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| 1519 |
今川氏親の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる今川氏輝がいたため、4歳で仏門に出されて臨済宗の |
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| 1521 |
駿河・ |
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| 1521 |
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| 1521/11/3 |
甲斐国守護・武田信虎と正室・ |
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| 1522 |
(4歳)
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| 1523 |
13歳で家督相続。山中城主・西郷信貞を破り、叔父・ |
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| 1524 |
山内上杉氏・扇谷上杉氏・後北条氏(北条氏綱)と戦闘を行い、信濃国への進出の機会を伺っていました。武田信虎は
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| 1524 |
両国で検地を実施
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| 1526 |
「分国法」を定め、戦国的領内経営を進める。 |
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| 1526/4 |
戦国時代の分国法として有名な『今川仮名目録』を作成したことで知られますが、『今川仮名目録』は今川宗家の分家・家臣に対する権限(指令権・立法権)を強化する目的で制作されました。武田氏(武田信虎)と北条氏(北条氏綱)との間では頻繁に戦闘が行われていましたが、甲駿同盟の成立によって相駿同盟(北条・今川の同盟関係)が崩れることとなり、北条氏綱は今川義元の駿河に進撃を加えます
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| 1527 |
和睦していましたが
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| 1529 |
「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。 |
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| 1529 |
東三河の牧野氏を降し、田原城主・戸田康光、作手城主・奥平氏、 |
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| 1530 |
宇利城主熊谷忠重、広瀬城主三宅氏、 |
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| 1530 |
山内上杉氏の上杉憲房(のりふさ,1467-1525)の後室を側室としていますが、子の武田晴信(信玄)も扇谷上杉氏の上杉朝興(ともおき,1488-1537)の娘と
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| 1530/1/21 |
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| 1531 |
(13歳)
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| 1533 |
婚姻関係を結んで |
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| 1535 |
(17歳)
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| 1535 |
守山崩れと呼ばれる内紛で阿部弥 |
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| 1535 |
「守山崩れ」に親・信定派。息・真乗(1553〜1582)
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| 1535 |
氏輝は |
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| 1535/12 |
美濃と結び |
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| 1536 |
(18歳)
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| 1536 |
24歳の若さで死去します。氏輝には嗣子が無かったため、弟の今川義元と玄広恵探(げんこうえたん,良真)の間で後継者争い( |
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| 1536 |
「 |
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| 1536 |
家督を継承する。蒲原城主
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| 1536/3 |
弟とともに屋敷で生害される。
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| 1537 |
不在時に |
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| 1537 |
武田家に臣従。
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| 1537 |
死去して幼少の上杉 |
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| 1537 |
今川義元の協力で岡崎奪取。
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| 1537 |
松平信定を追い、流浪の松平広忠を |
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| 1537 |
(19歳)
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| 1537/2 |
氏輝期までの抗争状態にあった甲斐国の守護武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結んだ(甲駿同盟)。甲駿同盟の成立は旧来の縁戚であった |
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| 1537/2 |
武田信虎の娘婿となり同盟。親武田、反 |
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| 1540 |
さらに、 |
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| 1540 |
から三河( |
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| 1540 |
拠点の安祥城が落とされて矢作川以西を信秀に奪われます。
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| 1540/6 |
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| 1540/6 |
信秀に従い |
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| 1541 |
海野平合戦による滋野一族の打倒など)。
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| 1541/6/14 |
板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)、 |
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| 1542 |
信秀と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れた( |
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| 1542 |
信濃・諏訪に攻め込んだ晴信(信玄)は、諏訪頼重を謀略にかけて降伏させその後に自害に追い込みます。諏訪上社大祝(すわかみしゃおおほふり)の諏訪氏を滅亡させ、拠点の上原城を取った晴信は、上原城に家臣の板垣信方を諏訪郡代として送り込みます
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| 1542 |
松平信孝に従い叛乱。
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| 1542 |
頃三木城を広忠派に奪取され、織田信秀を頼り |
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| 1543 |
上和田城主。
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| 1543 |
水野信元が織田に臣従したため水野氏の妻を離縁。
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| 1545 |
同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信(信玄)の仲介により、北条家の |
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| 1545 |
頃家督継承。
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| 1545 |
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| 1545/9 |
三河「安祥城攻囲」、織田援軍に敗戦。
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| 1546 |
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| 1546 |
義元の命で東三河攻略の先陣を務め「吉田城攻略」。
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| 1546/10 |
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| 1547 |
織田信秀から「三河切り取り次第」の許可。
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| 1547 |
田原城主・戸田康光、政直親子(宗光、尭光親子とも)の謀略で竹千代が織田信秀に奪取される。のち |
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| 1547 |
分国法である『 |
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| 1547 |
三河侵攻に従軍。
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| 1547 |
「田原城攻囲」。安祥城主
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| 1548 |
義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実 |
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| 1548 |
先陣として |
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| 1548 |
