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京都大学(きょうとだいがく)
| 生没 | 1869年~?年 | カテゴリ | 日本の大学 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1861年 長崎に設立された長崎養生所(その後長崎精得館... 1921年 京都府北桑田郡知井村芦生に芦生演習林を開設 1935年 創立30周年祝賀式の開催、『京都帝国大学文学... 2001年 関西ベンチャー学会を設立、初代会長を務める 2006年 ,ISBN |
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| ライバルや仲間 |
東京大学
大阪大学 京都市 大阪府 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1861 |
京都大学の起源は1861年
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| 1861 |
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| 1869 |
開設された洋学校と合併、 |
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| 1869 |
設立は |
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| 1870 |
理学校は
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| 1872 |
生:明治5年
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| 1872/11/15 |
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| 1881 |
明治14年
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| 1884 |
明治17年
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| 1886 |
公布された中学校令によって、第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は
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| 1889/8/1 |
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| 1893 |
本部構内正門(旧第三高等中学校正門):1893年
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| 1894 |
公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は旧制の第三高等学校(以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。
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| 1894 |
明治27年
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| 1895/11/30 |
予算処置が可決される。
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| 1897 |
設置された。大学の略称は京大(きょうだい)
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| 1897 |
建設。吉田南構内
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| 1897 |
総合人間学部正門(旧第三高等学校正門):1897年
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| 1897 |
帝国大学工科大学造家学科を卒業。
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| 1897 |
創設された |
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| 1897/6/18 |
制定された勅令第209号により、 |
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| 1898 |
から翌々年にかけて教授就任予定者たち(大西祝・松本文三郎・谷本富・狩野直喜)が海外留学に派遣され、開設に向けた準備は早くから進められていた(大西は文科大学学長に予定されていたが、病気のため実現しなかった)。にもかかわらず実際の開設が他の分科大学に比べて遅れたのは、 |
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| 1898 |
保健管理センター・学生部:1898年
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| 1898 |
まず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により
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| 1898 |
建築、2階部分は
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| 1898 |
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| 1899 |
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| 1899 |
同大学助教授となる。
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| 1899 |
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| 1900 |
明治33年
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| 1900 |
文部省より図案研究のため |
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| 1901 |
医学部解剖学教室本館:1901年
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| 1901 |
建築。医学部構内
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| 1901 |
最初に竣工した建築である。本館ははじめすべて煉瓦造りで計画されていたようだが、西端部に接続する標本室が煉瓦造りで建てられた以外は、木造となった
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| 1902 |
(1902)、皮膚病学講座が開講され、松浦有志 |
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| 1902 |
産婆講習科を置く。
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| 1902/1/30 |
病理学に造詣が深く、浅山門下の三羽烏といわれた菅沼定男(慶応大学眼科初代教授)、小柳美三(東北大学眼科初代教授)、市川清(京大2代教授)を育てている。浅山郁次郎の時代に |
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| 1902/2/7 |
付けで浅山郁次郎が教授に着任し、ここに教室が正式に発足した。
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| 1903 |
尊擾堂:1903年
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| 1903 |
建築。本部構内
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| 1903/7/30 |
会( |
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| 1905 |
明治38年
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| 1905/11 |
設立案が帝国議会を通過し、翌
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| 1906 |
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| 1906 |
文学研究科は、明治39年
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| 1906 |
末ごろ
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| 1906 |
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| 1906/4 |
狩野亨吉(第一高等学校校長)・谷本富( |
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| 1906/6 |
勅令135号によって当初設置される6つの講座が定められ、文部省令第10号によって
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| 1906/7 |
上記の開設委員に |
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| 1906/8/16 |
最初の文科大学規程が制定され、哲学・史学・文学の3学科を置くことや各学科に属する正副の科目の種類などが定められた。
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| 1906/9/3 |
最初の |
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| 1906/9/11 |
文科大学を開設することが決まった。
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| 1906/10 |
枳穀邸を会場に教官・学生三十数名が参加して開かれ、その後毎月のように茶話会・講演会・遠足等の行事を催した。当時は教官・学生ともにごく少人数で、寺子屋のような親密な雰囲気があったことが当時の教官や学生の回想等から窺われる
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| 1907 |
明治40年
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| 1907 |
や、和洋折衷の |
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| 1907/6 |
法科大学と共用の2階建木造建築が本部構内のほぼ中央部(現在の法経本館のすぐ北側)に完成し、その東半分が文科大学に割り当てられて事務室・教官室・教室はこちらに移転した。その東側に
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| 1907/8/30 |
文学科は翌々年と
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| 1908/2 |
史学科を母体として史学研究会が、1914(大正3)年
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| 1908/6 |
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| 1908/11 |
哲学科を母体として |
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| 1909 |
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| 1909/5 |
2階建の木造建築1棟が竣工し、これが
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| 1910 |
明治43年
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| 1910 |
同志社女学校 |
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| 1910/2 |
発足した。これは「哲学史学文学の進歩及び普及を図るを以て目的と」(同会規則)して、文科大学教授を評議員として組織され、雑誌『藝文』の刊行を主要な事業とするものであった
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| 1910/4 |
発刊され、月刊誌として市販された。同誌には文科大学の教官や卒業生の研究論文・エッセイのほか、各年度の講義題目・卒業論文題目や学内諸学会の動向、海外通信等を記載した「彙報」欄もあり、研究紀要と総合雑誌の性格を兼ね備えたものであった
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| 1911 |
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| 1911 |
建築。吉田南構内
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| 1911 |
旧第三高等学校学生集会所:1911年
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| 1911 |
産婆講習科が産婆養成所となる。
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| 1911/10 |
刊)であった。以後
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| 1912 |
など先駆的住宅作品を残し、集合住宅の計画や実作も手がけて、大正中期からの |
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| 1912 |
大正元年
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| 1912/2/28 |
関連資料1:『 |
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| 1913 |
(1913)に外来の1診察室を恥室と名付け、ここで尿道疾患の診療が行われるようになった。診療は西部講堂で行われていた
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| 1914 |
文学部陳列館:1914年
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| 1914 |
建築。本部構内
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| 1914/3 |
陳列館(煉瓦造二階建)の第1期工事が完了し
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| 1914/4 |
これを契機として教授会の教官人事権が実質的に確立したとされる。文科大学の教授会は当初、谷本教授の辞職に組織だった抗議をしなかったものの、その後、総長を学内から教官の公選によって選ぶ制度の確立の過程では |
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| 1914/7 |
史学科の全教室や美学美術史学の研究室がそちらに移転した。同館では研究・教育活動と密着した収集・展示活動を行っており、その収蔵資料には国宝・重要文化財に指定されているものもある
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| 1915 |
大正4年
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| 1915 |
後期の |
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| 1915 |
逝去した。
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| 1915/4/15 |
関連資料2:『 |
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| 1915/12 |
教授に任じられた。市川は手術の名手、非常な秀才であったようで、講義は正確無比、議論は快刀乱麻を断つがごときであったという
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| 1916 |
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| 1916 |
設立された朝比奈隆の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な |
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| 1916/1 |
史学研究会が『史林』
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| 1916/4 |
機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。全国七大学総合体育大会および |
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| 1916/4 |
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| 1916/11 |
祭」を参照
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| 1916/11 |
下旬に4日間、吉田キャンパス内、吉田南構内および本部構内にて行われる。
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| 1917 |
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| 1919 |
分科大学制が学部制に変わった。
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| 1919 |
(1919)松浦教授勇退の後、松本信一が教授に就任したが、助教授の井上五郎は専ら泌尿器科学の診療研究に力を注ぎ、 |
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| 1919 |
