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京都大学(きょうとだいがく)

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京都大学(きょうとだいがく)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1861 京都大学の起源は1861年 情報源のサイトへ
1861 長崎に設立された長崎養生所(その後長崎得館へ改称)まで遡る。長崎得館の理化学部門は当初江戸にあった開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていたが、明治維新の混乱で実現しなかった 情報源のサイトへ
1869 開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を大阪英語学校 (旧制)、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ 情報源のサイトへ
1869 設立は京都帝国大学が誕生した 情報源のサイトへ
1870 理学校は 情報源のサイトへ
1872 生:明治5年 情報源のサイトへ
1872/11/15 広島県深安郡福山町字西町生まれ 情報源のサイトへ
1881 明治14年 情報源のサイトへ
1884 明治17年 情報源のサイトへ
1886 公布された中学校令によって、第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は 情報源のサイトへ
1889/8/1 京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。 情報源のサイトへ
1893 本部構内正門(旧第三高等中学校正門):1893年 情報源のサイトへ
1894 公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は旧制の第三高等学校(以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。 情報源のサイトへ
1894 明治27年 情報源のサイトへ
1895/11/30 予算処置が可決される。 情報源のサイトへ
1897 設置された。大学の略称は京大(きょうだい) 情報源のサイトへ
1897 建設。吉田南構内 情報源のサイトへ
1897 総合人間学部正門(旧第三高等学校正門):1897年 情報源のサイトへ
1897 帝国大学工科大学造家学科を卒業。 情報源のサイトへ
1897 創設された京都帝国大学の7番目の学部として 情報源のサイトへ
1897/6/18 制定された勅令第209号により、京都帝国大学の設置が正式に決まった。医学部は 情報源のサイトへ
1898 から翌々年にかけて教授就任予定者たち(大西祝・松本文三郎・谷本富・狩野直喜)が海外留学に派遣され、開設に向けた準備は早くから進められていた(大西は文科大学学長に予定されていたが、病気のため実現しなかった)。にもかかわらず実際の開設が他の分科大学に比べて遅れたのは、東京帝国大学の文科大学さえ学生定員を満たしていないのだから開設を急ぐ必要はないとする文部省の一部の意向や、関係の緊迫といった状況のゆえと伝えられている 情報源のサイトへ
1898 保健管理センター・学生部:1898年 情報源のサイトへ
1898 まず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により 情報源のサイトへ
1898 建築、2階部分は 情報源のサイトへ
1898 京都府立医学校(今の京都府立医大)教諭浅山郁次郎が将来京都帝国大学眼科学講座担当の予定で眼科学研究のため、3年間のドイツ留学を命じられている。 情報源のサイトへ
1899 京都帝国大学医科大学として設立された。眼科学講座設置が正式に決まったのは、1901年6月20日である 情報源のサイトへ
1899 同大学助教授となる。 情報源のサイトへ
1899 京都帝国大学医科大学附属医院看護婦見習講習科を置く。 情報源のサイトへ
1900 明治33年 情報源のサイトへ
1900 文部省より図案研究のためヨーロッパに派遣され、3年間滞欧。帰国後、京都高等工芸学校図案科主任となり、アール・ヌーヴォー様式の導入とデザイン教育の実践を推進した 情報源のサイトへ
1901 医学部解剖学教室本館:1901年 情報源のサイトへ
1901 建築。医学部構内 情報源のサイトへ
1901 最初に竣工した建築である。本館ははじめすべて煉瓦造りで計画されていたようだが、西端部に接続する標本室が煉瓦造りで建てられた以外は、木造となった 情報源のサイトへ
1902 (1902)、皮膚病学講座が開講され、松浦有志太郎が教授に就任。この時より泌尿器科疾患も研究治療の対象となり 情報源のサイトへ
1902 産婆講習科を置く。 情報源のサイトへ
1902/1/30 病理学に造詣が深く、浅山門下の三羽烏といわれた菅沼定男(慶応大学眼科初代教授)、小柳美三(東北大学眼科初代教授)、市川清(京大2代教授)を育てている。浅山郁次郎の時代に京都眼科学会が設立され、今年 情報源のサイトへ
1902/2/7 付けで浅山郁次郎が教授に着任し、ここに教室が正式に発足した。 情報源のサイトへ
1903 尊擾堂:1903年 情報源のサイトへ
1903 建築。本部構内 情報源のサイトへ
1903/7/30 会(浅井忠主宰)に参加 情報源のサイトへ
1905 明治38年 情報源のサイトへ
1905/11 設立案が帝国議会を通過し、翌 情報源のサイトへ
1906 京都帝国大学文科大学を設置し、約 情報源のサイトへ
1906 文学研究科は、明治39年 情報源のサイトへ
1906 末ごろ 情報源のサイトへ
1906 京都帝国大学文科大学として開設されて以来、学問それ自体の要求する実証性に即して研究教育の体制を築くことを理念として常にかかげてきた。これはまた京都大学全体の中心にある自由と自主の理念そのものでもある 情報源のサイトへ
1906/4 狩野亨吉(第一高等学校校長)・谷本富(京都帝大理工科大学講師)・狩野直喜(台湾旧慣調査会)・松本文三郎(東京帝大文科大学講師)・桑木嚴翼(第一高等学校教授)の5名が開設委員に任命されてようやく創立の準備が整った。次いで 情報源のサイトへ
1906/6 勅令135号によって当初設置される6つの講座が定められ、文部省令第10号によって 情報源のサイトへ
1906/7 上記の開設委員に松本亦太郎を加えた6名が相次いで教授に就任、狩野亨吉が初代文科大学学長に就任した。 情報源のサイトへ
1906/8/16 最初の文科大学規程が制定され、哲学・史学・文学の3学科を置くことや各学科に属する正副の科目の種類などが定められた。 情報源のサイトへ
1906/9/3 最初の教授会が開催され 情報源のサイトへ
1906/9/11 文科大学を開設することが決まった。 情報源のサイトへ
1906/10 枳穀邸を会場に教官・学生三十数名が参加して開かれ、その後毎月のように茶話会・講演会・遠足等の行事を催した。当時は教官・学生ともにごく少人数で、寺子屋のような親密な雰囲気があったことが当時の教官や学生の回想等から窺われる 情報源のサイトへ
1907 明治40年 情報源のサイトへ
1907 や、和洋折衷の芝川情報源のサイトへ
1907/6 法科大学と共用の2階建木造建築が本部構内のほぼ中央部(現在の法経本館のすぐ北側)に完成し、その東半分が文科大学に割り当てられて事務室・教官室・教室はこちらに移転した。その東側に 情報源のサイトへ
1907/8/30 文学科は翌々年と 情報源のサイトへ
1908/2 史学科を母体として史学研究会が、1914(大正3)年 情報源のサイトへ
1908/6 心理学実験室(木造平屋建)が完成、さらにその北側(旧本館と東館にまたがる位置)に 情報源のサイトへ
1908/11 哲学科を母体として京都哲学会がそれぞれ設立された。 情報源のサイトへ
1909 京都商品陳列所 情報源のサイトへ
1909/5 2階建の木造建築1棟が竣工し、これが 情報源のサイトへ
1910 明治43年 情報源のサイトへ
1910 同志社女学校静和情報源のサイトへ
1910/2 発足した。これは「哲学史学文学の進歩及び普及を図るを以て目的と」(同会規則)して、文科大学教授を評議員として組織され、雑誌『藝文』の刊行を主要な事業とするものであった 情報源のサイトへ
1910/4 発刊され、月刊誌として市販された。同誌には文科大学の教官や卒業生の研究論文・エッセイのほか、各年度の講義題目・卒業論文題目や学内諸学会の動向、海外通信等を記載した「彙報」欄もあり、研究紀要と総合雑誌の性格を兼ね備えたものであった 情報源のサイトへ
1911 京都商工会議所 情報源のサイトへ
1911 建築。吉田南構内 情報源のサイトへ
1911 旧第三高等学校学生集会所:1911年 情報源のサイトへ
1911 産婆講習科が産婆養成所となる。 情報源のサイトへ
1911/10 刊)であった。以後 情報源のサイトへ
1912 など先駆的住宅作品を残し、集合住宅の計画や実作も手がけて、大正中期からの住宅改良運動にも大きく貢献した。数多い実作の中でも代表的なものに、前期の名和昆虫館 情報源のサイトへ
1912 大正元年 情報源のサイトへ
1912/2/28 関連資料1:『福山学生会雑誌(第39号)』、67頁、「故武田直行畧傳」、武田五一誌、福山学生会事務所編刊、明治45年2月28日 情報源のサイトへ
1913 (1913)に外来の1診察室を恥室と名付け、ここで尿道疾患の診療が行われるようになった。診療は西部講堂で行われていた 情報源のサイトへ
1914 文学部陳列館:1914年 情報源のサイトへ
1914 建築。本部構内 情報源のサイトへ
1914/3 陳列館(煉瓦造二階建)の第1期工事が完了し 情報源のサイトへ
1914/4 これを契機として教授会の教官人事権が実質的に確立したとされる。文科大学の教授会は当初、谷本教授の辞職に組織だった抗議をしなかったものの、その後、総長を学内から教官の公選によって選ぶ制度の確立の過程では松本学長を初めとする文科大学の教官たちが指導的役割を果たした(松尾尊兊『滝川事件』岩波書店、2005) 情報源のサイトへ /5070537.jpg
1914/7 史学科の全教室や美学美術史学の研究室がそちらに移転した。同館では研究・教育活動と密着した収集・展示活動を行っており、その収蔵資料には国宝・重要文化財に指定されているものもある 情報源のサイトへ
1915 大正4年 情報源のサイトへ
1915 後期の京都帝国大学建築学教室 情報源のサイトへ
1915 逝去した。 情報源のサイトへ
1915/4/15 関連資料2:『福山学生会雑誌(第45号)』、目次裏頁・64頁、福山学生会事務所編刊、大正4年4月15日 情報源のサイトへ
1915/12 教授に任じられた。市川は手術の名手、非常な秀才であったようで、講義は正確無比、議論は快刀乱麻を断つがごときであったという 情報源のサイトへ
1916 京都帝国大学医科大学附属医院看護婦講習科に改称。 情報源のサイトへ
1916 設立された朝比奈隆の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な京都大学交響楽団や学生新聞にあたる「京都大学新聞」を発行している京都大学新聞社などが知られている。また、京都大学SF研究会はSFファンダムにおいてローカルコン京都SFフェスティバルの主催などで知られている 情報源のサイトへ
1916/1 史学研究会が『史林』 情報源のサイトへ
1916/4 機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。全国七大学総合体育大会および近畿地区国公立大学体育大会の参加校である 情報源のサイトへ
1916/4 京都哲学会が『哲学研究』を相次いで創刊し、両誌は今日までわが国を代表する学術誌として刊行され続けている。こうした分野別の学会とは別に、文科大学全体を基盤にした学会として京都文学会が 情報源のサイトへ
1916/11 祭」を参照 情報源のサイトへ
1916/11 下旬に4日間、吉田キャンパス内、吉田南構内および本部構内にて行われる。 情報源のサイトへ
1917 琵琶湖周航の途上に作詞した。曲は当時部員の間で流行していた歌『ひつじぐさ』(作曲 吉田千秋)のものを流用している 情報源のサイトへ