(30歳)
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| 1548/2 |
信濃の有力国人である村上義清と『 |
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| 1549 |
今川義元が織田信秀方の安祥城を攻め落として信秀の子・織田信広(のぶひろ,生年不詳-1574)を人質にし、信広と竹千代を交換して竹千代は本来の今川義元方の人質になりました。松平広忠が死去すると三河地方も今川義元の勢力下に組み入れられ、信秀が死んで『大うつけ』と呼ばれた |
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| 1549 |
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| 1549/11/30 |
義元が |
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| 1550 |
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| 1550 |
実子がいなかった主君の上杉定実が死去すると、将軍・ |
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| 1551 |
織田信秀が死去すると |
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| 1551 |
氏康によって興国寺城を奪われたものの、すぐに奪還して黄瀬川を国境としている。
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| 1551 |
頃から山口氏の要請により、岡部・浅井・飯尾・葛山とともに五将で |
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| 1552 |
「今川仮名目録」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、 |
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| 1552 |
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| 1552/11 |
今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり
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| 1553 |
多方面に才覚を発揮したが、特に内政面において辣腕を振るい、天文22年
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| 1553 |
亡父の定めた今川仮名目録に追加法を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた守護使 |
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| 1553 |
今川仮名目録。
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| 1553 |
晴信は村上義清を攻撃して打ち破ります。敗れた村上義清は、拠城の |
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| 1553 |
武田晴信( |
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| 1553/4 |
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| 1554 |
武田晴信の援軍として信濃に派遣される。
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| 1554 |
「 |
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| 1554 |
三国同盟の成立に尽力する。60歳
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| 1554 |
今川義元に攻略され降服。
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| 1554/7 |
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| 1554/12 |
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| 1555 |
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| 1555 |
大原雪斎が死去するまでその薫陶をうけるという。
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| 1555 |
三河に移住する。今川義元に出仕し |
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| 1555/3 |
松平元康(元信)元服に立会。娘(築山殿)婿に迎える
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| 1556 |
臣従。家康の「康」の字を拝領
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| 1556/6 |
出家すると宣言して、 |
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| 1557 |
朝比奈泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。
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| 1557 |
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| 1557 |
関口氏広の婿。
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| 1557 |
16歳で出仕、 |
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| 1558 |
松平元康初陣に従軍。父、 |
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| 1558 |
臣従。15歳で家康の「康」の字を拝領
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| 1558 |
からは氏真と政務の分担を図っている。駿河・遠江・ |
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| 1558 |
織田に通じた |
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| 1558 |
家督を譲られる。
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| 1558 |
初陣、 |
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| 1558 |
今川義元に出仕し同朋衆。氏真の代に海賊奉行となる
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| 1558 |
松平元康初陣に従軍。織田家との同盟に尽力する
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| 1558 |
松平元康初陣に従軍。息子・重利は1560討死
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| 1559 |
鵜殿長照の為に |
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| 1559 |
大高救援に活躍。
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| 1559 |
山口氏に代わり |
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| 1559/4 |
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| 1560 |
「大 |
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| 1560 |
「桶狭間の合戦」に戦死した長沢松平政忠の息。清康娘が母で、広忠娘と婚姻する
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| 1560 |
徳川家に服従。 |
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| 1560 |
織田 |
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| 1560 |
織田 |
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| 1560 |
「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
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| 1560 |
「 |
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| 1560 |
「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」
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| 1560 |
善四郎・ |
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| 1560 |
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| 1560 |
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| 1560 |
『 |
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| 1560 |
「鷲津砦攻略」。織田秀敏、 |
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| 1560 |
カテゴリ: 今川氏 | 守護大名 | 戦国大名 | 還俗した人物 | |
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| 1560 |
松平元康の |
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| 1560 |
桶狭間にて討死。
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| 1560 |
「桶狭間」に先陣として出陣。叔父・直満の後見で、従兄弟の直親が家督継承
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| 1560 |
2万7千の大軍を率いて上洛を図る( |
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| 1560 |
「桶狭間の合戦」以降、 |
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| 1560/1 |
長得
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| 1560/5 |
(享年42歳)
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