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| 1919 |
以降の高等学校の増設によって、全国で8校しかなかった高等学校が大正末年までに34校になり、これに伴って、それまで本科でほぼ30~50名程度、選科で10~30名の水準で安定していた文学部への入学者数が
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| 1919/6/4 |
勅令第135号によって |
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| 1920 |
だけは7カ月で終わることになった。また大学令では大学院を各学部に新たに設置される「研究科」を総合したものと規定したが、京大では大学院についての規定にほとんど変化はなかった
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| 1920 |
大正9年
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| 1921 |
京大を含む各大学の学年歴が変更され、従来
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| 1921 |
までに6巻が刊行されている。
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| 1921/4 |
開始になったため
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| 1921/4 |
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| 1921/9 |
始まっていた学年が
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| 1922 |
増築。本部構内
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| 1922 |
90名から
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| 1922 |
本科だけで68名となり、以後増加を続けて1927(昭和2)年には299名を記録した。本科の全学生数でみると
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| 1922 |
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| 1922 |
同本館
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| 1922/5 |
宗教学第二講座(基督教学)
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| 1923 |
農作園芸学科(後に農学科と改称)・林学科・農芸化学科・農林生物学科・農林工学科・農林経済学科の6学科より出発した。研究方法によって学科を区分する純粋科学的な農学の発展を展望する独自の学風が掲げられた
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| 1923/10 |
完成するが、これが現在の新館完成までの長い期間、文学部中央教室(または本館)と呼ばれたものであり、学部長室や事務室はここに置かれた。また、史学科の拠点である陳列館は
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| 1923/12 |
完成すると、ここに両学科の書庫と閲覧室が移された。この建物は5期に分けて増築され(残りの部分は鉄筋コンクリート造)、1936(昭和11)年
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| 1923/12 |
第2期工事が竣工、その後も増築を続けて
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| 1924 |
建築。北部構内
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| 1924 |
農学部表門および門衛所:1924年
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| 1924 |
藤井有鄰館
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| 1925 |
建築。創立
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| 1925 |
139名をピークに減少して以前の水準に戻った。さらに
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| 1925 |
楽友会舘:1925年
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| 1925/5 |
西洋文学第三講座( |
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| 1925/12 |
学部規定を改正し
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| 1926 |
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| 1926 |
大正15年
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| 1926 |
東方文化学院 |
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| 1926/1 |
入学定員を改正し、それまで各学科70名だった定員を哲学科85、史学科40、文学科85と改めるとともに、専攻科目ごとの定員を新たに定めた。この際同時に専攻科目選定に関する規定を定め、専攻科目の志望者数が定員を超過した場合の学生の振り分け方法等を規定した
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| 1926/3 |
教授会では各学科とも志望者の超過が15名以内の場合は入試を行わないことが申し合わされたうえ、後年にはこの基準はさらに緩和されて、実際にはこれをも上回る志望者を受け入れている。
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| 1926/6 |
宗教学第三講座(仏教学)が開設されて合計30講座となった。
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| 1926/6 |
国語学国文学と支那語学支那文学に各々第二講座が増設され、次いで
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| 1926/11/30 |
より選科生のための学年試験を廃止して修了証書の授与を取り止めた。その結果、選科入学希望者は大幅に減り、選科生徒総数は
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| 1927 |
以降、史学科では
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| 1927/3 |
専攻科目選定規定の改正があり、文学科については入学時に志望科目を届け出させ、定員を超過する場合は入試の成績順に受け入れることとした。前述のように、従来は1回生は学科に分属するのみで
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| 1928 |
文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求、教授会は河上の辞職を認める決議を出し河上は大学を追われる事になる。さらに
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| 1929 |
以降ほぼ毎年入試を実施せざるをえなかったのに対し、哲学科は定員に満たないことが多かった。こうした趨勢に応じて
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| 1929 |
709名へとわずか7年間で8倍弱にまで膨れ上がったのである(付録資料参照)。
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| 1929/10 |
哲学哲学史第五講座(西洋哲学史)
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| 1929/12 |
完成した。
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| 1930 |
人文科学研究所附属漢字情報研究センター(旧外務省東方文化学院 |
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| 1930 |
などがある。
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| 1930 |
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| 1930/3 |
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| 1930/11 |
まで在職した。
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| 1930/12 |
盛新之助が |
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| 1931 |
農学部附属演習林旧本部事務室:1931年
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| 1931/5 |
号をもって終刊となった。同時に |
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| 1932/10 |
陳列館の北に木造平屋�史学科第一教室、次いで
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| 1933 |
西田直次郎編『 |
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| 1933/2 |
本を意匠した近代建築家たち』
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| 1933/4 |
文学部卒業生有志による同窓会として「京大倶楽部」(京大以文会の前身)が結成され
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| 1933/12 |
哲学科と史学科の入学定員はそれぞれ75名と50名に改められた。
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| 1934 |
(1934)、泌尿器科講座が開設され、当初は松本が教授を兼任した。
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| 1934 |
や法隆寺鵤文庫、宝蔵(1936
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| 1934/7 |
西洋文学第四講座( |
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| 1935 |
撤去されるまで文学部の主要な研究棟となった。研究室は平日は午後4時まで学生にも開放され、教官と学生の交流の場としても機能した
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| 1935/11 |
創立30 |
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| 1936 |
『神祇並神道史に関する展観目録』 |
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| 1936/9 |
第1期工事が完了した。この過程で木造の旧本館は取り壊されたが、他方で教室の不足を補うため
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| 1936/10 |
小島祐馬が京大出身者としては初めて文学部長に就任している。また
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| 1937/12 |
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| 1938 |
(1938)井上が初代専任教授となり、ここに泌尿器科学講座の第一歩が踏み出された。しかし教室は皮膚科泌尿器科教室の形をとっていた
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| 1938 |
没:昭和13年
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| 1938 |
(1938)に |
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| 1938/2/5 |
享年67歳、 |
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| 1938/11 |
就任した羽田は
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| 1938/11/30 |
学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。卒業式と入学式などで使われる
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| 1939 |
頃から京大でも始まっていた学生の勤労動員が
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| 1939/1 |
文学部規定改正により西洋古典文学が講座外の正科目として加えられ、専攻学生の受け入れを開始した。
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| 1940 |
制定された。歌詞は
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| 1940 |
制定された。学旗の意匠は京都大学の公式サイト上に紹介されている
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| 1940/11/10 |
西田 幾多郎 名誉教授 |
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| 1940/12 |
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| 1941 |
大学在学年限が3カ月短縮されて卒業が
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| 1941 |
学友会が改組されて成立した同学会は、戦後全学の学生自治組織として生まれ変わり
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| 1941/5 |
東館の東側に木造2階建の第一教室を建てて対応した。
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| 1941/8 |
防衛団
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| 1941/9 |
報国隊が全国の大学と同様に京大でも発足し、大学全体が緊急事態に対応できるように軍隊にならって組織された。1910(明治43)年以来学友会の恒例行事となっていた修学旅行も
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| 1941/12 |
繰り上げられ
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| 1942 |
(1942)井上教授退官後、翌
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| 1942 |
を最後に中止となり、その他の学友会の行事も行われなくなった。
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| 1942 |
高等学校の修学年限が6カ月短縮されたのを受けて京大でも
|
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| 1942/7/15 |
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| 1942/9 |
卒業となった。
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| 1942/10 |
2度新入生を受け入れている。この頃には文学部は再び入学者数が定員割れを起こすようになり、学生の追加募集を行っていたが、そのため「本来修学の意志なき者が腰掛け的に入学し」、「第二次第三次入学者の過半数は中途退学する」
|
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| 1942/10 |
以降である。
|
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| 1942/10/2 |
公布の勅令第755号「在学徴集延期臨時特例」によって文系学部および農学部の一部の学生への徴兵延期が停止され、「学徒出陣」が始まったのである。繰り上げ卒業の対象となった
|
|
| 1942/11/30 |
さらに3カ月繰り上げで
|
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| 1943/4/29 |
湯川 秀樹 名誉教授 |
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| 1943/7/30 |
定めた「臨時措置」に従って対応することとなった。復員した学生の回生への割り当ても決められ、授業は
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| 1943/9/30 |
9名が採用されたが
|
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| 1943/10 |
優秀な若手研究者を確保するため、帝国大学を初めとする特定の大学を対象に大学院特別研究生制度が発足し、これに採用された大学院生は学資を支給されたうえ召集を免除されて研究に専念できる特権を与えられた。文学部では
|
|
| 1943/10/11 |
より開講された。
|
|