1919 分科大学制が学部制に変わった。 情報源のサイトへ
1919 (1919)松浦教授勇退の後、松本信一が教授に就任したが、助教授の井上五郎は専ら泌尿器科学の診療研究に力を注ぎ、ドイツアメリカに留学し、帰国後精力的に泌尿器科学の診療と研究の指導を行った。 情報源のサイトへ
1919 京都帝国大学に工学部建築学科を創設し教授となる。またフランク・ロイド・ライトの日本での活動を援助したことでも知られる 情報源のサイトへ
1919 以降の高等学校の増設によって、全国で8校しかなかった高等学校が大正末年までに34校になり、これに伴って、それまで本科でほぼ30~50名程度、選科で10~30名の水準で安定していた文学部への入学者数が 情報源のサイトへ
1919/6/4 勅令第135号によって京都帝国大学文科大学の開設が定められた時にさかのぼる。京大に法科大学・医科大学・理工科大学と並んで文科大学を置くことは、京大を2番目の帝国大学として設立することを定めた 情報源のサイトへ
1920 だけは7カ月で終わることになった。また大学令では大学院を各学部に新たに設置される「研究科」を総合したものと規定したが、京大では大学院についての規定にほとんど変化はなかった 情報源のサイトへ
1920 大正9年 情報源のサイトへ
1921 京大を含む各大学の学年歴が変更され、従来 情報源のサイトへ
1921 までに6巻が刊行されている。 情報源のサイトへ
1921/4 開始になったため 情報源のサイトへ
1921/4 京都府北桑田郡井村芦生芦生演習林を開設 情報源のサイトへ
1921/9 始まっていた学年が 情報源のサイトへ
1922 増築。本部構内 情報源のサイトへ
1922 90名から 情報源のサイトへ
1922 本科だけで68名となり、以後増加を続けて1927(昭和2)年には299名を記録した。本科の全学生数でみると 情報源のサイトへ
1922 京都帝国大学医学部附属医院看護婦産婆養成所に改組。看護婦科と産婆科を置く 情報源のサイトへ
1922 同本館 情報源のサイトへ
1922/5 宗教学第二講座(基督教学) 情報源のサイトへ
1923 農作園芸学科(後に農学科と改称)・林学科・農芸化学科・農林生物学科・農林工学科・農林経済学科の6学科より出発した。研究方法によって学科を区分する純粋科学的な農学の発展を展望する独自の学風が掲げられた 情報源のサイトへ
1923/10 完成するが、これが現在の新館完成までの長い期間、文学部中央教室(または本館)と呼ばれたものであり、学部長室や事務室はここに置かれた。また、史学科の拠点である陳列館は 情報源のサイトへ
1923/12 完成すると、ここに両学科の書庫と閲覧室が移された。この建物は5期に分けて増築され(残りの部分は鉄筋コンクリート造)、1936(昭和11)年 情報源のサイトへ
1923/12 第2期工事が竣工、その後も増築を続けて 情報源のサイトへ
1924 建築。北部構内 情報源のサイトへ
1924 農学部表門および門衛所:1924年 情報源のサイトへ
1924 藤井有鄰館 情報源のサイトへ
1925 建築。創立 情報源のサイトへ
1925 139名をピークに減少して以前の水準に戻った。さらに 情報源のサイトへ
1925 楽友会舘:1925年 情報源のサイトへ
1925/5 西洋文学第三講座(仏蘭西文学) 情報源のサイトへ
1925/12 学部規定を改正し 情報源のサイトへ
1926 福山市10周年を記念して建設された福山市公会堂も武田の設計になるもので、戦災を免れ戦後も文化の殿堂として市民に親しまれていたが 情報源のサイトへ
1926 大正15年 情報源のサイトへ
1926 東方文化学院京都研究所 情報源のサイトへ
1926/1 入学定員を改正し、それまで各学科70名だった定員を哲学科85、史学科40、文学科85と改めるとともに、専攻科目ごとの定員を新たに定めた。この際同時に専攻科目選定に関する規定を定め、専攻科目の志望者数が定員を超過した場合の学生の振り分け方法等を規定した 情報源のサイトへ
1926/3 教授会では各学科とも志望者の超過が15名以内の場合は入試を行わないことが申し合わされたうえ、後年にはこの基準はさらに緩和されて、実際にはこれをも上回る志望者を受け入れている。 情報源のサイトへ
1926/6 宗教学第三講座(仏教学)が開設されて合計30講座となった。 情報源のサイトへ
1926/6 国語学国文学と支那語学支那文学に各々第二講座が増設され、次いで 情報源のサイトへ
1926/11/30 より選科生のための学年試験を廃止して修了証書の授与を取り止めた。その結果、選科入学希望者は大幅に減り、選科生徒総数は 情報源のサイトへ
1927 以降、史学科では 情報源のサイトへ
1927/3 専攻科目選定規定の改正があり、文学科については入学時に志望科目を届け出させ、定員を超過する場合は入試の成績順に受け入れることとした。前述のように、従来は1回生は学科に分属するのみで 情報源のサイトへ
1928 文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求、教授会は河上の辞職を認める決議を出し河上は大学を追われる事になる。さらに 情報源のサイトへ
1929 以降ほぼ毎年入試を実施せざるをえなかったのに対し、哲学科は定員に満たないことが多かった。こうした趨勢に応じて 情報源のサイトへ
1929 709名へとわずか7年間で8倍弱にまで膨れ上がったのである(付録資料参照)。 情報源のサイトへ
1929/10 哲学哲学史第五講座(西洋哲学史) 情報源のサイトへ
1929/12 完成した。 情報源のサイトへ
1930 人文科学研究所附属漢字情報研究センター(旧外務省東方文化学院京都研究所):1930年 情報源のサイトへ
1930 などがある。 情報源のサイトへ
1930 スペインアメリカ住宅の様式を採用した京都大学人文科学研究所 情報源のサイトへ
1930/3 ドイツのライプツィヒ大学との間に学生の交換留学の協定が結ばれ、相互に1名ずつ2年間の期限で学生を派遣することが定められた。また、1930年代には文学部から小西重直(教育学教授法)・濱田耕作(考古学)・羽田亨(東洋史学)の3名の教授が相次いで京大総長に選出されており、学内における文学部の威信の高さを感じさせる 情報源のサイトへ
1930/11 まで在職した。 情報源のサイトへ
1930/12 盛新之助が大連医院より本講座担当を命じられた。盛は、網膜剥離手術に先駆的な役割を果たした 情報源のサイトへ
1931 農学部附属演習林旧本部事務室:1931年 情報源のサイトへ
1931/5 号をもって終刊となった。同時に京都文学会も解散した 情報源のサイトへ
1932/10 陳列館の北に木造平屋�史学科第一教室、次いで 情報源のサイトへ
1933 西田直次郎編『京都帝国大学国史研究室史料集』星野書店、1933年 情報源のサイトへ
1933/2 本を意匠した近代建築家たち』 情報源のサイトへ
1933/4 文学部卒業生有志による同窓会として「京大倶楽部」(京大以文会の前身)が結成され 情報源のサイトへ
1933/12 哲学科と史学科の入学定員はそれぞれ75名と50名に改められた。 情報源のサイトへ
1934 (1934)、泌尿器科講座が開設され、当初は松本が教授を兼任した。 情報源のサイトへ
1934 や法隆寺鵤文庫、宝蔵(1936 情報源のサイトへ
1934/7 西洋文学第四講座(文学) 情報源のサイトへ
1935 撤去されるまで文学部の主要な研究棟となった。研究室は平日は午後4時まで学生にも開放され、教官と学生の交流の場としても機能した 情報源のサイトへ
1935/11 創立30周年祝賀式の開催、『京都帝国大学文学部三十周年史』の刊行といった出来事があり、文学部卒業者の連帯感も高まってきたようである。ほぼこの頃までには人文学各分野において東大に対抗しうる研究・教育の拠点としての京大文学部の名声が確立され、その教官や卒業生は哲学科や中国学の諸分野を中心に「京都学派」と呼ばれるようになった 情報源のサイトへ
1936 『神祇並神道史に関する展観目録』京都帝国大学文学部国史研究室、1936年 情報源のサイトへ
1936/9 第1期工事が完了した。この過程で木造の旧本館は取り壊されたが、他方で教室の不足を補うため 情報源のサイトへ
1936/10 小島祐馬が京大出身者としては初めて文学部長に就任している。また 情報源のサイトへ
1937/12 日本精神史講座 情報源のサイトへ
1938 (1938)井上が初代専任教授となり、ここに泌尿器科学講座の第一歩が踏み出された。しかし教室は皮膚科泌尿器科教室の形をとっていた 情報源のサイトへ
1938 没:昭和13年 情報源のサイトへ
1938 (1938)に日本泌尿器科学会会長を務め、2回にわたって「膀胱砕石術」「尿路結核」の宿題報告を担当し、その他膀胱腫瘍に関する研究業績があり、わが国の学会に寄与するところ大であった。また当時外来診察室にはX線装置と膀胱鏡室を備え、このような近代的設備は本邦では京都大学だけであった 情報源のサイトへ
1938/2/5 享年67歳、東京豊島駒込の勝林寺に葬る 情報源のサイトへ
1938/11 就任した羽田は 情報源のサイトへ
1938/11/30 学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。卒業式と入学式などで使われる 情報源のサイトへ
1939 頃から京大でも始まっていた学生の勤労動員が 情報源のサイトへ
1939/1 文学部規定改正により西洋古典文学が講座外の正科目として加えられ、専攻学生の受け入れを開始した。 情報源のサイトへ
1940 制定された。歌詞は 情報源のサイトへ
1940 制定された。学旗の意匠は京都大学の公式サイト上に紹介されている 情報源のサイトへ
1940/11/10 西田 幾多郎 名誉教授 京都帝国大学 哲学 情報源のサイトへ
1940/12 伊太利語学伊太利文学講座の計4講座にとどまっている。このほか 情報源のサイトへ
1941 大学在学年限が3カ月短縮されて卒業が 情報源のサイトへ
1941 学友会が改組されて成立した同学会は、戦後全学の学生自治組織として生まれ変わり 情報源のサイトへ
1941/5 東館の東側に木造2階建の第一教室を建てて対応した。 情報源のサイトへ
1941/8 防衛団 情報源のサイトへ
1941/9 報国隊が全国の大学と同様に京大でも発足し、大学全体が緊急事態に対応できるように軍隊にならって組織された。1910(明治43)年以来学友会の恒例行事となっていた修学旅行も 情報源のサイトへ
1941/12 繰り上げられ 情報源のサイトへ
1942 (1942)井上教授退官後、翌 情報源のサイトへ
1942 を最後に中止となり、その他の学友会の行事も行われなくなった。 情報源のサイトへ
1942 高等学校の修学年限が6カ月短縮されたのを受けて京大でも 情報源のサイトへ
1942/7/15 教授会議事録)ありさまであった。 情報源のサイトへ
1942/9 卒業となった。 情報源のサイトへ
1942/10 2度新入生を受け入れている。この頃には文学部は再び入学者数が定員割れを起こすようになり、学生の追加募集を行っていたが、そのため「本来修学の意志なき者が腰掛け的に入学し」、「第二次第三次入学者の過半数は中途退学する」 情報源のサイトへ
1942/10 以降である。 情報源のサイトへ
1942/10/2 公布の勅令第755号「在学徴集延期臨時特例」によって文系学部および農学部の一部の学生への徴兵延期が停止され、「学徒出陣」が始まったのである。繰り上げ卒業の対象となった 情報源のサイトへ
1942/11/30 さらに3カ月繰り上げで 情報源のサイトへ
1943/4/29 湯川 秀樹 名誉教授 京都帝国大学 原子核物理学 情報源のサイトへ
1943/7/30 定めた「臨時措置」に従って対応することとなった。復員した学生の回生への割り当ても決められ、授業は 情報源のサイトへ
1943/9/30 9名が採用されたが 情報源のサイトへ
1943/10 優秀な若手研究者を確保するため、帝国大学を初めとする特定の大学を対象に大学院特別研究生制度が発足し、これに採用された大学院生は学資を支給されたうえ召集を免除されて研究に専念できる特権を与えられた。文学部では 情報源のサイトへ
1943/10/11 より開講された。 情報源のサイトへ
1944 入って本格化し、文学部の学生も貯水池の造成や防空壕の建設等の集団作業に動員されるようになった。とりわけ 情報源のサイトへ
