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今川氏親(いまがわうじちか)

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年月日 できごと 写真
1473 北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。 情報源のサイトへ
1476 父義忠が遠江国で一揆に襲われ戦死。王丸はまだ幼少だったため、家臣の三浦氏、朝比奈氏らが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して家督争いが起こり、王丸派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態になる 情報源のサイトへ
1479 伊勢新九郎は幕府に申請して前将軍足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を得ている。 情報源のサイトへ
1487 北川殿と龍王丸で将軍義尚に仕えていた伊勢新九郎盛時に助けを求め、盛時は再び駿河国へ下向。 情報源のサイトへ
1487 今川氏親への家督相続が行われた。氏親は、守護代となった盛時に支えられ当主の宗主権強化に努める 情報源のサイトへ
1487/10 龍王丸は大名で初めての印判状の文書を発給している(定着はせず、後に通常の花押を用いるようになっている)。 情報源のサイトへ
1487/11 伊勢新九郎は石脇城焼津市)を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺した。龍王丸駿河館に入って元服して氏親と名乗り、今川家の当主となった 情報源のサイトへ
1493 堀越公方に内紛が起き、明応2年 情報源のサイトへ
1493 将軍義澄の命により、伊勢新九郎(以後、北条早雲とする)は足利茶々丸を討伐して、伊豆国を手中にした。氏親も早雲に兵を貸してこれを助けている 情報源のサイトへ /jap34c.jpg /spc_blue.jpg
1494 遠江国への侵攻の兵を率いたのは早雲で、明応3年 情報源のサイトへ
1494 頃から始まり、遠江国中部まで勢力下に収めた。この時には氏親は未だに遠江守護ではなかったものの、独自の立場で検地を行って守護斯波氏による支配体制を否認した 情報源のサイトへ
1496 ■そうして、東を攻めつつ早雲は今川氏・今川氏親の意向に沿い、明応5年 情報源のサイトへ
1501 早雲は更に兵を進めて文亀年間(1501年- 情報源のサイトへ
1503 冬、甲斐武田信懸は今川氏親より『太平記』を借写させたが、あまり善本ではなかったので、伊豆の伊勢新九郎所持本を借用して書写させたという。 情報源のサイトへ
1504 一方、氏親は早雲の関東進出にも協力して両上杉合戦に介入、扇谷上杉氏に味方して山内上杉氏と戦い、永正元年 情報源のサイトへ
1504 三河国岩津城の松平氏を攻めているほか、甲斐国都留郡にも出兵して郡内領主小山田氏や守護武田氏と戦っている。 情報源のサイトへ
1505 頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える。 情報源のサイトへ
1507/5/26 今川氏親に玄清、宗長を通して『伊勢物語』を遣わす。 情報源のサイトへ
1508 氏親は幕府に願い正式に遠江守護に任じられ、遠江国支配の大義名分を得た。 情報源のサイトへ
1508 再び早雲率いる今川軍が三河国へ侵攻して、松平長親と戦った。 情報源のサイトへ
1509 以降は早雲の今川家の武将として活動がなくなる。この頃に早雲は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる 情報源のサイトへ
1509 分国法「今川仮名目録」33ヶ条を制定している。 情報源のサイトへ
1511 尾張守護斯波義達が今川方の刑部城浜松市)を攻め、氏親が出陣してこれを退けた。斯波義達はなおも攻撃を続け、遠江国での斯波氏との戦いが激化した 情報源のサイトへ
1514 駿河国から今川氏親が甲斐国に侵入する(『宇津山記』『宗長手記』により)。 情報源のサイトへ
1515 また、永正12年 情報源のサイトへ
1515 甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。 情報源のサイトへ
1515 今川氏親の支援をえた大井信達と戦い大敗した武田信虎は 情報源のサイトへ
1515/10 大井信達大井信業父子が駿河今川氏親と好を通じ 情報源のサイトへ
1516 引馬城(浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、斯波義達も加わる。氏親は出陣して引馬城を包囲 情報源のサイトへ
1516 今川氏親の甲斐侵攻に与す。しかし、吉田(富士吉田市)をはじめ各地で今川勢が撤退し 情報源のサイトへ
1517 引馬の戦いにて遠江一円を攻略、三河、尾張に勢力を伸ばした。武勇に優れた一方、領国経営にも手腕を見せて検地、知行制度の確立 情報源のサイトへ /DSCF8074.jpg
1517 氏親は信虎と和議を結び撤兵し、大井信達は信虎に降伏した。その後も、氏親後期に甲駿同盟が成立するまでたびたび甲斐国への侵攻を行い、武田氏との対立が続いた 情報源のサイトへ
1517/1/22 今川氏親が連歌師柴屋軒宗長に、武田信虎との和睦斡旋を依頼する(『宇津山記』『宗長手記』により)。 情報源のサイトへ
1521 今川氏親軍を撃破して以来、自信過剰から勇を誇り強引なまでに戦を繰り返す武田信虎を見兼ねて 情報源のサイトへ
1521/9/16 今川氏親軍、富田城を陥落させる。大井殿が要害山城(丸山城)へ避難する(『塩山向禅庵小年代記』『高白斎記』により) 情報源のサイトへ
1521/10/16 今川氏親の重臣で遠江土方城城主福島正成が1万5000の大軍を率いて駿河から甲斐へ乱入。 情報源のサイトへ
1526 カテゴリ: 今川氏 | 守護大名 | 戦国大名 | 駿河国の人物 | 1473年生 | 1526年没 情報源のサイトへ
1526/4 戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定している。嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であった 情報源のサイトへ
1526/6/23 武田信虎の好敵手だった駿河守護今川氏親が死去。 情報源のサイトへ
1526/6/23 駿府今川館で息を引き取った。氏親の葬儀は増善寺で執行され、「葬儀記」によると7,000人の僧侶が参加し、かくして葬儀の喪主である長男氏輝が祭文を読み、棺のつなは善徳寺の御曹司義元、御位牌は花倉の御曹司良真がもって曹洞宗最高の法式で行われ、戦国大名の歴史の上でも例をみない大葬儀であった 情報源のサイトへ

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