| 1944 |
入って本格化し、文学部の学生も貯水池の造成や防空壕の建設等の集団作業に動員されるようになった。とりわけ
|
|
| 1944/3 |
文学部規定を改正し
|
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| 1944/3 |
退官しているが、その在職期間後半は、 |
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| 1944/5 |
始まった |
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| 1944/8/15 |
|
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| 1944/8/30 |
からは文科系学生は対象外となった。
|
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| 1944/9 |
|
|
| 1944/9/30 |
建物疎開のため |
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| 1944/10 |
文学部は「授業並ニ試問ニ関スル臨時措置」を決めて従来の学部規定を臨時に変更し、単位の取得に関する規定を大幅に簡素化して卒業しやすくすることでかろうじてこの状況に対応した。だが教官たちも、勤労動員への付き添いや食糧不足を補うためのキャンパスの開墾・農作業等に追われて本来の職務を全うできる状況ではなかった
|
|
| 1945 |
|
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| 1945/3 |
まで続いた。学生は交代で帰学したものの、集中的な勉学はきわめて困難であった
|
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| 1945/4 |
入学者からこれを適用することになった。これによって授業科目は従来の正科目と副科目の区別に代わって「専攻科目」と「研究科目」に大別され、また全学科にわたって専攻科目を入学時に決めるよう改められた
|
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| 1945/4 |
までの文学部(本科)入学者のうち、半数弱の638名が徴集されたが、特に1943~
|
|
| 1945/10 |
GHQから発令された覚書「 |
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| 1945/11 |
までの最も苦難に満ちた時代にこの重責を果たした。
|
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| 1945/11/30 |
かけて自主的に辞職している。
|
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| 1946 |
|
|
| 1946 |
|
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| 1946/2 |
公布の勅令第109号「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」等に基づいて実施された公職追放では、高瀬・矢野両名誉教授と小牧実繁教授(地理学)の3名が戦時期における指定団体での役職や著作活動を理由に適用を受けた。小牧教授や同じ教室に所属する室賀信夫助教授・野間三郎講師は、追放を待たずに
|
|
| 1946/3 |
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| 1946/4 |
受験資格を軍関係の学校や専門学校・師範学校等の卒業者にまで大幅に拡大した入試が行われ、文学部には定員の3倍強にあたる714名の受験者が集まった。この時初めて56名の女子が文学部を受験し、うち12名が合格している
|
|
| 1946/5 |
文部省訓令第5号「教職員の適格審査をする委員会に関する規程」が発令されると、京大でも学部ごとに教職員適格審査委員会が設置された。文学部では落合太郎学部長を委員長とする委員会が
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| 1946/6 |
発足し、最終的に西谷 |
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| 1946/9 |
卒業は翌
|
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| 1947 |
開設された。
|
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| 1947 |
(1947)わずか
|
|
| 1947/5/30 |
かけて辞職を余儀なくされた(西谷教授だけは追放指定解除後の
|
|
| 1947/7 |
哲学・哲学史第六講座(西洋中世哲学史)が設置されたほか
|
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| 1948 |
専攻科を置く。
|
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| 1948/9 |
からそれまで教授のみで構成されていた教授会に助教授も出席するようになったこと
|
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| 1948/11/2 |
木原 均 京都大学教授 遺伝学
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| 1948/12 |
文学部学友会が新しい会則を制定して学生の自治組織となり、従来文学部長が会長となっていたのを改め学生の中から委員長を選出するようにしたことなどがある。
|
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| 1949 |
以降執行部内で左派が優勢となってからは大学当局と衝突を繰り返すようになった。
|
|
| 1949 |
2 旧制文学部期(1919~1949年)
|
|
| 1949 |
教授として着任した。井街はその明るい性格により、大いに将来を嘱望されたが、着任直後に病に倒れた
|
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| 1949 |
以降休職となり
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| 1949/5/19 |
から文学部学生3名を含む学生が総長室前でハンガーストライキを始めた。文学部では
|
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| 1949/5/19 |
から連日緊急教授会を開いて対応を協議し、学生側とは合意に至らなかったものの
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| 1949/5/24 |
学生大会でハンスト中止が決まった。この件での処分は破防法反対という動機を考慮して12名譴責という軽いものにとどまった
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| 1949/5/30 |
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| 1949/7 |
設置)および教育心理学講座
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| 1949/11/30 |
高等学校令とともに |
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| 1949/12 |
制定された大学令は帝国大学の他に公立・私立大学や単科大学の設置を認めるものであり
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| 1950 |
ごろから「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので
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| 1950 |
井街のあとを受け、浅山が教授に着任した。浅山は
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| 1950 |
(1950)助教授稲田務が教授に就任し、同時に泌尿器科教室が皮膚科泌尿器科教室より分離独立し、教室職員、研究室、病床などの分離が行われた。
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| 1950 |
(1950)、 |
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| 1950 |
前身である皮膚泌尿器科学講座より分離独立して以来、半世紀余が過ぎました。この間、稲田 務教授(1950-
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| 1950/3 |
卒業に戻ったのは
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| 1950/6/4 |
開かれ、その決議に基づいて
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| 1950/6/17 |
ストライキが決行されるとともに、先の停学処分撤回と
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| 1950/9 |
2度卒業の機会が与えられた。
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| 1950/10 |
告示第9号に照らしてその責任者として文学部学生3名を停学処分にした。これに抗議する文学部学生大会が
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| 1950/11/3 |
田邊 元 名誉教授 哲学
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| 1950/11/30 |
度には学部学生の総数が1,100名を上回る空前の規模となった。他方、旧制京大の学生募集は翌
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| 1951 |
『 |
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| 1951/3 |
まで教育学部長を兼任したほか、臼井二尚・矢田部達郎・下程勇吉の3教授がしばらく教育学部教授を併任した。暫定的に文学部に置かれていた教育学・教授法第二講座
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| 1951/4 |
京都大学看護学校を京都大学医学部附属看護学校に改称。
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| 1951/11 |
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| 1952 |
以来文系4学部と人文科学研究所の共同で進められていた |
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| 1952 |
助産婦科を設置。
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| 1952/2 |
同じ講座に復職している)。さらに、西田直二郎(国史)・高山岩男(哲学)両教授と矢野仁一(東洋史)・高瀬武次郎( |
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| 1952/3 |
文学部教官の研究成果発表の媒体として『京都大学文学部研究紀要』が発刊され、ほぼ毎年1回発行されて今日に至っている。
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| 1952/4/30 |
行われた破壊活動防止法反対等を理由とする文学部学生大会でのストライキ実施決議とその翌日の学内デモ行進に対し、大学はストライキ禁止を定めた
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| 1952/11/3 |
佐々木惣一 名誉教授 憲法学、行政学
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| 1953 |
制定。歌詞は公募によるもの
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| 1953/1 |
ようやく設置認可申請書が文部省に提出され
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| 1953/3/26 |
京都大学大学院が設置された。当初は大学院独自の予算や独自のスタッフが全くなく、ゼロからのスタートであったが、旧制大学の大学院が独自のカリキュラムもなく修了者に学位を授与することもない機関で、研究者志望の学生が大学卒業後に籍をおいて教官の指導を受ける場でしかなかったのに対し、新しい大学院は学生に単位の取得と修了時の論文提出を義務づけるものである
|
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| 1953/4 |
新制大学院設置(文学・教育学・法学・経済学・理学・薬学・工学・農学研究科を設置)
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| 1953/8 |
文科大学創設以来設置されていた教育学・教授法講座が文学部最後の専攻学生の卒業を待って移管され
|
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| 1953/8 |
美学・美術史第二講座
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| 1953/11 |
|
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| 1954 |
教養部と改称)として併合した上で
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| 1954 |
助産婦科が京都大学医学部附属助産婦学校として独立する。
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| 1954 |
旧制最後の卒業式を挙行、その際留年者は新制の学籍に編入されたため、これをもって新制大学への移行が完了した。なお
|
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| 1954/3 |
旧制文学部の消滅とともに教育学関係の授業は文学部で行われなくなった。こうして教育学部の独立が完了したが、教育学部の初期の教官には文学部出身者が多く含まれており、その後も両学部間には現在に至るまで研究・教育上密接な協力関係が続いている
|
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| 1954/5/31 |
発足した。新制文学部の学部規程は
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| 1954/6 |
実施され、変則的に入学式は
|
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| 1954/6/1 |
さかのぼって施行された。文学部は後期2年間の専門課程の教育を主として担当することとなり、専門科目は専攻科��と�科目に大別された
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| 1954/7 |
授業開始は
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| 1954/9 |
であった(したがって新制第1期生は在学
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| 1954/9 |
文部省令第23号「国立大学の講座に関する省令」が
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| 1954/12/19 |
制定され
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| 1955 |
から始まり、最初の年には26名(うち女子2名)が進学した。
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| 1955 |
(1955)稲田教授編集による学術雑誌「泌尿器科紀要」が発刊され、現在我が国における指導的専門誌として内外に高く評価されている。(「京都大学百年史」より)
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| 1955 |
文部省より博物館相当の指定を受け
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| 1955 |
京都大学文学部国史研究室編『 |
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| 1955/4 |
戦時期より活動が中断していた京大倶楽部の再建総会が開かれ、京大以文会と改称された。同会は文学部・文学研究科の同窓会組織として現在まで会誌『以文』の発行等の活動を続けており、特に大学の法人化以降は文学部をサポートする団体としての役割に期待が高まっている(詳細は「京大以文会」の項参照)
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| 1956 |
文化功労者
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| 1956/3 |
西洋文学第五講座( |
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| 1956/10/30 |
史』の刊行等の記念事業が大々的に執り行われた。
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| 1956/11 |
文学部創立50周年の記念式典・祝賀会が行われ、 |
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| 1956/11/3 |
新村 出 名誉教授 言語学、国語学
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| 1957 |
からは200名に落ち着き、以後
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| 1957 |
退官した。
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| 1957/10/26 |