1944/3 文学部規定を改正し 情報源のサイトへ
1944/3 退官しているが、その在職期間後半は、太平洋戦争の真只中で、教室からも軍医として出征、戦死者が出ている。 情報源のサイトへ
1944/5 始まった愛知県豊川の海軍工廠への文学部2回生の出動は 情報源のサイトへ
1944/8/15 日本の敗戦をもって戦争が終わると、復員してきた学生たちが次第に大学に戻り、学内は再び活気を取り戻した。教授会では急遽授業計画について協議し、年度内は 情報源のサイトへ
1944/8/30 からは文科系学生は対象外となった。 情報源のサイトへ
1944/9 大阪赤十字病院より山本清一が教授として着任した。山本の時代は戦争のため、教室運営、眼科学研究も困難を極めた 情報源のサイトへ
1944/9/30 建物疎開のため心理学実験室や陳列館北側の史学科教室等が撤去された。 情報源のサイトへ
1944/10 文学部は「授業並ニ試問ニ関スル臨時措置」を決めて従来の学部規定を臨時に変更し、単位の取得に関する規定を大幅に簡素化して卒業しやすくすることでかろうじてこの状況に対応した。だが教官たちも、勤労動員への付き添いや食糧不足を補うためのキャンパスの開墾・農作業等に追われて本来の職務を全うできる状況ではなかった 情報源のサイトへ
1945 京都帝国大学医学部附属医院厚生女子部に改組。 情報源のサイトへ
1945/3 まで続いた。学生は交代で帰学したものの、集中的な勉学はきわめて困難であった 情報源のサイトへ
1945/4 入学者からこれを適用することになった。これによって授業科目は従来の正科目と副科目の区別に代わって「専攻科目」と「研究科目」に大別され、また全学科にわたって専攻科目を入学時に決めるよう改められた 情報源のサイトへ
1945/4 までの文学部(本科)入学者のうち、半数弱の638名が徴集されたが、特に1943~ 情報源のサイトへ
1945/10 GHQから発令された覚書「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」によって、全国で教員の適格審査を行い、軍国主義者・超国家主義者を罷免するとともに、戦時中に思想的理由で免職・休職となっていた教員を復帰させることが指示されていた。これを受けて 情報源のサイトへ
1945/11 までの最も苦難に満ちた時代にこの重責を果たした。 情報源のサイトへ
1945/11/30 かけて自主的に辞職している。 情報源のサイトへ
1946 黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』の挿入歌として使われたことで日本国民一般にも知られるようになった。なお当初の歌詞は現在伝わっているものと一部が異なる 情報源のサイトへ
1946 兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業 情報源のサイトへ
1946/2 公布の勅令第109号「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」等に基づいて実施された公職追放では、高瀬・矢野両名誉教授と小牧実繁教授(地理学)の3名が戦時期における指定団体での役職や著作活動を理由に適用を受けた。小牧教授や同じ教室に所属する室賀信夫助教授・野間三郎講師は、追放を待たずに 情報源のサイトへ
1946/3 京都帝国大学令改正により日本精神史講座が廃止され 情報源のサイトへ
1946/4 受験資格を軍関係の学校や専門学校・師範学校等の卒業者にまで大幅に拡大した入試が行われ、文学部には定員の3倍強にあたる714名の受験者が集まった。この時初めて56名の女子が文学部を受験し、うち12名が合格している 情報源のサイトへ
1946/5 文部省訓令第5号「教職員の適格審査をする委員会に関する規程」が発令されると、京大でも学部ごとに教職員適格審査委員会が設置された。文学部では落合太郎学部長を委員長とする委員会が 情報源のサイトへ
1946/6 発足し、最終的に西谷治教授(宗教学)・鈴木成高助教授(西洋史)・松村克己助教授(基督教学)の3名がその著書・講演等の内容を根拠に思想的理由から不適格と判定され、1947(昭和22)年から 情報源のサイトへ
1946/9 卒業は翌 情報源のサイトへ
1947 開設された。 情報源のサイトへ
1947 (1947)わずか 情報源のサイトへ
1947/5/30 かけて辞職を余儀なくされた(西谷教授だけは追放指定解除後の 情報源のサイトへ
1947/7 哲学・哲学史第六講座(西洋中世哲学史)が設置されたほか 情報源のサイトへ
1948 専攻科を置く。 情報源のサイトへ
1948/9 からそれまで教授のみで構成されていた教授会に助教授も出席するようになったこと 情報源のサイトへ
1948/11/2 木原 均 京都大学教授   遺伝学 情報源のサイトへ
1948/12 文学部学友会が新しい会則を制定して学生の自治組織となり、従来文学部長が会長となっていたのを改め学生の中から委員長を選出するようにしたことなどがある。 情報源のサイトへ
1949 以降執行部内で左派が優勢となってからは大学当局と衝突を繰り返すようになった。 情報源のサイトへ
1949 2 旧制文学部期(1919~1949年) 情報源のサイトへ
1949 教授として着任した。井街はその明るい性格により、大いに将来を嘱望されたが、着任直後に病に倒れた 情報源のサイトへ
1949 以降休職となり 情報源のサイトへ
1949/5/19 から文学部学生3名を含む学生が総長室前でハンガーストライキを始めた。文学部では 情報源のサイトへ
1949/5/19 から連日緊急教授会を開いて対応を協議し、学生側とは合意に至らなかったものの 情報源のサイトへ
1949/5/24 学生大会でハンスト中止が決まった。この件での処分は破防法反対という動機を考慮して12名譴責という軽いものにとどまった 情報源のサイトへ
1949/5/30 天皇事件で停学となった学生2名の処分解除を求める要求書が服部総長宛に提出された。しかし、これが受け入れられなかったため 情報源のサイトへ
1949/7 設置)および教育心理学講座 情報源のサイトへ
1949/11/30 高等学校令とともに両大戦間期における高等教育の急激な量的拡大をもたらした。これに合わせて 情報源のサイトへ /img_kunitsuna_kawanaka.jpg
1949/12 制定された大学令は帝国大学の他に公立・私立大学や単科大学の設置を認めるものであり 情報源のサイトへ
1950 ごろから「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので 情報源のサイトへ
1950 井街のあとを受け、浅山が教授に着任した。浅山は 情報源のサイトへ
1950 (1950)助教授稲田務が教授に就任し、同時に泌尿器科教室が皮膚科泌尿器科教室より分離独立し、教室職員、研究室、病床などの分離が行われた。 情報源のサイトへ
1950 (1950)、日本泌尿器科学会総会にて「排尿異常と膀胱の機能的変化」の宿題報告を行い膀胱三角部異常症の病像を確立し 情報源のサイトへ
1950 前身である皮膚泌尿器科学講座より分離独立して以来、半世紀余が過ぎました。この間、稲田 務教授(1950- 情報源のサイトへ
1950/3 卒業に戻ったのは 情報源のサイトへ
1950/6/4 開かれ、その決議に基づいて 情報源のサイトへ
1950/6/17 ストライキが決行されるとともに、先の停学処分撤回と 情報源のサイトへ
1950/9 2度卒業の機会が与えられた。 情報源のサイトへ
1950/10 告示第9号に照らしてその責任者として文学部学生3名を停学処分にした。これに抗議する文学部学生大会が 情報源のサイトへ
1950/11/3 田邊 元 名誉教授   哲学 情報源のサイトへ
1950/11/30 度には学部学生の総数が1,100名を上回る空前の規模となった。他方、旧制京大の学生募集は翌 情報源のサイトへ
1951 平戸松浦家資料』京都大学文学部国史研究室、1951年 情報源のサイトへ
1951/3 まで教育学部長を兼任したほか、臼井二尚・矢田部達郎・下程勇吉の3教授がしばらく教育学部教授を併任した。暫定的に文学部に置かれていた教育学・教授法第二講座 情報源のサイトへ
1951/4 京都大学看護学校を京都大学医学部附属看護学校に改称。 情報源のサイトへ
1951/11 天皇事件は特に有名であり、この時8名の学生に対して無期停学処分が行われたが、そのうち2名は文学部の学生であった。 情報源のサイトへ
1952 以来文系4学部と人文科学研究所の共同で進められていたアメリカ研究企画を背景として概算要求をされたものである。またこの時期には心理学 情報源のサイトへ
1952 助産婦科を設置。 情報源のサイトへ
1952/2 同じ講座に復職している)。さらに、西田直二郎(国史)・高山岩男(哲学)両教授と矢野仁一(東洋史)・高瀬武次郎(中国哲学史)両名誉教授の4名は、大日本言論報国会等の指定された団体に関与していたために、戦争遂行に協力したとみなされて委員会の審査とは別に自動追放該当者として教職追放の指定を受けた 情報源のサイトへ
1952/3 文学部教官の研究成果発表の媒体として『京都大学文学部研究紀要』が発刊され、ほぼ毎年1回発行されて今日に至っている。 情報源のサイトへ
1952/4/30 行われた破壊活動防止法反対等を理由とする文学部学生大会でのストライキ実施決議とその翌日の学内デモ行進に対し、大学はストライキ禁止を定めた 情報源のサイトへ
1952/11/3 佐々木惣一 名誉教授   憲法学、行政学 情報源のサイトへ
1953 制定。歌詞は公募によるもの 情報源のサイトへ
1953/1 ようやく設置認可申請書が文部省に提出され 情報源のサイトへ
1953/3/26 京都大学大学院が設置された。当初は大学院独自の予算や独自のスタッフが全くなく、ゼロからのスタートであったが、旧制大学の大学院が独自のカリキュラムもなく修了者に学位を授与することもない機関で、研究者志望の学生が大学卒業後に籍をおいて教官の指導を受ける場でしかなかったのに対し、新しい大学院は学生に単位の取得と修了時の論文提出を義務づけるものである 情報源のサイトへ
1953/4 新制大学院設置(文学・教育学・法学・経済学・理学・薬学・工学・農学研究科を設置) 情報源のサイトへ
1953/8 文科大学創設以来設置されていた教育学・教授法講座が文学部最後の専攻学生の卒業を待って移管され 情報源のサイトへ
1953/8 美学・美術史第二講座 情報源のサイトへ
1953/11 荒神橋事件 情報源のサイトへ
1954 教養部と改称)として併合した上で 情報源のサイトへ
1954 助産婦科が京都大学医学部附属助産婦学校として独立する。 情報源のサイトへ
1954 旧制最後の卒業式を挙行、その際留年者は新制の学籍に編入されたため、これをもって新制大学への移行が完了した。なお 情報源のサイトへ
1954/3 旧制文学部の消滅とともに教育学関係の授業は文学部で行われなくなった。こうして教育学部の独立が完了したが、教育学部の初期の教官には文学部出身者が多く含まれており、その後も両学部間には現在に至るまで研究・教育上密接な協力関係が続いている 情報源のサイトへ
1954/5/31 発足した。新制文学部の学部規程は 情報源のサイトへ
1954/6 実施され、変則的に入学式は 情報源のサイトへ
1954/6/1 さかのぼって施行された。文学部は後期2年間の専門課程の教育を主として担当することとなり、専門科目は専攻科��と�科目に大別された 情報源のサイトへ
1954/7 授業開始は 情報源のサイトへ
1954/9 であった(したがって新制第1期生は在学 情報源のサイトへ
1954/9 文部省令第23号「国立大学の講座に関する省令」が 情報源のサイトへ
1954/12/19 制定され 情報源のサイトへ
1955 から始まり、最初の年には26名(うち女子2名)が進学した。 情報源のサイトへ
1955 (1955)稲田教授編集による学術雑誌「泌尿器科紀要」が発刊され、現在我が国における指導的専門誌として内外に高く評価されている。(「京都大学百年史」より) 情報源のサイトへ
1955 文部省より博物館相当の指定を受け 情報源のサイトへ
1955 京都大学文学部国史研究室編『日本史研究事典』創元社、1955年 情報源のサイトへ
1955/4 戦時期より活動が中断していた京大倶楽部の再建総会が開かれ、京大以文会と改称された。同会は文学部・文学研究科の同窓会組織として現在まで会誌『以文』の発行等の活動を続けており、特に大学の法人化以降は文学部をサポートする団体としての役割に期待が高まっている(詳細は「京大以文会」の項参照) 情報源のサイトへ
1956 文化功労者 情報源のサイトへ
1956/3 西洋文学第五講座(アメリカ文学 情報源のサイトへ
1956/10/30 史』の刊行等の記念事業が大々的に執り行われた。 情報源のサイトへ
1956/11 文学部創立50周年の記念式典・祝賀会が行われ、京都大阪での記念講演会、全教官執筆による『五十周年記念論集』および『京都大学文学部 情報源のサイトへ
1956/11/3 新村 出 名誉教授   言語学、国語学 情報源のサイトへ
1957 からは200名に落ち着き、以後 情報源のサイトへ
1957 退官した。 情報源のサイトへ
1957/10/26 岡見正雄教授(京都女子大学)「二条良基の連歌について」、禿氏祐祥・龍谷大学名誉教授「秋邨翁と古書探求」、新村出・京都大学名誉教授「挨拶」、鈴鹿三七講師(ノートルダム女子大学)「列品解説」(10月26日) 情報源のサイトへ
1958 制定。歌詞は公募によるもの 情報源のサイトへ
1958 京都大学文学部国史研究室編『日本近代史辞典』東洋経済新報社、1958年 情報源のサイトへ
1959 「文学部博物館」と改称された。 情報源のサイトへ
1959 制定。 情報源のサイトへ
1959 『読史会五十周年記念絵葉書』読史会、1959年 情報源のサイトへ
1959 京都大学医学部附属衛生検査技師学校が設置される。 情報源のサイトへ
1959/11/30 かけて全国の大学を大学紛争の嵐に巻き込むに至った。そこでは旧来の大学のあり方が学生の立場から問い直され、さまざまな改革要求が大学当局に突きつけられた 情報源のサイトへ
1960 教養部1回生の講義が行なわれていたことがあった。が、現在は学部の講義は行なわれていない(ただ、夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には宇治で行われるものもある 情報源のサイトへ
1960 京都大学文学部国史研究室編『日本史辞典 改訂増補版』東京創元社、1960年 情報源のサイトへ
1960/4 現代史講座 情報源のサイトへ
1960/6 新安保条約締結反対運動 情報源のサイトへ
1961 制定。歌詞は公募によるもの 情報源のサイトへ
1961 京都大学附属図書館) 情報源のサイトへ
1962 京都大学近世物価史研究会編『15〜17世紀における物価変動の研究』読史会、1962年 情報源のサイトへ
1962 文化功労者 情報源のサイトへ
1962 第52回日本泌尿器科学会総会 情報源のサイトへ
1962 取り壊され重要な文化遺産が惜しくも失なわれた。   岩崎博 情報源のサイトへ
1962 理学・医学・工学・農学研究科で修士47名、博士5名の増員を文部省に申請し 情報源のサイトへ
1962/2 二〇日 情報源のサイトへ
1962/2/7 付標記通牒は、自然科学系大学院の運営に関するものでありますが、この通牒の内容は本学の正規の機関の審議を経て本学の意志となつている事柄にもとづくものではありません。これをこのまま受け入れるならば、大学の運営一般に関して文部省の干渉を認める結果になり、本学が多年にわたつて守りぬいてきた大学自治の原則が侵害される危険が多分にあると思われます 情報源のサイトへ
1962/11/3 桑田 義備 名誉教授   植物細胞学 情報源のサイトへ
1962/12 大学管理法国会上程阻止運動等に際して学生によるストライキが実行された。 情報源のサイトへ
1963 申請どおり認められた。当初、自然科学系の大学院拡充をめざすものであったが、大学院拡充の方針はその後も継続して進められ 情報源のサイトへ
1964 会長を務めた。前立腺癌、前立腺肥大症などの前立腺疾患に関する研究に大きな業績をあげた 情報源のサイトへ
1964 行動科学の発展や心理学・社会学の専門家への社会的需要の高まり等を理由として、心理学・社会学各4講座(文化人類学を含む)からなる「心理・社会学科」設置案が教授会で審議されている。この新学科設置構想は 情報源のサイトへ
1964/2 廃止され、従来設置順につけられていた講座の名称が改められた。文学部では哲学・哲学史講座が第一講座「哲学」、第二講座「西洋哲学史(古代)」、第三講座「西洋哲学史(中世)」、第四講座「西洋哲学史(近世)」、第五講座「印度哲学史」、第六講座「中国哲学史」と並べ替えられ(支那哲学史はこの時に中国哲学史に改称)たほか、史学・地理学講座は第一講座が「西洋史学第一講座」第二講座が「人文地理学講座」、第三講座が「西洋史学第二講座」と改称され、西洋文学講座は第一~第五講座がそれぞれ「ドイツ語学・ドイツ文学」、「語学・文学第一」、「フランス語学・フランス文学」、「語学・文学第二」、「アメリカ文学」と改称された 情報源のサイトへ
1965 堺市古文書目録 1-2』京都大学文学部国史研究室、1965年 情報源のサイトへ
1965/3 竣工し、東館は西側3階に1階継ぎ足し4階建のロの字形の建物になりようやく完成した。考古学を除く史学科各教室は陳列館からこちらに移転した 情報源のサイトへ
1966 (1966)には総会会長を務め、終生の研究として2度にわたる尿路結石の疫学調査の宿題報告を行った。その他泌尿器科学各分野にわたり広範な研究がなされ、多くの新機軸を打ち出した 情報源のサイトへ
1966 地理学 情報源のサイトへ
1966/2/30 行われた中央部の噴水を含む東館中庭の造園の費用は京大以文会の寄付によりまかなわれた。次いで 情報源のサイトへ
1966/3 鉄筋コンクリート造2階建の羽田記念館(京都大学文学部附属内陸アジア研究施設)が北区大宮田尻町に完成、翌月に竣工式を行った。これは羽田亨の学問的業績を記念し内陸アジアの歴史・民族・言語等の研究を振興するため財団法人三島海雲記念財団、武田薬品工業株式会社等の寄付により建設されたものである 情報源のサイトへ
1966/4 学内施設とされユーラシア文化研究センターと改称された(詳細は「ユーラシア文化研究センター」の項参照)。なお、陳列館は 情報源のサイトへ
1966/4 西南アジア史学講座 情報源のサイトへ
1967 3講座が実験講座となった。なお 情報源のサイトへ
1967 間広島大学教授として活躍。この時代に第14回日本内分泌学会西部部会 情報源のサイトへ
1967 から数年間概算要求に盛り込まれたが、教養部から反対意見が出されたこともあって結局取り下げられた。 情報源のサイトへ
1967 京都大学七十年史編集委員会編. 『京都大学七十年史』 p.608. 第6章第7項「医学図書館」 (1967年) 情報源のサイトへ
1967 (1967)、稲田教授の退官後、代わって広島大学教授の加藤篤二が教授に就任した。加藤は 情報源のサイトへ
1967 大講座化を踏まえ大学院重点化がなされた。これは、従来の学部を主とし大学院をその上に置くあり方を変え、大学院を主としそのもとに学部を置くものである 情報源のサイトへ
1967/6/24 昭和42(1967)年6月24日〜 情報源のサイトへ
1967/12 着工され、翌 情報源のサイトへ
1968 浅山の後を受け、長崎大学から岸本正雄が教授に着任した。岸本は緑内障と網膜剥離に深い関心を持ち、今でもこの2つの疾患は教室の大きなテーマとなっている 情報源のサイトへ
1968 文学研究科にも附置研究所による大学院拡充がはかられた。具体的には、人文科学研究所の講座に博士・修士の定員を付け、それを文学研究科の各講座に貼り付けるものであった 情報源のサイトへ
1968 次の人文研協力講座 情報源のサイトへ
1968 文学研究科についても適用され、人文科学研究所分として修士13名博士12名の増員がなされた。その詳細は別表のとおりである 情報源のサイトへ
1968/1 本社会 情報源のサイトへ
1968/2 本思想・中国思想 情報源のサイトへ
1968/4 美学・美術史と現代史の講座名はそれぞれ「美学・美術史学」、「現代史学」と改称された。 情報源のサイトへ
1968/4 1996(平成8)年4月 情報源のサイトへ
1968/9 まで持ち越されている。なお 情報源のサイトへ
1968/10 文学部は人文科学研究所に協力要請をし 情報源のサイトへ
1968/11/30 度になってもいくつかの建物のロックアウトは依然続き、全面解除は 情報源のサイトへ
1968/12 人文科学研究所はその要請を受け入れた。 情報源のサイトへ
1969 京都大学工学部数理工学科卒業. 情報源のサイトへ
1969/1 学生寮問題を契機として全学に拡大した。 情報源のサイトへ
1969/1/16 吉田寮・熊野寮の寮生によって組織された寮闘争委員会が大学側の対応への不満から学生部の建物を封鎖したのがその発端である。 情報源のサイトへ
1969/1/19 「緊急事態に対する文学部教授会の見解」を公表して封鎖に反対の意思表示をすると、学友会は教授会の自己批判等を求めて団交を要求、これが拒否されたため 情報源のサイトへ
1969/2 文学部改革案検討委員会(第2委員会)を発足させ、文学部改革の理念とその実現の具体案を検討した。 情報源のサイトへ
1969/2 専任講師にも教授会への出席を認めたほか 情報源のサイトへ
1969/2/3 無期限ストに突入した。さらに 情報源のサイトへ
1969/2/30 学部入試が学外での実施を余儀なくされたほか、大学院入試も 情報源のサイトへ
1969/3/11 付けの長尾雅人文学部長名による「文学部長所信」をめぐる教授会の対応に反発した「L共闘」の学生たちによって 情報源のサイトへ
1969/3/13 文学部本館・東館が封鎖される事態に至った。 情報源のサイトへ
1969/3/17 『文学部弘報』を発刊して教授会決定や学部長所信等を掲載した 情報源のサイトへ
1969/4 9・10両日に延期のうえ京都市内の予備校で実施された(この際学生の妨害行為があり逮捕者が出た)。文学部の封鎖は学内の各建物と同様 情報源のサイトへ
1969/5 計5講座が増設された。このうちアメリカ文学の講座は 情報源のサイトへ
1969/9/21 導入された機動隊によって解除されたが、ストライキはなお継続し 情報源のサイトへ
1969/11/7 ようやく授業再開にこぎつけた。 情報源のサイトへ
1969/12/23 L共闘大会が開かれ、運動体としてのL共闘が解散を宣言したことをもって文学部の紛争は一段落した。 情報源のサイトへ
1970 哲学博士1名(人文・西洋思想) 情報源のサイトへ
1970 『国史論集 —小葉田淳教授退官記念—』小葉田淳教授退官記念事業会、1970年 情報源のサイトへ
1971 第3回人工透析研究会 情報源のサイトへ
1971/4 学部長との「大衆団交」の要求が拒否されたのを理由に「L斗」を名乗る学生たちによって学部長室が長期間占拠されたのをはじめ 情報源のサイトへ
1972 同大型計算機センター助手.助教授を経て 情報源のサイトへ
1972/11/3 早石 修 京都大学教授 医学部 生化学 情報源のサイトへ
1973 入学式が中止になっている。 情報源のサイトへ
1973 (1973)当時講師であった吉田修が教授に就任した。弱冠38歳の若き教授であった 情報源のサイトへ
1973 (1973)に退官した。京都大学時代には 情報源のサイトへ
1973 第3回腎臓病学会西部部会の会長を務めた。(「京都大学百年史」より) 情報源のサイトへ
1973 同大学院 工学研究科 修士課程修了 情報源のサイトへ
1973/1 からは経済学部の竹本助手処分問題をめぐる紛争が全学に波及し、文学部でも無期限ストや学部長室の占拠・建物封鎖があった。また 情報源のサイトへ
1973/4 フランス語学・フランス文学第二講座 情報源のサイトへ
1973/5 発行の第16号まで不定期刊)。 情報源のサイトへ
1973/6 教官選考に関する内規を改正して選考委員会に教授だけでなく助教授・講師も参加できるようにした。 情報源のサイトへ
1973/6/24 昭和48(1973)年6月24日〜 情報源のサイトへ
1973/9 委員会により「文学部改革草案」が作成・公表された。この際学部長選考内規の改正も検討課題となり、事務職員や学生にも選挙権を認める案も検討されたが、結局教授会での選考という方式が変更されるには至らなかった 情報源のサイトへ