岡見正雄教授(京都女子大学)「二条良基の連歌について」、禿氏祐祥・龍谷大学名誉教授「秋邨翁と古書探求」、新村出・京都大学名誉教授「挨拶」、 |
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| 1958 |
制定。歌詞は公募によるもの
|
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| 1958 |
京都大学文学部国史研究室編『 |
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| 1959 |
「文学部博物館」と改称された。
|
|
| 1959 |
制定。
|
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| 1959 |
『読史会五十周年記念絵葉書』読史会、1959年
|
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| 1959 |
京都大学医学部附属衛生検査技師学校が設置される。
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| 1959/11/30 |
かけて全国の大学を |
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| 1960 |
教養部1回生の講義が行なわれていたことがあった。が、現在は学部の講義は行なわれていない(ただ、夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には |
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| 1960 |
京都大学文学部国史研究室編『 |
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| 1960/4 |
現代史講座
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| 1960/6 |
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| 1961 |
制定。歌詞は公募によるもの
|
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| 1961 |
京都大学附属図書館)
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| 1962 |
京都大学近世物価史研究会編『15〜17世紀における物価変動の研究』読史会、1962年
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| 1962 |
文化功労者
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| 1962 |
第52回 |
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| 1962 |
取り壊され重要な文化遺産が惜しくも失なわれた。 岩崎博
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| 1962 |
理学・医学・工学・農学研究科で修士47名、博士5名の増員を文部省に申請し
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| 1962/2 |
二〇日
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| 1962/2/7 |
付標記通牒は、自然科学系大学院の運営に関するものでありますが、この通牒の内容は本学の正規の機関の審議を経て本学の意志となつている事柄にもとづくものではありません。これをこのまま受け入れるならば、大学の運営一般に関して文部省の干渉を認める結果になり、本学が多年にわたつて守りぬいてきた大学自治の原則が侵害される危険が多分にあると思われます
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| 1962/11/3 |
桑田 義備 名誉教授 植物細胞学
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| 1962/12 |
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| 1963 |
申請どおり認められた。当初、自然科学系の大学院拡充をめざすものであったが、大学院拡充の方針はその後も継続して進められ
|
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| 1964 |
会長を務めた。前立腺癌、前立腺肥大症などの前立腺疾患に関する研究に大きな業績をあげた
|
|
| 1964 |
行動科学の発展や心理学・社会学の専門家への社会的需要の高まり等を理由として、心理学・社会学各4講座(文化人類学を含む)からなる「心理・社会学科」設置案が教授会で審議されている。この新学科設置構想は
|
|
| 1964/2 |
廃止され、従来設置順につけられていた講座の名称が改められた。文学部では哲学・哲学史講座が第一講座「哲学」、第二講座「西洋哲学史(古代)」、第三講座「西洋哲学史(中世)」、第四講座「西洋哲学史(近世)」、第五講座「 |
|
| 1965 |
『 |
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| 1965/3 |
竣工し、東館は西側3階に1階継ぎ足し4階建のロの字形の建物になりようやく完成した。考古学を除く史学科各教室は陳列館からこちらに移転した
|
|
| 1966 |
(1966)には総会会長を務め、終生の研究として2度にわたる尿路結石の疫学調査の宿題報告を行った。その他泌尿器科学各分野にわたり広範な研究がなされ、多くの新機軸を打ち出した
|
|
| 1966 |
地理学
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| 1966/2/30 |
行われた中央部の噴水を含む |
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| 1966/3 |
鉄筋コンクリート造2階建の羽田記念館(京都大学文学部附属内陸 |
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| 1966/4 |
学内施設とされ |
|
| 1966/4 |
西南 |
|
| 1967 |
|
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| 1967 |
間広島大学教授として活躍。この時代に第14回 |
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| 1967 |
から数年間概算要求に盛り込まれたが、教養部から反対意見が出されたこともあって結局取り下げられた。
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| 1967 |
京都大学七十年史編集委員会編. 『京都大学七十年史』 p.608. 第6章第7項「医学図書館」 (1967年)
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| 1967 |
(1967)、稲田教授の退官後、代わって広島大学教授の加藤篤二が教授に就任した。加藤は
|
|
| 1967 |
大講座化を踏まえ大学院重点化がなされた。これは、従来の学部を主とし大学院をその上に置くあり方を変え、大学院を主としそのもとに学部を置くものである
|
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| 1967/6/24 |
昭和42(1967)年6月24日〜
|
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| 1967/12 |
着工され、翌
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| 1968 |
浅山の後を受け、長崎大学から岸本正雄が教授に着任した。岸本は緑内障と網膜剥離に深い関心を持ち、今でもこの2つの疾患は教室の大きなテーマとなっている
|
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| 1968 |
文学研究科にも附置研究所による大学院拡充がはかられた。具体的には、人文科学研究所の講座に博士・修士の定員を付け、それを文学研究科の各講座に貼り付けるものであった
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| 1968 |
次の人文研協力講座
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| 1968 |
文学研究科についても適用され、人文科学研究所分として修士13名博士12名の増員がなされた。その詳細は別表のとおりである
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| 1968/1 |
本社会
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| 1968/2 |
本思想・ |
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| 1968/4 |
美学・美術史と現代史の講座名はそれぞれ「美学・美術史学」、「現代史学」と改称された。
|
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| 1968/4 |
1996(平成8)年4月
|
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| 1968/9 |
まで持ち越されている。なお
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| 1968/10 |
文学部は人文科学研究所に協力要請をし
|
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| 1968/11/30 |
度になってもいくつかの建物のロックアウトは依然続き、全面解除は
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| 1968/12 |
人文科学研究所はその要請を受け入れた。
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| 1969 |
京都大学工学部数理工学科卒業.
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| 1969/1 |
学生寮問題を契機として全学に拡大した。
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| 1969/1/16 |
吉田寮・熊野寮の寮生によって組織された |
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| 1969/1/19 |
「緊急事態に対する文学部教授会の見解」を公表して封鎖に反対の意思表示をすると、学友会は教授会の自己批判等を求めて団交を要求、これが拒否されたため
|
|
| 1969/2 |
|
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| 1969/2 |
専任講師にも教授会への出席を認めたほか
|
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| 1969/2/3 |
無期限ストに突入した。さらに
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| 1969/2/30 |
学部入試が学外での実施を余儀なくされたほか、大学院入試も
|
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| 1969/3/11 |
付けの長尾雅人文学部長名による「文学部長所信」をめぐる教授会の対応に反発した「L共闘」の学生たちによって
|
|
| 1969/3/13 |
文学部本館・東館が封鎖される事態に至った。
|
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| 1969/3/17 |
『文学部弘報』を発刊して教授会決定や学部長所信等を掲載した
|
|
| 1969/4 |
9・10両日に延期のうえ |
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| 1969/5 |
計5講座が増設された。このうち |
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| 1969/9/21 |
導入された機動隊によって解除されたが、ストライキはなお継続し
|
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| 1969/11/7 |
ようやく授業再開にこぎつけた。
|
|
| 1969/12/23 |
L共闘大会が開かれ、運動体としてのL共闘が解散を宣言したことをもって文学部の紛争は一段落した。
|
|
| 1970 |
哲学博士1名(人文・西洋思想)
|
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| 1970 |
『国史論集 —小葉田淳教授退官記念—』小葉田淳教授退官記念事業会、1970年
|
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| 1971 |
第3回人工透析研究会
|
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| 1971/4 |
学部長との「大衆団交」の要求が拒否されたのを理由に「L斗」を名乗る学生たちによって学部長室が長期間占拠されたのをはじめ
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| 1972 |
同大型計算機センター助手.助教授を経て
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| 1972/11/3 |
早石 修 京都大学教授 医学部 生化学
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| 1973 |
入学式が中止になっている。
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| 1973 |
(1973)当時講師であった吉田修が教授に就任した。弱冠38歳の若き教授であった
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| 1973 |
(1973)に退官した。京都大学時代には
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| 1973 |
第3回腎臓病学会西部部会の会長を務めた。(「京都大学百年史」より)
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| 1973 |
同大学院 工学研究科 修士課程修了
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| 1973/1 |
からは経済学部の竹本助手処分問題をめぐる紛争が全学に波及し、文学部でも無期限ストや学部長室の占拠・建物封鎖があった。また
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| 1973/4 |
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| 1973/5 |
発行の第16号まで不定期刊)。
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| 1973/6 |
教官選考に関する内規を改正して選考委員会に教授だけでなく助教授・講師も参加できるようにした。
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| 1973/6/24 |
昭和48(1973)年6月24日〜
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| 1973/9 |
委員会により「 |
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| 1973/11/30 |
かけては、女子学生の卒業論文作成と大学院進学をめぐる所属教室の教官の対応が当該学生とその支援者から女性差別に当るとして糾弾される事態(「R子さん問題」)が起こった。 |
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| 1973/12 |
試験期間中のストライキが
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| 1974 |
京都大学工学博士(数理工学専攻) 学位論文:
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| 1975 |
国史学博士1名(人文・ |
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| 1975 |
社会学と美学・美術史学第一・第二
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| 1975 |
京都大学医学部に併設された |
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| 1975 |
フィールズ賞
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| 1975 |
設置され
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| 1975 |
|
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| 1975 |
(学部内共通 黒澤宛と明記してください)
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| 1975/4/22 |
岡本道雄:1975年4月22日~
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| 1975/11/3 |
広中 平祐 名誉教授 数理解析研究所 数学
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| 1976 |
京都大学医学部附属臨床検査技師学校を発展改組して衛生技術学科を増設する。
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| 1976 |
言語学の各講座の実験講座化が相次いで実現した。
|