1973/11/30 かけては、女子学生の卒業論文作成と大学院進学をめぐる所属教室の教官の対応が当該学生とその支援者から女性差別に当るとして糾弾される事態(「R子さん問題」)が起こった。大学紛争の間、教授会は学生の妨害を避けるためしばしば学外で転々と会場を移して開催されたほか、2期2年間務めるのが通例になっていた学部長職は 情報源のサイトへ
1973/12 試験期間中のストライキが 情報源のサイトへ
1974 京都大学工学博士(数理工学専攻) 学位論文: 情報源のサイトへ
1975 国史学博士1名(人文・日本文化) 情報源のサイトへ
1975 社会学と美学・美術史学第一・第二 情報源のサイトへ
1975 京都大学医学部に併設された日本の国立短期大学。当初は看護学科と専攻科のみだったが、順次学科の増設がなされ、最終的には4学科と専攻科1専攻にまで発展した 情報源のサイトへ
1975 フィールズ賞 情報源のサイトへ
1975 設置され 情報源のサイトへ
1975 塚原 勇が関西医大より教授に着任した。塚原は網膜剥離手術の名手であり、網膜色素上皮細胞の研究に深い関心を示した 情報源のサイトへ
1975 (学部内共通 黒澤宛と明記してください) 情報源のサイトへ
1975/4/22 岡本道雄:1975年4月22日~ 情報源のサイトへ
1975/11/3 広中 平祐 名誉教授 数理解析研究所 数学 情報源のサイトへ
1976 京都大学医学部附属臨床検査技師学校を発展改組して衛生技術学科を増設する。 情報源のサイトへ
1976 言語学の各講座の実験講座化が相次いで実現した。 情報源のサイトへ
1976 京都大学近世史研究会編『論集近世史研究』京都大学近世史研究会、1976年 情報源のサイトへ
1976/7 竣工した。同館は東大路通に面した入り口をもち 情報源のサイトへ
1977 京都大学大学院工学研究科数理工学専攻修士課程終了 情報源のサイトへ
1977 看護学科と専攻科の校舎が移転される。 情報源のサイトへ
1977/3/1 昭和52(1977)年3月1日〜 情報源のサイトへ
1977/4 京都大学総合博物館に移管された。 情報源のサイトへ
1977/11 から春秋2回の一般公開と公開講座を始めたが、財政的理由で文学部の附属施設としての運営が次第に困難になったため、1997(平成9) 年 情報源のサイトへ
1978 衛生技術学科の校舎が移転される。 情報源のサイトへ
1978 京都大学工学部数理工学科卒業 情報源のサイトへ
1978/11/3 田中 美知太郎 名誉教授   哲学、西洋古典学 情報源のサイトへ
1978/11/30 から従来より20名増員された)に対して350名を合格させたが、それでも140名という大量の辞退者(大半は東京大学の合格者)を出し、やむなく10名の追加合格者を出すという事態が起こった。文学部はこれを「本学部の学風に志を寄せる個性あるすぐれた学生を選抜するという本学部の入試方針とかけはなれたきわめて不本意な結果」と評価し 情報源のサイトへ
1979 (1979) 情報源のサイトへ
1979 共通第一次学力試験(共通一次試験)導入により1回になった国公立大学の受験機会を複数化するため、国公立大学の入学試験がA・B両日程に分けて実施された。文学部では入学辞退者の増加を見込んで入学定員220名 情報源のサイトへ
1979 東洋史学修士1名(人文・現代中国)等の増員がなされた。 情報源のサイトへ
1979 京都大学附属図書館) 情報源のサイトへ
1979/10/30 度の入試については抜本的改革を西島総長に要望した。翌 情報源のサイトへ
1979/12/16 沢田敏男:1979年12月16日~ 情報源のサイトへ
1980 頃まで年中行事のように行われた。 情報源のサイトへ
1980 高松宮妃癌研究基金学術賞 情報源のサイトへ
1980 京都大学文学部国史研究室編『坂井郡古文書目録』福井県、1980年 情報源のサイトへ
1980/3 社会人間学講座 情報源のサイトへ
1981 東南アジアアフリカ地域を主な研究対象とした熱帯農学専攻が設置され、学部10学科、研究科11専攻の陣容が整い、基礎と応用を網羅した総合農学にふさわしい教育研究体制が整備された。 情報源のサイトへ
1981 『一乗院文書(抄) —京都大学国史研究室蔵—』京都大学文学部国史研究室、1981年 情報源のサイトへ
1981 文化功労者 情報源のサイトへ
1981/7 決定され、当時「生物学」の科目を担当していた、阪口吉蔵により考案された。 情報源のサイトへ
1981/11 祭を参照。 情報源のサイトへ
1981/11/3 福井 謙一 京都大学教授 工学部 工業化学 情報源のサイトへ
1982 学科を増設。 情報源のサイトへ
1983 1年間フランスINRIA客員教授.工学博士.待ち行列理論・トラヒック理論、情報システム・情報ネットワーク等のモデル化と性能評価に関する研究に従事.IFIP Silver Core受賞.IFIP WG6.3 前Cochairman. 情報源のサイトへ
1983 同工学研究科博士課程修了,岐阜大学、同志社大学、大阪大学基礎工学研究科を経て 情報源のサイトへ
1984 京都大学工学部助手、1984- 情報源のサイトへ
1984/3/19 教授会議事録)第4学科の設置に向けた協議が進められるようになった。1984(昭和59)年 情報源のサイトへ
1984/4 新学科の名称を「文化行動学科」とし、上記3教室の既存の講座に若干の新設講座を加えた形でその設置を 情報源のサイトへ
1984/11/3 貝塚 茂樹 名誉教授 人文研教授 中国社会 情報源のサイトへ
1985 文化功労者 情報源のサイトへ
1985 から「複雑系経済学」を提唱、経済学のフレームワークの基礎からの改編に取り組んでいる。進化経済学会会長(2003〜2006)・U-Mart研究会代表(1999〜)などとして、経済学研究の第3の研究方法の開発を進めている 情報源のサイトへ
1985 以降の外国雑誌 情報源のサイトへ
1985 紫綬褒章 情報源のサイトへ
1985 京大・工・数理卒。 情報源のサイトへ
1985 本田孔士(よしひと)が教授に着任した。本田の教授在職は 情報源のサイトへ
1985/3/30 度の概算要求事項とすることが決まった。文化行動学科は1992(平成4)年に設置され、哲学科から基礎心理学(旧心理学第一講座)、実験心理学(旧心理学第二講座)、社会学、社会人間学、比較社会学の5講座、史学科から地理学、地域環境学の2講座が移行したうえ、言語科学、科学哲学・科学史の2講座が新設されて合計9講座で発足した 情報源のサイトへ
1985/4 文学部規程が一部改正されて学科編成に文化行動学科が加えられ、心理学、言語科学、社会学、地理学(人文地理学から改称)、科学哲学科学史の5専攻が置かれた(専攻の名称には、正式な講座名に含まれるナカグロ[・]が省かれるのが通例となっている)。なお 情報源のサイトへ
1985/11 法人化資産承継のための蔵書点検(〜11月) 情報源のサイトへ
1985/12/16 西島安則:1985年12月16日~ 情報源のサイトへ
1986/3/30 (京都大学大学院文学研究科・文学部『京都大学文学部の百年』 情報源のサイトへ
1986/4 文化史資料研究部門・自然史資料研究部門の二部門から構成される京都大学総合博物館が発足。考古学研究室の所蔵品は一括して総合博物館へ移管された 情報源のサイトへ
1986/4/1 昭和38(1963)年4月1日〜 情報源のサイトへ
1986/5 再度文学部規程の一部改正があり、各学科に学科長が置かれた。 情報源のサイトへ
1986/11/3 林 忠四郎 名誉教授 理学部教授 天体核物理学 情報源のサイトへ
1987 豊橋技術科学大学講師. 情報源のサイトへ
1987 鳥取大学工学部共通講座助教授、1987- 情報源のサイトへ
1987 まで変更されなかった。またこの頃までに教官の大半を京大出身者が占めるようになっていた 情報源のサイトへ
1987/11/3 桑原 武夫 名誉教授 人文研教授 西洋文化 1979.文化功労者 情報源のサイトへ
1987/11/19 鰺坂二夫・京都大学名誉教授「日本の教育と京都大学」(11月19日) 情報源のサイトへ
1988 入試では文学部は他の文系学部と同様、大半の定員をB日程に割り当てた結果、追加合格者は出さずにすんだ。なお学部学生の入学定員は1991(平成3)年度から3年間240名に増員されたが 情報源のサイトへ
1988 (1988)の2度にわたり行い、戦後の尿路結石の変遷を報告した。臨床においても種々の成果をあげ、特に癌化学療法を世界のトップレベルに押し上げ、わが国の癌治療を牽引した 情報源のサイトへ
1988 同大学助教授, 情報源のサイトへ
1988 京都大学大学院博士学位を修得し,豊橋技術科学大学助手,京都大学助手,助教授,カナダ Simon Fraser大学,オーストラリア Newcastle大学客員研究員,豊橋技術科学大学教授を経て, 情報源のサイトへ
1988 東京大学大学院工学系研究科修了。工学博士 情報源のサイトへ
1988 〜現在 情報源のサイトへ
1989 同助教授.同 情報源のサイトへ
1989 文化功労者 情報源のサイトへ
1989 (1989)には第3回日本エンドウロロジー・ESWL学会を、第7回World Congress on Endurology and SWLの会長を務めた。さらに 情報源のサイトへ
1989 東京大学工学部電子工学科卒. 情報源のサイトへ
1989 京都大学医学部長。 情報源のサイトへ
1989/3/1 平成元(1989)年3月1日〜 情報源のサイトへ
1989/5 が増設された。このうち4講座は後に文化行動学科に所属することになる 情報源のサイトへ
1990 京都大学助(准)教授に昇任現在にいたる。 情報源のサイトへ
1990 正式にエンブレムとして了承された。 情報源のサイトへ
1990 『兵範記』第1〜3巻、思文閣出版、1988〜1990年 情報源のサイトへ
1991 京都大学長。 情報源のサイトへ
1991 制定。歌詞は公募によるもの 情報源のサイトへ
1991 京都大学工学研究科応用システム科学専攻修士課程修了. 情報源のサイトへ
1991/12/16 井村裕夫:1991年12月16日~ 情報源のサイトへ
1992 総合人間学部が設置され 情報源のサイトへ
1992 『短期大学教育』第49号(日本私立短期大学協会発行:1992年) 情報源のサイトへ
1992/3 点検項目等の検討を行うために「自己評価等検討小委員会」が設置された。小委員会は 情報源のサイトへ
1992/4 「文学部の自己点検・評価項目案」を作成した。そこには、評価項目として、文学部の教育研究の目標理念、教育活動、厚生補導、研究活動、国際交流、図書と学術情報、社会との連携、教員組織、施設・設備、財政、管理運営、個人調書、の12項目があげられたうえで、自己点検・評価のあり方について小委員会の意見と要望が付せられている 情報源のサイトへ
1992/4 からは一般教育科目に代わって全学共通科目が開講されたが、これに伴って文学部もカリキュラムの見直しを迫られた。その際、専攻への分属の時期を早めることも検討されたが、結局当面現行通り3回生分属を続けることになり、その代わり授業の一部を1・2回生に下ろすこととなった 情報源のサイトへ
1992/11/30 教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。 情報源のサイトへ
1992/12 文学部規程を改正して、授業科目を「学部科目」と「全学共通科目」からなると改めたほか、科目等履修生および特別聴講学生の入学を認めた。 情報源のサイトへ
1993 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科教授, 情報源のサイトへ
1993 吉田キャンパス建築計画によって、文系建物群が完成する予定の 情報源のサイトへ
1993 東京大学工学部計数工学科卒業, 情報源のサイトへ
1993 (1993)には日本泌尿器科学会総会の会長を務め、さらに 情報源のサイトへ
1993 第9回SMIT会議(Society for Minimally Invasive Therapy) 情報源のサイトへ
1993 さらに、京都大学医学部付属病院院長(平成5年〜 情報源のサイトへ
1993 当初の計画は大きな変更を迫られた。 情報源のサイトへ
1993 最初に着手されたのが文系四学部共同棟であり 情報源のサイトへ
1993/2/23 「京都大学自己点検・評価実施規定」が施行されたのを受けて 情報源のサイトへ