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| 1976 |
京都大学近世史研究会編『論集近世史研究』京都大学近世史研究会、1976年
|
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| 1976/7 |
竣工した。同館は |
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| 1977 |
京都大学大学院工学研究科数理工学専攻修士課程終了
|
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| 1977 |
看護学科と専攻科の校舎が移転される。
|
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| 1977/3/1 |
昭和52(1977)年3月1日〜
|
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| 1977/4 |
|
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| 1977/11 |
から春秋2回の一般公開と公開講座を始めたが、財政的理由で文学部の附属施設としての運営が次第に困難になったため、1997(平成9) 年
|
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| 1978 |
衛生技術学科の校舎が移転される。
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| 1978 |
京都大学工学部数理工学科卒業
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| 1978/11/3 |
田中 美知太郎 名誉教授 哲学、西洋古典学
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| 1978/11/30 |
から従来より20名増員された)に対して350名を合格させたが、それでも140名という大量の辞退者(大半は東京大学の合格者)を出し、やむなく10名の追加合格者を出すという事態が起こった。文学部はこれを「本学部の学風に志を寄せる個性あるすぐれた学生を選抜するという本学部の入試方針とかけはなれたきわめて不本意な結果」と評価し
|
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| 1979 |
(1979)
|
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| 1979 |
共通第一次学力試験(共通一次試験)導入により1回になった国公立大学の受験機会を複数化するため、国公立大学の入学試験がA・B両日程に分けて実施された。文学部では入学辞退者の増加を見込んで入学定員220名
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| 1979 |
東洋史学修士1名(人文・現代 |
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| 1979 |
京都大学附属図書館)
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| 1979/10/30 |
度の入試については |
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| 1979/12/16 |
沢田敏男:1979年12月16日~
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| 1980 |
頃まで年中行事のように行われた。
|
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| 1980 |
高松宮妃癌研究基金学術賞
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| 1980 |
京都大学文学部国史研究室編『 |
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| 1980/3 |
社会人間学講座
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| 1981 |
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| 1981 |
『一乗院文書(抄) —京都大学国史研究室蔵—』京都大学文学部国史研究室、1981年
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| 1981 |
文化功労者
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| 1981/7 |
決定され、当時「生物学」の科目を担当していた、阪口吉蔵により考案された。
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| 1981/11 |
祭を参照。
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| 1981/11/3 |
福井 謙一 京都大学教授 工学部 工業化学
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| 1982 |
学科を増設。
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| 1983 |
1年間 |
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| 1983 |
同工学研究科博士課程修了,岐阜大学、同志社大学、大阪大学基礎工学研究科を経て
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| 1984 |
京都大学工学部助手、1984-
|
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| 1984/3/19 |
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| 1984/4 |
新学科の名称を「文化行動学科」とし、上記3教室の既存の講座に若干の新設講座を加えた形でその設置を
|
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| 1984/11/3 |
貝塚 茂樹 名誉教授 人文研教授 |
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| 1985 |
文化功労者
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| 1985 |
から「複雑系経済学」を提唱、経済学のフレームワークの基礎からの改編に取り組んでいる。進化経済学会会長(2003〜2006)・U-Mart研究会代表(1999〜)などとして、経済学研究の第3の研究方法の開発を進めている
|
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| 1985 |
以降の外国雑誌
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| 1985 |
紫綬褒章
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| 1985 |
京大・工・数理卒。
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| 1985 |
本田孔士(よしひと)が教授に着任した。本田の教授在職は
|
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| 1985/3/30 |
度の概算要求事項とすることが決まった。文化行動学科は1992(平成4)年に設置され、哲学科から基礎心理学(旧心理学第一講座)、実験心理学(旧心理学第二講座)、社会学、社会人間学、比較社会学の5講座、史学科から地理学、 |
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| 1985/4 |
文学部規程が一部改正されて学科編成に文化行動学科が加えられ、心理学、言語科学、社会学、地理学(人文地理学から改称)、科学哲学科学史の5専攻が置かれた(専攻の名称には、正式な講座名に含まれるナカグロ[・]が省かれるのが通例となっている)。なお
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| 1985/11 |
法人化資産承継のための蔵書点検(〜11月)
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| 1985/12/16 |
西島安則:1985年12月16日~
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| 1986/3/30 |
(京都大学大学院文学研究科・文学部『京都大学文学部の百年』
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| 1986/4 |
文化史資料研究部門・自然史資料研究部門の二部門から構成される |
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| 1986/4/1 |
昭和38(1963)年4月1日〜
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| 1986/5 |
再度文学部規程の一部改正があり、各学科に学科長が置かれた。
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| 1986/11/3 |
林 忠四郎 名誉教授 理学部教授 天体核物理学
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| 1987 |
豊橋技術科学大学講師.
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| 1987 |
鳥取大学工学部共通講座助教授、1987-
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| 1987 |
まで変更されなかった。またこの頃までに教官の大半を京大出身者が占めるようになっていた
|
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| 1987/11/3 |
桑原 武夫 名誉教授 人文研教授 西洋文化 1979.文化功労者
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| 1987/11/19 |
鰺坂二夫・ |
|
| 1988 |
入試では文学部は他の文系学部と同様、大半の定員をB日程に割り当てた結果、追加合格者は出さずにすんだ。なお学部学生の入学定員は1991(平成3)年度から3年間240名に増員されたが
|
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| 1988 |
(1988)の2度にわたり行い、戦後の |
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| 1988 |
同大学助教授,
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| 1988 |
京都大学大学院博士学位を修得し,豊橋技術科学大学助手,京都大学助手,助教授, |
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| 1988 |
東京大学大学院工学系研究科修了。工学博士
|
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| 1988 |
〜現在
|
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| 1989 |
同助教授.同
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| 1989 |
文化功労者
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| 1989 |
(1989)には第3回 |
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| 1989 |
東京大学工学部電子工学科卒.
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| 1989 |
京都大学医学部長。
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| 1989/3/1 |
平成元(1989)年3月1日〜
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| 1989/5 |
が増設された。このうち4講座は後に文化行動学科に所属することになる
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| 1990 |
京都大学助(准)教授に昇任現在にいたる。
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| 1990 |
正式にエンブレムとして了承された。
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| 1990 |
『兵範記』第1〜3巻、思文閣出版、1988〜1990年
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| 1991 |
京都大学長。
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| 1991 |
制定。歌詞は公募によるもの
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| 1991 |
京都大学工学研究科応用システム科学専攻修士課程修了.
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| 1991/12/16 |
井村裕夫:1991年12月16日~
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| 1992 |
総合人間学部が設置され
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| 1992 |
『短期大学教育』第49号( |
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| 1992/3 |
点検項目等の検討を行うために「自己評価等検討小委員会」が設置された。小委員会は
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| 1992/4 |
「文学部の自己点検・評価項目案」を作成した。そこには、評価項目として、文学部の教育研究の目標理念、教育活動、厚生補導、研究活動、国際交流、図書と学術情報、社会との連携、教員組織、施設・設備、財政、管理運営、個人調書、の12項目があげられたうえで、自己点検・評価のあり方について小委員会の意見と要望が付せられている
|
|
| 1992/4 |
からは一般教育科目に代わって全学共通科目が開講されたが、これに伴って文学部もカリキュラムの見直しを迫られた。その際、専攻への分属の時期を早めることも検討されたが、結局当面現行通り3回生分属を続けることになり、その代わり授業の一部を1・2回生に下ろすこととなった
|
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| 1992/11/30 |
教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。
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| 1992/12 |
文学部規程を改正して、授業科目を「学部科目」と「全学共通科目」からなると改めたほか、科目等履修生および特別聴講学生の入学を認めた。
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| 1993 |
奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科教授,
|
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| 1993 |
吉田キャンパス建築計画によって、文系建物群が完成する予定の
|
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| 1993 |
東京大学工学部計数工学科卒業,
|
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| 1993 |
(1993)には |
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| 1993 |
第9回SMIT会議(Society for Minimally Invasive Therapy)
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| 1993 |
さらに、京都大学医学部付属病院院長(平成5年〜
|
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| 1993 |
当初の計画は大きな変更を迫られた。
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| 1993 |
最初に着手されたのが文系四学部共同棟であり
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| 1993/2/23 |
「京都大学自己点検・評価実施規定」が施行されたのを受けて
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| 1993/4 |
出された『21世紀の文学部像—教育研究体制を中心に—』であり、これを踏まえ現状を把握しようとしたのが
|
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| 1993/4 |
「文学部自己点検・評価委員会」が設置され、当委員会において『京都大学自己点検・評価報告書』の文学部担当分の作成がなされた。同報告書は
|
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| 1993/8 |
まで)
|
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| 1993/11 |
文学部再編計画案として教授会で承認され、概算要求がなされた。
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| 1994 |
情報科学専攻博士課程修了.
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| 1994 |
東京工業大学工学部制御工学科卒,
|
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| 1994 |
文学部講義棟が、1995
|
|
| 1994 |
がその業務に当たっている。
|
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| 1994 |
決算額が、247,663,000円であったのに対し、重点化の初年度
|
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| 1994 |
時点での定員は、修士15名、博士15名であった。
|
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| 1994/3/26 |
,日本女子大学
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| 1994/4 |
より学部としての報告書の作成に着手した。基本方針として、1. 本学部としては最初の点検作業であることを考慮して、現状の調査・検討から始めてほぼ過去
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| 1994/9/17 |
社会経済史学会 |
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| 1994/11/3 |
満田 久輝 名誉教授 農学部教授 栄養化学
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| 1994/12 |
である。この共同棟には、文学部新棟建築のために文学部旧本館西側が取り壊されたために、主として取り壊された研究室と文学科閲覧室が入った
|
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| 1995 |
大講座化までの40年間維持された。また、新制になった当初は変動のあった学部の入学定員も
|
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| 1995 |
同教授.現在,学術情報メディアセンター教授.工学博士.高性能コンピューティングシステム,グリッドコンピューティング,性能評価に興味を持つ.ACM,情報処理学会,電子情報通信学会, |
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| 1995 |
|
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| 1995 |
神戸大学工学部助手.
|
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| 1995 |
〜現在
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| 1995 |
大講座制の枠組みを基本的には継承( |
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| 1995 |
から
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| 1995/3 |
出された『京都大学文学部の現状と課題 自己点検・評価報告書』は、文学部の本格的な自己点検・評価報告書としては最初のものである。全324頁の大部なものである
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| 1995/4 |
より、従来哲学科・史学科・文学科・文化行動学科の4学科44講座であったものが人文学科1学科16大講座(実験講座10、 |
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| 1995/5/20 |
東京大学
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| 1995/6 |
『21世紀の文学研究科(大学院)−大学院再編と新たな教育研究体制−』が、大学院重点化を目前に作成されている。
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| 1995/6/4 |
専修大学 |
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| 1995/7 |
じまり翌
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| 1995/10/24 |
海原徹教授(大学院人間・環境学研究科)「京都大学百年-創設のころ-」(10月24日)
|
|
| 1996 |
より導入された制度で、その目的は、「対象機関における学術研究の一層の推進に資する研究支援体制の充実・強化並びに若手研究者の養成・確保を促進するため、当該対象機関が行う研究プロジェクト等に、優れた大学院後期博士課程在学者を研究補助者として参画させ、研究活動の効果的推進、研究体制の充実及び若手研究者としての研究遂行能力の育成を図ること」にある。
|
|
| 1996 |
3 新制文学部期(1949~1996年)
|
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| 1996 |
概算要求がなされ
|
|
| 1996 |
をかけて文学部新館が建てられる計画であった。以降法経 |
|
| 1996 |
決算額は、401,259,000円(建物新営等設備費67,291,000円を除く)となり、危機的状況から脱出した。
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| 1996 |
以降)
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| 1996 |
奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科 博士後期課程短期修了.
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| 1996/22 |
本哲学史
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| 1996/31 |
本史学
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| 1996/1 |
文部省から大学院重点化認可の内示を受けた。
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| 1996/2/7 |
「自然科学系の大学院拡充の必要性」と「附置研究所の要望」とを踏まえ、附置研究所教官の大学院に対する協力体制の整備が文部省より一方的に求められた。京都大学では
|
|
| 1996/2/14 |
各部局にこの通達が示されるが、こうした動きに対し文学部教授会は、大学自治の観点から慎重な態度でのぞむよう以下のような要望書を平沢興総長に提出した。
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| 1996/3 |
竣工した。この建物は主として講義棟であるが、地下には閲覧室および書庫が設けられ
|
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| 1996/3 |
京都大学の中核的施設が集まり高密度が主な原因となって引き起こされている学園環境の劣化を解消するために、全学において吉田キャンパス施設長期計画が策定された。そこでは吉田キャンパスを西南から |
|
| 1996/5 |
文学部に文学部再編計画委員会が設置され、文学部における人事運用の柔軟性を高め、また財政危機を脱することを主たる目標として、文学部の教育研究体制の大規模な再編が始まった。その方向性を最初に示したものが
|
|
| 1996/5 |
「文学研究科協力講座の発足にあたっての文学研究科長・人文科学研究所長の基礎的取り決め」が両者によって調印された。結果、人文科学研究所からは17名の教官が協力講座として参加することになり、文学研究科の学生定員は、最終的に修士126名、博士63名となった
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| 1996/8 |
哲学科閲覧室が移るとともに、文学科閲覧室と統合した。文学部新館第二期は
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| 1996/11 |
号)1-30頁。
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| 1996/11/1 |
京都大学文学研究科と奈良女子大学大学院人間文化研究科との間で学生交流協定が締結された。内容は
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| 1996/11/30 |
創立期の京大文科 −東洋学の群像−、 |
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| 1996/12 |
例会報告
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| 1997 |
第5回 |
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| 1997 |
京都大学百年史編集委員会編. 『京都大学百年史』総説編 第8章第9節「京都大学キャンパスの歴史的建造物」 (1997年)
|
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| 1997 |
を受賞している。(「京都大学百年史」、一部改変)
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| 1997 |
かけて大学院重点化を進め、大学科制を柱とする学部改組を行った。さらに
|
|
| 1997 |
指導のもとに発展しましたが、特に
|
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| 1997 |
刀水書房 1997年 ISBN
|
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| 1997 |
大山喬平教授退官記念会編『 |
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| 1997/3 |
から工事が始まり
|
|
| 1997/5/31 |
東北大学
|
|
| 1997/6 |
全学の建築委員会において計画が変更され、法学部本館は耐震工事を施したうえで利用することとなり、当初の計画は大きく変更された。
|
|
| 1997/6/30 |
京都大学と |
|
| 1997/8 |
医学図書館の建設が始まった。昭和40(1965)年、地上3階、地下1階、総面積2,247.817&m2unit;、鉄筋コンクリート造り医学図書館は完成し、各教室の図書はここに集中管理されるようになった
|
|
| 1997/8 |
完成、その直後、東館にあった史学科閲覧室が完成した新館に移り、従来3閲覧室であったものが1閲覧室に統合された。
|
|
| 1997/9 |
例会報告
|
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| 1997/10 |
まで)
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| 1997/10 |
号)66-80頁。
|
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| 1997/11/29 |
人文的教養のゆくえ
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| 1998 |
学生便覧に「性差別にかかわる人権問題の相談窓口の存在について」が
|
|
| 1998 |
より行なわれるようになった。異なる専門分野の教員と接することで視野を広げることを目的としている
|
|
| 1998 |
京都大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了.京都大学リサーチアソシエイト( |
|
| 1998 |
2.ヘルベルト・ハックス著「 |
|
| 1998/3 |
多自由度ハミルトン系に関する研究により名古屋大学より博士号を授与される。
|
|
| 1998/3/27 |
ジュネーヴ大学文学部( |
|
| 1998/4 |
立命館大学にポストドクトラルフェローとして採用され、微分方程式における繰り込み群の研究を行う。
|
|
| 1998/5/9 |
広島大学経済学部 |
|
| 1998/11/28 |
高度情報化時代の人文学
|
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| 1998/12 |
第6代教授として小川 修が着任し、関連する大学、 |
|
| 1999 |
学生便覧に「性差別の防止のためのガイドライン」と「「性差別等相談窓口」について」が、さらに
|
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| 1999 |
京都大学工学部情報学科卒業.
|
|
| 1999/4 |
京都大学情報学研究科に助手として採用され、多自由度ハミルトン系の統計的・力学的研究を行う。
|
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| 1999/5/30 |
京都大学
|
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| 1999/7/16 |
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| 1999/10 |
窓口へ訴えられた文学研究科教授のセクシュアル・ハラスメント疑惑に関する調査を行うため
|
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| 1999/11/27 |
病い−その思想と文化−
|
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| 2000 |
東北大学大学院情報科学研究科修了. 博士(情報科学). エージェントモデルと確率過程に立脚した多変量経済時系列分析, 高頻度金融時系列分析の研究に従事.
|
|
| 2000 |
同大学院情報理工学研究科博士後期課程修了.博士(工学).
|
|
| 2000 |
日本電気株式会社入社.