1993/4 出された『21世紀の文学部像—教育研究体制を中心に—』であり、これを踏まえ現状を把握しようとしたのが 情報源のサイトへ
1993/4 「文学部自己点検・評価委員会」が設置され、当委員会において『京都大学自己点検・評価報告書』の文学部担当分の作成がなされた。同報告書は 情報源のサイトへ
1993/8 まで) 情報源のサイトへ
1993/11 文学部再編計画案として教授会で承認され、概算要求がなされた。 情報源のサイトへ
1994 情報科学専攻博士課程修了. 情報源のサイトへ
1994 東京工業大学工学部制御工学科卒, 情報源のサイトへ
1994 文学部講義棟が、1995 情報源のサイトへ
1994 がその業務に当たっている。 情報源のサイトへ
1994 決算額が、247,663,000円であったのに対し、重点化の初年度 情報源のサイトへ
1994 時点での定員は、修士15名、博士15名であった。 情報源のサイトへ
1994/3/26 ,日本女子大学 情報源のサイトへ
1994/4 より学部としての報告書の作成に着手した。基本方針として、1. 本学部としては最初の点検作業であることを考慮して、現状の調査・検討から始めてほぼ過去 情報源のサイトへ
1994/9/17 社会経済史学会 近畿部会  情報源のサイトへ
1994/11/3 満田 久輝 名誉教授 農学部教授 栄養化学 情報源のサイトへ
1994/12 である。この共同棟には、文学部新棟建築のために文学部旧本館西側が取り壊されたために、主として取り壊された研究室と文学科閲覧室が入った 情報源のサイトへ
1995 大講座化までの40年間維持された。また、新制になった当初は変動のあった学部の入学定員も 情報源のサイトへ
1995 同教授.現在,学術情報メディアセンター教授.工学博士.高性能コンピューティングシステム,グリッドコンピューティング,性能評価に興味を持つ.ACM,情報処理学会,電子情報通信学会,日本応用数理学会各会員 情報源のサイトへ
1995 日本学術振興会特別研究員(東京大学,マンチェスター大学). 情報源のサイトへ
1995 神戸大学工学部助手. 情報源のサイトへ
1995 〜現在 情報源のサイトへ
1995 大講座制の枠組みを基本的には継承(ヨーロッパアメリカ語学・ヨーロッパアメリカ文学講座が欧米語学・欧米文学講座と改称)しつつ、新たに大講座の上位の組織として、文献文化学専攻(国語学・国文学講座、中国語学・中国学講座、東洋古典学講座、西洋古典学講座、欧米語学・欧米文学講座)、思想文化学専攻(哲学・宗教学講座、美学・美術史講座)、歴史文化学専攻(日本史学講座、東洋史学講座、西洋史学講座、考古学講座)、行動文化学専攻(心理学講座、言語学講座、社会学講座、地理学講座)、現代文化学専攻(現代文化学講座)の5専攻が設置され、加えて専攻共通のものとして総合文化学講座、協力講座として文献文化学専攻には文献文化論講座、思想文化学専攻には思想文化論講座、歴史文化学専攻には歴史文化論講座、現代文化論専攻には現代文化論講座が置かれた。総合文化学講座(客員講座)には、従来2名であった国内客員講座が増員され3名に、また2名の外国人客員講座が設けられた 情報源のサイトへ
1995 から 情報源のサイトへ
1995/3 出された『京都大学文学部の現状と課題 自己点検・評価報告書』は、文学部の本格的な自己点検・評価報告書としては最初のものである。全324頁の大部なものである 情報源のサイトへ
1995/4 より、従来哲学科・史学科・文学科・文化行動学科の4学科44講座であったものが人文学科1学科16大講座(実験講座10、非実験講座6)へと改編された。この結果、従来教授45名、助教授46名、講師1名、助手11名であったものが、助教授6名と助手9名が教授に振り返られ、教授59名、助教授40名、講師1名、助手2名となった 情報源のサイトへ
1995/5/20 東京大学  情報源のサイトへ
1995/6 『21世紀の文学研究科(大学院)−大学院再編と新たな教育研究体制−』が、大学院重点化を目前に作成されている。 情報源のサイトへ
1995/6/4 専修大学神田校舎 情報源のサイトへ
1995/7 じまり翌 情報源のサイトへ
1995/10/24 海原徹教授(大学院人間・環境学研究科)「京都大学百年-創設のころ-」(10月24日) 情報源のサイトへ
1996 より導入された制度で、その目的は、「対象機関における学術研究の一層の推進に資する研究支援体制の充実・強化並びに若手研究者の養成・確保を促進するため、当該対象機関が行う研究プロジェクト等に、優れた大学院後期博士課程在学者を研究補助者として参画させ、研究活動の効果的推進、研究体制の充実及び若手研究者としての研究遂行能力の育成を図ること」にある。 情報源のサイトへ
1996 3 新制文学部期(1949~1996年) 情報源のサイトへ
1996 概算要求がなされ 情報源のサイトへ
1996 をかけて文学部新館が建てられる計画であった。以降法経東北館、法経東南館、法経西南棟、法経西北棟、教育学部新棟と建設されることになっていたが、既存建物の使用期限延長を骨子とするいわゆる「有馬レポート」が出されたのを受けて 情報源のサイトへ
1996 決算額は、401,259,000円(建物新営等設備費67,291,000円を除く)となり、危機的状況から脱出した。 情報源のサイトへ
1996 以降) 情報源のサイトへ
1996 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科 博士後期課程短期修了. 情報源のサイトへ
1996/22 本哲学史 情報源のサイトへ
1996/31 本史学 情報源のサイトへ
1996/1 文部省から大学院重点化認可の内示を受けた。 情報源のサイトへ
1996/2/7 「自然科学系の大学院拡充の必要性」と「附置研究所の要望」とを踏まえ、附置研究所教官の大学院に対する協力体制の整備が文部省より一方的に求められた。京都大学では 情報源のサイトへ
1996/2/14 各部局にこの通達が示されるが、こうした動きに対し文学部教授会は、大学自治の観点から慎重な態度でのぞむよう以下のような要望書を平沢興総長に提出した。 情報源のサイトへ
1996/3 竣工した。この建物は主として講義棟であるが、地下には閲覧室および書庫が設けられ 情報源のサイトへ
1996/3 京都大学の中核的施設が集まり高密度が主な原因となって引き起こされている学園環境の劣化を解消するために、全学において吉田キャンパス施設長期計画が策定された。そこでは吉田キャンパスを西南から東北へと「幹線緑道」の設置が構想され、その結果、その線上に位置する文学部東館の取り壊しとその跡地の緑地化が計画された 情報源のサイトへ
1996/5 文学部に文学部再編計画委員会が設置され、文学部における人事運用の柔軟性を高め、また財政危機を脱することを主たる目標として、文学部の教育研究体制の大規模な再編が始まった。その方向性を最初に示したものが 情報源のサイトへ
1996/5 「文学研究科協力講座の発足にあたっての文学研究科長・人文科学研究所長の基礎的取り決め」が両者によって調印された。結果、人文科学研究所からは17名の教官が協力講座として参加することになり、文学研究科の学生定員は、最終的に修士126名、博士63名となった 情報源のサイトへ
1996/8 哲学科閲覧室が移るとともに、文学科閲覧室と統合した。文学部新館第二期は 情報源のサイトへ
1996/11 号)1-30頁。 情報源のサイトへ
1996/11/1 京都大学文学研究科と奈良女子大学大学院人間文化研究科との間で学生交流協定が締結された。内容は 情報源のサイトへ
1996/11/30 創立期の京大文科 −東洋学の群像−、西欧における表象文化−文学と芸術のあいだ− 情報源のサイトへ
1996/12 例会報告  情報源のサイトへ
1997 第5回日本癌治療学会総会 情報源のサイトへ
1997 京都大学百年史編集委員会編. 『京都大学百年史』総説編 第8章第9節「京都大学キャンパスの歴史的建造物」 (1997年) 情報源のサイトへ
1997 を受賞している。(「京都大学百年史」、一部改変) 情報源のサイトへ
1997 かけて大学院重点化を進め、大学科制を柱とする学部改組を行った。さらに 情報源のサイトへ
1997 指導のもとに発展しましたが、特に 情報源のサイトへ
1997 刀水書房 1997年 ISBN 情報源のサイトへ
1997 大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 —古代・中世—』思文閣出版、1997年 情報源のサイトへ
1997/3 から工事が始まり 情報源のサイトへ
1997/5/31 東北大学 情報源のサイトへ
1997/6 全学の建築委員会において計画が変更され、法学部本館は耐震工事を施したうえで利用することとなり、当初の計画は大きく変更された。 情報源のサイトへ
1997/6/30 京都大学とローザンヌ大学のあいだで大学間交流協定が締結されたために解消した。なおこの学術協定は、本学部独自のものとしては最初のものである 情報源のサイトへ
1997/8 医学図書館の建設が始まった。昭和40(1965)年、地上3階、地下1階、総面積2,247.817&m2unit;、鉄筋コンクリート造り医学図書館は完成し、各教室の図書はここに集中管理されるようになった 情報源のサイトへ
1997/8 完成、その直後、東館にあった史学科閲覧室が完成した新館に移り、従来3閲覧室であったものが1閲覧室に統合された。 情報源のサイトへ
1997/9 例会報告  情報源のサイトへ
1997/10 まで) 情報源のサイトへ
1997/10 号)66-80頁。 情報源のサイトへ
1997/11/29 人文的教養のゆくえ 情報源のサイトへ
1998 学生便覧に「性差別にかかわる人権問題の相談窓口の存在について」が 情報源のサイトへ
1998 より行なわれるようになった。異なる専門分野の教員と接することで視野を広げることを目的としている 情報源のサイトへ
1998 京都大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了.京都大学リサーチアソシエイト(日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業PD),同大学助手を経て, 情報源のサイトへ
1998 2.ヘルベルト・ハックス著「における経済政策的優先課題としての成長と雇用」渡辺尚・W.クレナー編『型の試練──構造変化と経済』所収 信山社 1998年 ISBN 情報源のサイトへ
1998/3 多自由度ハミルトン系に関する研究により名古屋大学より博士号を授与される。 情報源のサイトへ
1998/3/27 ジュネーヴ大学文学部(スイス)との間で、学生の交流、教員・研究者の交流、学術情報の交換、シンポジウム・セミナー・講演会の共同開催、共同研究計画の推進を内容とする学術交流協定 情報源のサイトへ
1998/4 立命館大学にポストドクトラルフェローとして採用され、微分方程式における繰り込み群の研究を行う。 情報源のサイトへ
1998/5/9 広島大学経済学部東千田校舎 情報源のサイトへ
1998/11/28 高度情報化時代の人文学 情報源のサイトへ
1998/12 第6代教授として小川 修が着任し、関連する大学、地域の基幹病院と連携をとりながら、泌尿器科学の臨床、教育、研究を推進しています。小川の着任後、すでに 情報源のサイトへ
1999 学生便覧に「性差別の防止のためのガイドライン」と「「性差別等相談窓口」について」が、さらに 情報源のサイトへ
1999 京都大学工学部情報学科卒業. 情報源のサイトへ
1999/4 京都大学情報学研究科に助手として採用され、多自由度ハミルトン系の統計的・力学的研究を行う。 情報源のサイトへ
1999/5/30 京都大学 情報源のサイトへ
1999/7/16 ロンドン大学東洋・アフリカ研究学院(連合王国)との間で、学術資料・刊行物及び情報交換、教員又は研究者の交流、学生の交流、共同研究及び研究集会の実施を内容とする学術交流協定 情報源のサイトへ
1999/10 窓口へ訴えられた文学研究科教授のセクシュアル・ハラスメント疑惑に関する調査を行うため 情報源のサイトへ
1999/11/27 病い−その思想と文化− 情報源のサイトへ
2000 東北大学大学院情報科学研究科修了. 博士(情報科学). エージェントモデルと確率過程に立脚した多変量経済時系列分析, 高頻度金融時系列分析の研究に従事. 情報源のサイトへ
2000 同大学院情報理工学研究科博士後期課程修了.博士(工学). 情報源のサイトへ
2000 日本電気株式会社入社. 情報源のサイトへ
2000 』」『比較経済体制研究』第10号, 情報源のサイトへ
2000 学生便覧に加えて「カウンセリングセンター」の紹介が、掲載された。 情報源のサイトへ
2000/3/22 教授会において、「特別研究期間についての申し合わせ」が承認された。これは、「文学部・文学研究科は、教官の責務である研究・教育・大学運営のうち、研究活動がその性質上高度の時間的集中を必要とするものであることに鑑み、特別研究期間を設定」したものである 情報源のサイトへ
2000/4 から施行されたが、現在この制度を利用した教官・教員は、2名に止まっている。 情報源のサイトへ
2000/4/1 から施行、修士課程学生(奈良女子大学では博士前期課程学生)を対象とし、両研究科相互に授業を提供、単位を認定するものであった。受け入れた学生の身分は特別聴講学生とし、それに付随する授業料は非徴収である 情報源のサイトへ
2000/5 臨時増刊。旺文社) 情報源のサイトへ
2000/6 セクシュアル・ハラスメントに関する問題を扱う全学の人権問題対策委員会が設置され、またセクシュアル・ハラスメント相談窓口への訴えを機に 情報源のサイトへ
2000/6/6 全学建築委員会で見直しが行われ、工学部4号館および工学部9号館の文系学部での改修利用が決定され 情報源のサイトへ
2000/10 セクシュアル・ハラスメント相談窓口に訴えられて以来、事態を深刻に受けとめ、教授会のもとに「人権問題対策委員会」、さらに「調査委員会」を設置して、事実究明のために最大限の調査を行い、教授会で検討を重ねた。同日の評議会での懲戒処分は、以上の結果に基づくものである 情報源のサイトへ
2000/11 6.「アルプスの孤高の小国 スイス」渡辺尚編著『ヨーロッパの発見 地域史のなかの国家と市場』有斐閣 2000年11月 ISBN 情報源のサイトへ
2000/12/9 古代人のメソドロジー、−人間性の原点を探る二一世紀の歴史学− 情報源のサイトへ
2000/12/24 文学部は、教育学部・法学部・経済学部・人文科学研究所とともにハーヴァード大学燕京研究所(アメリカ合衆国)と、教員又は研究者の交流、学生の交流、共同研究の実施を内容とする学術交流協定を締結した。文学部としては最初の国際交流協定である 情報源のサイトへ
2001 食糧科学研究所との統合による研究科の強化と学部の再改組を行い、6学科7専攻体制を取るに至った。このことにより、建学以来一貫して求めてきた自然科学と社会科学の連携、地域性と国際性の重視、長期的視点と萌芽性の尊重などを内包した総合的で学際的な研究のさらなる発展を可能にしている 情報源のサイトへ
2001 関西ベンチャー学会を設立、初代会長を務める 情報源のサイトへ
2001 藤井讓治・有坂道子編『京都大学文学部日本史研究室関係日記目録』京都大学大学院文学研究科、2001年 情報源のサイトへ
2001 入って始まる。 情報源のサイトへ
2001 より現職。グラフ・ネットワークアルゴリズム、離散幾何学、組合せゲーム・パズル等の研究に従事 情報源のサイトへ
2001/1 1月  情報源のサイトへ
2001/1/11 「文学部・文学研究科人権問題調査委員会」が設置された。その後、「調査委員会」による調査が重ねられ、教授会での検討を経たあと 情報源のサイトへ
2001/2 2月  情報源のサイトへ
2001/3 3月  情報源のサイトへ
2001/4 4月  情報源のサイトへ
2001/5 5月  情報源のサイトへ
2001/6 6月  情報源のサイトへ
2001/6 139-165頁 (非市販文献) 情報源のサイトへ
2001/6/19 京都大学評議会において、文学研究科教授のセクシュア・ハラスメントの件で懲戒処分が決定された。 情報源のサイトへ
2001/6/30 次大会  情報源のサイトへ
2001/7 ,83-93ページ。 情報源のサイトへ
2001/7 7月  情報源のサイトへ
2001/9 相談窓口についてより詳細に紹介するパンフレット「「セクシュアル・ハラスメント等相談窓口」について」が作成され、窓口で配布され 情報源のサイトへ
2001/12 文学研究科中・長期計画策定ワーキング・グループによって作成された「あるべき今後の文学研究科像について−あたらしい「人文学」にむけて−」が提案され 情報源のサイトへ
2001/12/1 日本文化の基点−中世から近世へ− 情報源のサイトへ
2001/12/20 2.スイス連邦にて,チューリヒの産業遺産に関する調査を実施(2001年12月20日〜 情報源のサイトへ
2001/12/20 教授会で、中・長期計画の最終案として承認された。 情報源のサイトへ
2002 じめには、「世界的教育研究拠点の形成のための重点的支援−21世紀COEプログラム−」と変わった。 情報源のサイトへ
2002 以降減少し、特に 情報源のサイトへ
2002 京都大学大学院博士学位(情報学)を修得し, 情報源のサイトへ
2002 学生便覧に載せられた。さらに 情報源のサイトへ
2002 独語外国書講読(学部 平成14年) 情報源のサイトへ
2002 から始まった工学部の桂移転にともなう吉田キャンパス再配置計画の策定により 情報源のサイトへ
2002/2 刊行  556ページ 情報源のサイトへ
2002/2/20 1.[研究報告] 「スイス・モデルの試練 1990年代スイスの経済構造」(財務省財務総合政策研究所「経済の発展・衰退・再生に関する研究会」研究報告〔上記ブロジェクトを参照〕),2002年2月20日 情報源のサイトへ
2002/3/19 全学建築委員会で、文系四学部共同棟2200㎡と工学部4号館1800㎡とを文学部が使用することになり、それへの移転が修了した段階で東館は取り壊すことになった。当初、これらの計画は 情報源のサイトへ
2002/7/10 教授会において、文学部・文学研究科「中期計画・参考資料」(第1次案)が承認された。その後、大学全体の中期目標・中期計画のワークシートが提示され、それに沿った文学研究科・文学部の第1期「中期目標・中期計画」[大学実施要項]を作成し 情報源のサイトへ
2002/8/8 午後は文系学部と理学部 情報源のサイトへ
2002/8/9 午後は医学部・薬学部・工学部でそれぞれ会場を分けて開催された。文学部では、ABの二つの時間帯に分け、それぞれに180名の希望者を募り、新館第3講義室を会場に、学部長の歓迎の挨拶のあと、各系ごとに施設見学、研究室訪問を実施し、最後に分野別教官との意見交換をもって終了した 情報源のサイトへ
2002/8/9 両�に開催され、両日とも午前中、総合体育館において全体説明会があり 情報源のサイトへ
2002/9/30 13時-14時 於:ルビノ京都堀川 情報源のサイトへ
2002/10/9 採択された。 情報源のサイトへ
2002/11/16 神戸学院大学 情報源のサイトへ
2002/11/22 4.第13回経済学・社会科学シンポジウム(2002年11月22情報源のサイトへ
2002/11/29 1.[非常勤講師] 関西学院大学,担当科目「総合コース467 ドイツ語を話す国にの人たち」,第6回「スイスの社会と経済」(2002年11月29日) 情報源のサイトへ
2002/12/2 歴史の現在を問う、「自然という文化」の射程 情報源のサイトへ
2003 最後の学生募集となる。 情報源のサイトへ
2003 まで学生募集された[1]。大学の略称は京大医短 情報源のサイトへ
2003 以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。 情報源のサイトへ
2003 完了する予定であったが、実際には耐震工事の遅れなどもあって、いまだに実現していない。 情報源のサイトへ
2003 以降、「扇町創造」を提唱、地域に根ざした創造産業の地域インキュベータ創出に勤めている。 情報源のサイトへ
2003 スクールカラー 情報源のサイトへ
2003 化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはA~Dの4つの「クラスター」に別れており、Cクラスターの一部は 情報源のサイトへ
2003 を基準として毎年1%の効率化係数が、人件費にも物件費にもかけられることになったことである。文学研究科に単純に当てはめれば、教員1名の削減を毎年行わなければならないことになり、これまでの文学研究科の教育研究体制を大きく揺るがしかねない問題である 情報源のサイトへ
2003 までには取り壊されることになっていたが 情報源のサイトへ
2003 経済史・思想史入門(学部 平成15年度) 情報源のサイトへ
2003 教員人事の柔軟化とともに大学院重点化のもう一つの目標であった文学部・文学研究科の財政問題は、大講座化の前年 情報源のサイトへ
2003 藤井讓治・岩崎奈緒子編『鷹峰村文書目録』京都大学総合博物館、2003年 情報源のサイトへ
2003 産業考古学会全国大会 特別講演  情報源のサイトへ
2003 より同大学学術情報メディアセンター助教授 情報源のサイトへ
2003 (続刊中) 情報源のサイトへ
2003/5/31 東京経済大学 情報源のサイトへ
2003/6 「大学(国立大学)の構造改革の方針」に基づいて「活力に富み、国際競争力のある国公私立大学づくりの一環として、「世界最高水準の大学づくりプログラム−国公私「トップ30」−」が、構造改革特別要求の予算枠で設けられることになった。国公私「トップ30」の名称は、さまざまな批判を呼び 情報源のサイトへ /suisinkaigi.jpg
2003/6/1 関連資料4:『誠之館同窓会報(第10号)』、33頁、「建築家武田五一・田邊淳吉の親たち」、園尾裕、福山誠之館同窓会編刊、2003年6月1日 情報源のサイトへ
2003/7 本部に提出した。 情報源のサイトへ
2003/8/11 「みやこめっせ」を会場として、総長の講演、在学生からのメッセージのあと午後は相談コーナーでの相談にあてられた。 情報源のサイトへ
2003/8/29 スイスチューリヒ大学東アジア学科 情報源のサイトへ
2003/11 ,115-117頁所収。 情報源のサイトへ
2003/11/3 西島 和彦 名誉教授 基礎研教授 素粒子物理学 情報源のサイトへ
2003/11/11 パリ第8大学「歴史、文学、社会学」学部(フランス)との間で、学生の相互交流、教員・研究者の相互交流、出版物・学術情報の交換、シンポジウム・セミナー・講演会の共同開催、共同研究計画の推進を内容とする学術交流協定 情報源のサイトへ
2003/11/26 「キャンパスプラザ京都」第4講義室 情報源のサイトへ
2003/12/6 文学と言語にみる異文化意識 情報源のサイトへ
2004 国立大学としては初めて民間のコンビニエンスストアローソンが吉田南総合館地下に開店した。 情報源のサイトへ
2004 から京都大学大学院教授.グラフに関する問題を中心に離散最適化問題を解く効率の良いアルゴリズムの研究に従事. 情報源のサイトへ
2004 以降、これまで認められてきた非常勤講師経費が財務省で予算化されなかったことにより、その経費を研究科で負担する必要が生じたことである。このように、法人化は、文学研究科の研究・教育にとって望まれるものとはいいがたい 情報源のサイトへ
2004 男子ラクロス部は、関西学生ラクロスリーグファイナルで2004年 情報源のサイトへ
2004 8(a).「日本におけるスイス経済像——その変容にみる近代像・経済政策認識の変遷」,森田安一(編)『スイス日本——日本におけるスイス受容の諸相』刀水書房書房,2004年[ 情報源のサイトへ
2004 5,205-233頁。 情報源のサイトへ
2004 定価:本体5000円 ISBN: 4/87698/434-4 情報源のサイトへ
2004 より現職.非線形制御,非ホロノミックシステム,ロボティクス(特に移動ロボット,跳躍ロボット)の研究に従事. 情報源のサイトへ
2004 7,99-122頁所収。ヘルベルト・ハックス「市場変動とドイツの企業構造」(石井聡・竹内常善と共訳),同書151-179頁所収,イェルク・ティーメ著「ドイツの対外経済関係とEU」,同書241-262頁所収 情報源のサイトへ
2004 採択されているプログラム 情報源のサイトへ