|
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| 2000 |
』」『比較経済体制研究』第10号,
|
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| 2000 |
学生便覧に加えて「カウンセリングセンター」の紹介が、掲載された。
|
|
| 2000/3/22 |
教授会において、「特別研究期間についての申し合わせ」が承認された。これは、「文学部・文学研究科は、教官の責務である研究・教育・大学運営のうち、研究活動がその性質上高度の時間的集中を必要とするものであることに鑑み、特別研究期間を設定」したものである
|
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| 2000/4 |
から施行されたが、現在この制度を利用した教官・教員は、2名に止まっている。
|
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| 2000/4/1 |
から施行、修士課程学生(奈良女子大学では博士前期課程学生)を対象とし、両研究科相互に授業を提供、単位を認定するものであった。受け入れた学生の身分は特別聴講学生とし、それに付随する授業料は非徴収である
|
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| 2000/5 |
臨時増刊。旺文社)
|
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| 2000/6 |
セクシュアル・ハラスメントに関する問題を扱う全学の人権問題対策委員会が設置され、またセクシュアル・ハラスメント相談窓口への訴えを機に
|
|
| 2000/6/6 |
全学建築委員会で見直しが行われ、工学部4号館および工学部9号館の文系学部での改修利用が決定され
|
|
| 2000/10 |
セクシュアル・ハラスメント相談窓口に訴えられて以来、事態を深刻に受けとめ、教授会のもとに「人権問題対策委員会」、さらに「調査委員会」を設置して、事実究明のために最大限の調査を行い、教授会で検討を重ねた。同日の評議会での懲戒処分は、以上の結果に基づくものである
|
|
| 2000/11 |
6.「 |
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| 2000/12/9 |
古代人のメソドロジー、−人間性の原点を探る二一世紀の歴史学−
|
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| 2000/12/24 |
文学部は、教育学部・法学部・経済学部・人文科学研究所とともにハーヴァード大学燕京研究所( |
|
| 2001 |
食糧科学研究所との統合による研究科の強化と学部の再改組を行い、6学科7専攻体制を取るに至った。このことにより、建学以来一貫して求めてきた自然科学と社会科学の連携、 |
|
| 2001 |
|
|
| 2001 |
藤井讓治・有坂道子編『京都大学文学部 |
|
| 2001 |
入って始まる。
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| 2001 |
より現職。グラフ・ネットワークアルゴリズム、離散幾何学、組合せゲーム・パズル等の研究に従事
|
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| 2001/1 |
1月
|
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| 2001/1/11 |
「文学部・文学研究科人権問題調査委員会」が設置された。その後、「調査委員会」による調査が重ねられ、教授会での検討を経たあと
|
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| 2001/2 |
2月
|
|
| 2001/3 |
3月
|
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| 2001/4 |
4月
|
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| 2001/5 |
5月
|
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| 2001/6 |
6月
|
|
| 2001/6 |
139-165頁 (非市販文献)
|
|
| 2001/6/19 |
|
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| 2001/6/30 |
次大会
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| 2001/7 |
,83-93ページ。
|
|
| 2001/7 |
7月
|
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| 2001/9 |
相談窓口についてより詳細に紹介するパンフレット「「セクシュアル・ハラスメント等相談窓口」について」が作成され、窓口で配布され
|
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| 2001/12 |
文学研究科中・長期計画策定ワーキング・グループによって作成された「あるべき今後の文学研究科像について−あたらしい「人文学」にむけて−」が提案され
|
|
| 2001/12/1 |
|
|
| 2001/12/20 |
2. |
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| 2001/12/20 |
教授会で、中・長期計画の最終案として承認された。
|
|
| 2002 |
じめには、「世界的教育研究拠点の形成のための重点的支援−21世紀COEプログラム−」と変わった。
|
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| 2002 |
以降減少し、特に
|
|
| 2002 |
京都大学大学院博士学位(情報学)を修得し,
|
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| 2002 |
学生便覧に載せられた。さらに
|
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| 2002 |
独語外国書講読(学部 平成14年)
|
|
| 2002 |
から始まった工学部の桂移転にともなう吉田キャンパス再配置計画の策定により
|
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| 2002/2 |
刊行 556ページ
|
|
| 2002/2/20 |
1.[研究報告] 「 |
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| 2002/3/19 |
全学建築委員会で、文系四学部共同棟2200㎡と工学部4号館1800㎡とを文学部が使用することになり、それへの移転が修了した段階で東館は取り壊すことになった。当初、これらの計画は
|
|
| 2002/7/10 |
教授会において、文学部・文学研究科「中期計画・参考資料」(第1次案)が承認された。その後、大学全体の中期目標・中期計画のワークシートが提示され、それに沿った文学研究科・文学部の第1期「中期目標・中期計画」[大学実施要項]を作成し
|
|
| 2002/8/8 |
午後は文系学部と理学部
|
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| 2002/8/9 |
午後は医学部・薬学部・工学部でそれぞれ会場を分けて開催された。文学部では、ABの二つの時間帯に分け、それぞれに180名の希望者を募り、新館第3講義室を会場に、学部長の歓迎の挨拶のあと、各系ごとに施設見学、研究室訪問を実施し、最後に分野別教官との意見交換をもって終了した
|
|
| 2002/8/9 |
両�に開催され、両日とも午前中、総合体育館において全体説明会があり
|
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| 2002/9/30 |
13時-14時 於:ルビノ |
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| 2002/10/9 |
採択された。
|
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| 2002/11/16 |
神戸学院大学
|
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| 2002/11/22 |
4.第13回 |
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| 2002/11/29 |
1.[非常勤講師] 関西学院大学,担当科目「総合コース467 |
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| 2002/12/2 |
歴史の現在を問う、「自然という文化」の射程
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| 2003 |
最後の学生募集となる。
|
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| 2003 |
まで学生募集された[1]。大学の略称は京大医短
|
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| 2003 |
以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。
|
|
| 2003 |
完了する予定であったが、実際には耐震工事の遅れなどもあって、いまだに実現していない。
|
|
| 2003 |
以降、「扇町創造 |
|
| 2003 |
スクールカラー
|
|
| 2003 |
化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはA~Dの4つの「クラスター」に別れており、Cクラスターの一部は
|
|
| 2003 |
を基準として毎年1%の効率化係数が、人件費にも物件費にもかけられることになったことである。文学研究科に単純に当てはめれば、教員1名の削減を毎年行わなければならないことになり、これまでの文学研究科の教育研究体制を大きく揺るがしかねない問題である
|
|
| 2003 |
までには取り壊されることになっていたが
|
|
| 2003 |
経済史・思想史入門(学部 平成15年度)
|
|
| 2003 |
教員人事の柔軟化とともに大学院重点化のもう一つの目標であった文学部・文学研究科の財政問題は、大講座化の前年
|
|
| 2003 |
藤井讓治・岩崎奈緒子編『 |
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| 2003 |
産業考古学会全国大会 特別講演
|
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| 2003 |
より同大学学術情報メディアセンター助教授
|
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| 2003 |
(続刊中)
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| 2003/5/31 |
東京経済大学
|
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| 2003/6 |
「大学(国立大学)の |
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| 2003/6/1 |
関連資料4:『誠之館同窓会報(第10号)』、33頁、「建築家武田五一・田邊淳吉の親たち」、園尾裕、福山誠之館同窓会編刊、2003年6月1日
|
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| 2003/7 |
本部に提出した。
|
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| 2003/8/11 |
「みやこめっせ」を会場として、総長の講演、在学生からのメッセージのあと午後は相談コーナーでの相談にあてられた。
|
|
| 2003/8/29 |
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| 2003/11 |
,115-117頁所収。
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| 2003/11/3 |
西島 和彦 名誉教授 基礎研教授 素粒子物理学
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| 2003/11/11 |
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| 2003/11/26 |
「キャンパス |
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| 2003/12/6 |
文学と言語にみる異文化意識
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| 2004 |
国立大学としては初めて民間のコンビニエンスストアローソンが吉田南総合館地下に開店した。
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| 2004 |
から京都大学大学院教授.グラフに関する問題を中心に離散最適化問題を解く効率の良いアルゴリズムの研究に従事.
|
|
| 2004 |
以降、これまで認められてきた非常勤講師経費が財務省で予算化されなかったことにより、その経費を研究科で負担する必要が生じたことである。このように、法人化は、文学研究科の研究・教育にとって望まれるものとはいいがたい
|
|
| 2004 |
男子ラクロス部は、 |
|
| 2004 |
8(a).「 |
|
| 2004 |
5,205-233頁。
|
|
| 2004 |
定価:本体5000円 ISBN: 4/87698/434-4
|
|
| 2004 |
より現職.非線形制御,非ホロノミックシステム,ロボティクス(特に移動ロボット,跳躍ロボット)の研究に従事.
|
|
| 2004 |
7,99-122頁所収。ヘルベルト・ハックス「市場変動と |
|
| 2004 |
採択されているプログラム
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| 2004 |
以前入学者については、A・B・D群が同一視されていた。
|
|
| 2004 |
X (共訳/第8章[173-206頁]のみを担当)
|
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| 2004 |
から始まった卒後研修義務化に伴い、2年間入局者がない時代があったが、今では、教室には若い力が漲るようになり、京大眼科は新しい時代を切り拓いている。
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| 2004 |
信州大学から吉村長久が教授に着任した。吉村は、基礎研究志向の強かった本田教授時代に対し、眼科疾患研究に重点を置き、黄斑疾患、網膜硝子体疾患、緑内障の研究を進めている
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| 2004 |
平成16年
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| 2004 |
よりサンスクリット語学サンスクリット文学と |
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| 2004 |
以降は定員を割っている。
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| 2004 |
現代史学・現代 |
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| 2004/1 |
,55-58頁所収。
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| 2004/4 |
国立大学法人 |
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| 2004/8/18 |
両日があてられ、両日とも午前は時計台百周年記念ホールで全体説明会があり、文学部は
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| 2004/10 |
,159-186頁。
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| 2004/10 |
「キャンパス・ハラスメント・ガイドライン」が新たに定められ、キャンパス・ハラスメントの一層の防止をめざす努力がなされている。
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| 2004/11 |
刊行されている。また、このフォーラムの意図とほぼ同一線上で、文学研究科の教官を中心としたエッセイ集『知のたのしみ学のよろこび』を
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| 2004/11 |
,417-436頁。
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| 2004/11/25 |
, |
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| 2004/12/4 |
空間の行動文化学
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| 2005 |
例会報告
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| 2005 |
入学者まで)
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| 2005 |
までの修士および博士の専修別入学者数は表2・表3のとおりである。修士入学者は、いずれの年も定員に満つることはなかったが、100名を割ることもなく、最高119名、最低101名、平均108.8名である
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| 2005 |
実績)
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| 2005 |
同助教授となり,現在に至る.
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| 2005 |
卒業後の徴集や戦死の状況は不明)
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| 2005 |
勝山清次・早島大祐編『京都大学文学部 |
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| 2005 |
決算額は394,037,000円であり、それほど大きな減少ではないが、今後、効率化係数等が適用され、このままでは財政は徐々に縮小していく。
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| 2005/2/28 |
1.「総論: |
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| 2005/3/26 |
於:「あだたら高原岳温泉郷 鏡が池 碧山亭」
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| 2005/4 |
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| 2005/4/1 |
関連情報5:『 |
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| 2005/5 |
例会報告
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| 2005/6/27 |
広島大学経済学部 |
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| 2005/7/1 |
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| 2005/8/2 |
文学部は
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| 2005/8/11 |
前年同様の形式で行われた。
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| 2005/9 |
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| 2005/9 |
より現職.
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| 2005/9/24 |
2. [非常勤講師] 甲南大学経済学部 担当科目「 |
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| 2005/11 |
事務本部を経営企画本部と教育研究推進本部に分割、改組。
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| 2005/11 |
当時の尾池和夫第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長 |
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| 2005/11/3 |
沢田 敏男 名誉教授 農学部教授 農業工学
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| 2005/11/27 |
,ボッフム/ |
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| 2005/12/17 |
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| 2006 |
情報処理学会山下記念研究賞受賞. |
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| 2006 |
京都大学学術出版会
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| 2006 |
まで
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| 2006 |
,165-186頁。
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| 2006 |
事務組織再編により組織名変更、保健学科図書室業務を含む)
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| 2006 |
から現職。量子力学や場の量子論の研究をしており、最近はおもに量子系の観測・制御の理論を研究している
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| 2006 |
』の刊行である。前者は、文学研究科における活動の最新の成果を反映しようとするものである
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| 2006 |
文学部百周年にあたり、京都大学文学部百周年記念事業会が結成され、卒業生・教員等からの募金を募り、以下のような事業が計画されている。
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| 2006 |
全学共通科目 国際交流科目「 |
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| 2006 |
近いあいだに虫損や劣化による損傷もみられるようになり、修復しなければ利用することができないものも出てきた。本事業は、これに応えるものである
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| 2006 |
可積分系の大域解析から応用解析へ研究を展開。主著は高速高精度な新しい特異値分解アルゴリズムを解説した「可積分系の機能数理」(共立出版、平成18年)。
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| 2006 |
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| 2006 |
歴史、専攻・専修の歴史等で構成される。
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| 2006/1 |
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| 2006/2/13 |
]」佐藤勝則『比較連邦制史の研究 科学研究費研究成果報告書』
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| 2006/3 |
,ISBN
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| 2006/3 |
まで宇都宮大学助手,
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| 2006/3 |
現在で、2650万円を超え、多くの方々の協力が得られ、事業はほぼ目標どおりに進められるであろう。
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| 2006/3/30 |
京大・情報学・システム科学・助手. 現在, 京大・情報学・システム科学・准教授.
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| 2006/5/10 |
/第109号(同
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| 2006/5/17 |
掲載記事
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| 2006/6/10 |
発行の時点のものです。)
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| 2006/6/10 |
京都大学時計台記念館百周年記念ホールにて執り行ない、あわせて、ジョシュア・フォーゲル教授、マイケル・ヴィッツェル教授、上田閑照名誉教授による講演会が企画されている。
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| 2006/6/27 |
更新:タイトル、所蔵品●
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| 2006/7 |
次世代開拓研究ユニット設置。
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| 2006/7 |
,117-119頁。
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| 2006/12 |
同大学院助手に着任。
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| 2007 |
より准教授.
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| 2007 |
キャンパス間の交通
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| 2007 |
京都大学工学部教授(数理工学専攻)を経て現在に至る。液体論を含む統計物理学、初通過問題、確率共鳴等確率過程論、古典および |
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| 2007 |
で第113回を数えている。浅山は、在職中の
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| 2007 |
職名変更により同准教授),現在に至る. 高性能計算,線形反復法,電磁界解析に関する研究に従事.京都大学博士(工
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| 2007 |
現代経済事情(学部 平成19年度)
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| 2007 |
岩崎奈緒子編『石井家文書目録』京都大学総合博物館、2007年
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| 2007 |
最終更新日 2007/04/19
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| 2007/2 |
本を意匠した近代建築家たち』、ふくやま美術館編刊
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| 2007/1 |
撮影)
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| 2007/1/13 |
更新:肩書●
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| 2007/3 |
閉校)
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| 2007/4 |
同大学院助教となり現在に至る。最適化、数理計画の理論、およびそれらの信号処理等に対する応用に関する研究に従事
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| 2007/4 |
こころの未来研究センター、先端医工学研究ユニット、生命科学系キャリアパス形成ユニット設置。
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| 2007/4 |
より大阪市立大学名誉教授
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| 2007/7 |
より現職。強化学習を中心とする機械学習を専門とし、近年は数理モデルを用いた生命システム学である、計算論的認知心理学、システム神経生物学、バイオインフォマティクスの研究にも取り組む
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| 2007/9 |
レシピを再現したレトルトカレーが発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、 |
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| 2007/10/20 |
愛媛大学
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| 2007/11/3 |
岡田 節人 名誉教授 理学部教授 発生生物学
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| 2007/12/17 |
3. [非常勤講師] 東北大学 大学院文学研究科 歴史科学専攻 |
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| 2008 |
ノーベル賞 伊藤 清 名誉教授 数理解析研究所教授 解析学、確率過程論
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| 2008 |
(続刊中)
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| 2008 |
〜現在)を歴任している。 |
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| 2008 |
/渡辺純子准教授・坂出健准教授と分担)
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| 2008 |
現在も建設中、Dクラスターは整備開始の目処が立っていない。なお |
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| 2008 |
管理者要員 |
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| 2008 |
前期)
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| 2008 |
科学研究費補助金基盤研究(C)「組織的犯罪対策法の総合的研究」研究セミナー)
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| 2008 |
夏期シンポジウム「現代史における経済空間の再検討—— |
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| 2008 |
優勝している。
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| 2008 |
全国大会 共通論題『地方自治の国際比較』報告
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| 2008/1 |
6往復、吉田~桂間が
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| 2008/1 |
3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある
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| 2008/1/24 |
,芝蘭会館( |
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| 2008/3 |
,早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)
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| 2008/3 |
撮影)
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| 2008/4 |
京都大学大学院情報学研究科GCOE助教,現在に至る。主に,有限要素法や積分方程式法を用いた大規模電磁界数値解析技術の開発,および電気機器の特性解析に関する研究に従事
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| 2008/7/25 |
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| 2008/8/29 |
於:大阪市立大学文化交流センター
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| 2008/11/3 |
益 |
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| 2009 |
より、 |
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| 2009 |
〜現在
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| 2009 |
更新 管理人
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| 2009 |
より改編)
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| 2009 |
入学式は防災上の理由[要出典]によりみやこメッセで行われた。
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| 2009 |
13.「中立国 |
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| 2009/1 |
,106-108頁。
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| 2009/1/26 |
,14:00-17:00
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| 2009/2 |
,54-57頁。
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| 2009/6 |
,47-72頁。
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| 2009/11/3 |
日沼 頼夫 名誉教授 ウィルス研究所教授 微生物学
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| 2009/11/13 |
更新:武田五一・関連本、出典、関連資料●
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