2004 以前入学者については、A・B・D群が同一視されていた。 情報源のサイトへ
2004 X (共訳/第8章[173-206頁]のみを担当) 情報源のサイトへ
2004 から始まった卒後研修義務化に伴い、2年間入局者がない時代があったが、今では、教室には若い力が漲るようになり、京大眼科は新しい時代を切り拓いている。 情報源のサイトへ
2004 信州大学から吉村長久が教授に着任した。吉村は、基礎研究志向の強かった本田教授時代に対し、眼科疾患研究に重点を置き、黄斑疾患、網膜硝子体疾患、緑内障の研究を進めている 情報源のサイトへ
2004 平成16年 情報源のサイトへ
2004 よりサンスクリット語学サンスクリット文学とインド哲学史とが合体しインド古典学となり、現状では専修数は31である。また 情報源のサイトへ
2004 以降は定員を割っている。 情報源のサイトへ
2004 現代史学・現代日本論が名称を変更し現代史学となった。 情報源のサイトへ
2004/1 ,55-58頁所収。 情報源のサイトへ
2004/4 国立大学法人京都大学のもと新たな船出をするが、順風満帆というにはほど遠く、多くの新たな問題を抱えることになる。その最大の案件は 情報源のサイトへ
2004/8/18 両日があてられ、両日とも午前は時計台百周年記念ホールで全体説明会があり、文学部は 情報源のサイトへ
2004/10 ,159-186頁。 情報源のサイトへ
2004/10 「キャンパス・ハラスメント・ガイドライン」が新たに定められ、キャンパス・ハラスメントの一層の防止をめざす努力がなされている。 情報源のサイトへ
2004/11 刊行されている。また、このフォーラムの意図とほぼ同一線上で、文学研究科の教官を中心としたエッセイ集『知のたのしみ学のよろこび』を 情報源のサイトへ
2004/11 ,417-436頁。 情報源のサイトへ
2004/11/25 チューリヒ大学スイス社会経済史研究所 Kolloquiumsraum 情報源のサイトへ
2004/12/4 空間の行動文化学 情報源のサイトへ
2005 例会報告  情報源のサイトへ
2005 入学者まで) 情報源のサイトへ
2005 までの修士および博士の専修別入学者数は表2・表3のとおりである。修士入学者は、いずれの年も定員に満つることはなかったが、100名を割ることもなく、最高119名、最低101名、平均108.8名である 情報源のサイトへ
2005 実績) 情報源のサイトへ
2005 同助教授となり,現在に至る. 情報源のサイトへ
2005 卒業後の徴集や戦死の状況は不明) 情報源のサイトへ
2005 勝山清次・早島大祐編『京都大学文学部日本史研究室所蔵和書目録』京都大学大学院文学研究科、2005年 情報源のサイトへ
2005 決算額は394,037,000円であり、それほど大きな減少ではないが、今後、効率化係数等が適用され、このままでは財政は徐々に縮小していく。 情報源のサイトへ
2005/2/28 1.「総論:ドイツヨーロッパ諸国」/「鉄道のインパクト−−19世紀ドイツ語圏」/「<ドイツ・モデル>と<ライン資本主義>」[いずれも大阪大学ばん澤歩助教授と共著]/「知られざる先進工業国スイスの企業」[単著],経営史学会編・湯沢威編集代表『外国経営史の基礎知識』有斐閣,2005年2月28日。 情報源のサイトへ
2005/3/26 於:「あだたら高原岳温泉郷 鏡が池 碧山亭」 情報源のサイトへ
2005/4 北京大学歴史学部との学術交流協定締結を記念して開催されたものである。 情報源のサイトへ
2005/4/1 関連情報5:『文京ふるさと歴史館だより(第12号)』、2頁、「文京にたどる武田五一の足跡」、文京ふるさと歴史館編刊、平成17年4月1日 情報源のサイトへ
2005/5 例会報告  情報源のサイトへ
2005/6/27 広島大学経済学部 東広島キャンパス 情報源のサイトへ
2005/7/1 ロシア科学アカデミー東方学研究所サンクトペテルブルグ支所(ロシア)との間で、学術研究者及び学生の交流、学術情報・書籍・論文の交換、学術上及び教育上有益と思われる共同事業の実施を内容とする学術交流協定を締結した。 情報源のサイトへ
2005/8/2 文学部は 情報源のサイトへ
2005/8/11 前年同様の形式で行われた。 情報源のサイトへ
2005/9 日本管理会計学会・学会賞(文献賞) 情報源のサイトへ
2005/9 より現職. 情報源のサイトへ
2005/9/24 2. [非常勤講師] 甲南大学経済学部 担当科目「ヨーロッパ経済入門」(2005年9月24日〜 情報源のサイトへ
2005/11 事務本部を経営企画本部と教育研究推進本部に分割、改組。 情報源のサイトへ
2005/11 当時の尾池和夫第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長カレー」が、大学内の食堂において、人気メニューとして話題となった。 情報源のサイトへ
2005/11/3 沢田 敏男 名誉教授 農学部教授 農業工学 情報源のサイトへ
2005/11/27 ,ボッフム/ドイツ,Hotel 情報源のサイトへ
2005/12/17 京都北京:光の交わるところ−学問知から人類知へ 情報源のサイトへ
2006 情報処理学会山下記念研究賞受賞. 日本物理学会, 情報処理学会,電子情報処理学会, JAFEE 各会員. 情報源のサイトへ
2006 京都大学学術出版会 情報源のサイトへ
2006 まで 情報源のサイトへ
2006 ,165-186頁。 情報源のサイトへ
2006 事務組織再編により組織名変更、保健学科図書室業務を含む) 情報源のサイトへ
2006 から現職。量子力学や場の量子論の研究をしており、最近はおもに量子系の観測・制御の理論を研究している 情報源のサイトへ
2006 』の刊行である。前者は、文学研究科における活動の最新の成果を反映しようとするものである 情報源のサイトへ
2006 文学部百周年にあたり、京都大学文学部百周年記念事業会が結成され、卒業生・教員等からの募金を募り、以下のような事業が計画されている。 情報源のサイトへ
2006 全学共通科目 国際交流科目「中国の社会・経済・文化」(学部 平成18年度) 情報源のサイトへ
2006 近いあいだに虫損や劣化による損傷もみられるようになり、修復しなければ利用することができないものも出てきた。本事業は、これに応えるものである 情報源のサイトへ
2006 可積分系の大域解析から応用解析へ研究を展開。主著は高速高精度な新しい特異値分解アルゴリズムを解説した「可積分系の機能数理」(共立出版、平成18年)。 情報源のサイトへ
2006 ヘルシンキ大会 第17セッション主題 情報源のサイトへ
2006 歴史、専攻・専修の歴史等で構成される。 情報源のサイトへ
2006/1 京都大学創立記念日、医学部解剖体祭) 情報源のサイトへ
2006/2/13 ]」佐藤勝則『比較連邦制史の研究 科学研究費研究成果報告書』 情報源のサイトへ
2006/3 ,ISBN 情報源のサイトへ
2006/3 まで宇都宮大学助手, 情報源のサイトへ
2006/3 現在で、2650万円を超え、多くの方々の協力が得られ、事業はほぼ目標どおりに進められるであろう。 情報源のサイトへ
2006/3/30 京大・情報学・システム科学・助手. 現在, 京大・情報学・システム科学・准教授. 情報源のサイトへ
2006/5/10 /第109号(同 情報源のサイトへ
2006/5/17 掲載記事 情報源のサイトへ
2006/6/10 発行の時点のものです。) 情報源のサイトへ
2006/6/10 京都大学時計台記念館百周年記念ホールにて執り行ない、あわせて、ジョシュア・フォーゲル教授、マイケル・ヴィッツェル教授、上田閑照名誉教授による講演会が企画されている。 情報源のサイトへ
2006/6/27 更新:タイトル、所蔵品● 情報源のサイトへ
2006/7 次世代開拓研究ユニット設置。 情報源のサイトへ
2006/7 ,117-119頁。 情報源のサイトへ
2006/12 同大学院助手に着任。 情報源のサイトへ
2007 より准教授. 情報源のサイトへ
2007 キャンパス間の交通 情報源のサイトへ
2007 京都大学工学部教授(数理工学専攻)を経て現在に至る。液体論を含む統計物理学、初通過問題、確率共鳴等確率過程論、古典および量子ブラウン運動、分子動力学法とモンテカルロ法に基づくシミュレーション、およびカオス系の理論とエルゴードー非エルゴード転移 情報源のサイトへ
2007 で第113回を数えている。浅山は、在職中の 情報源のサイトへ
2007 職名変更により同准教授),現在に至る. 高性能計算,線形反復法,電磁界解析に関する研究に従事.京都大学博士(工 情報源のサイトへ
2007 現代経済事情(学部 平成19年度) 情報源のサイトへ
2007 岩崎奈緒子編『石井家文書目録』京都大学総合博物館、2007年 情報源のサイトへ
2007 最終更新日 2007/04/19 情報源のサイトへ
2007/2 本を意匠した近代建築家たち』、ふくやま美術館編刊 情報源のサイトへ
2007/1 撮影) 情報源のサイトへ
2007/1/13 更新:肩書● 情報源のサイトへ
2007/3 閉校) 情報源のサイトへ
2007/4 同大学院助教となり現在に至る。最適化、数理計画の理論、およびそれらの信号処理等に対する応用に関する研究に従事 情報源のサイトへ
2007/4 こころの未来研究センター、先端医工学研究ユニット、生命科学系キャリアパス形成ユニット設置。 情報源のサイトへ
2007/4 より大阪市立大学名誉教授 情報源のサイトへ
2007/7 より現職。強化学習を中心とする機械学習を専門とし、近年は数理モデルを用いた生命システム学である、計算論的認知心理学、システム神経生物学、バイオインフォマティクスの研究にも取り組む 情報源のサイトへ
2007/9 レシピを再現したレトルトカレーが発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、京都土産の人気商品となった他、KBS京都プロデュースのネットショップでも発売されている。 情報源のサイトへ
2007/10/20 愛媛大学 情報源のサイトへ
2007/11/3 岡田 節人 名誉教授 理学部教授 発生生物学 情報源のサイトへ
2007/12/17 3.  [非常勤講師] 東北大学 大学院文学研究科 歴史科学専攻 ヨーロッパ史 「ヨーロッパ史各論」(学部)「欧米近現代史特論」(大学院)(2007年12月17日〜 情報源のサイトへ
2008 ノーベル賞 伊藤 清 名誉教授 数理解析研究所教授 解析学、確率過程論 情報源のサイトへ
2008 (続刊中) 情報源のサイトへ
2008 〜現在)を歴任している。京都新聞文化賞 情報源のサイトへ
2008 /渡辺純子准教授・坂出健准教授と分担) 情報源のサイトへ
2008 現在も建設中、Dクラスターは整備開始の目処が立っていない。なお京都市営地下鉄東西線の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である 情報源のサイトへ
2008 管理者要員発課程「オランダスイスの公務員制度と家族政策・科学技術政策等について」研修準備会講義) 情報源のサイトへ
2008 前期) 情報源のサイトへ
2008 科学研究費補助金基盤研究(C)「組織的犯罪対策法の総合的研究」研究セミナー)  情報源のサイトへ
2008 夏期シンポジウム「現代史における経済空間の再検討——ヨーロッパ東アジアの帝国・国民経済・地域——」報告 2008(平成20 情報源のサイトへ
2008 優勝している。 情報源のサイトへ
2008 全国大会 共通論題『地方自治の国際比較』報告  情報源のサイトへ
2008/1 6往復、吉田~桂間が 情報源のサイトへ
2008/1 3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある 情報源のサイトへ
2008/1/24 ,芝蘭会館(京都情報源のサイトへ
2008/3 ,早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学) 情報源のサイトへ
2008/3 撮影) 情報源のサイトへ
2008/4 京都大学大学院情報学研究科GCOE助教,現在に至る。主に,有限要素法や積分方程式法を用いた大規模電磁界数値解析技術の開発,および電気機器の特性解析に関する研究に従事 情報源のサイトへ
2008/7/25 総務省5階第四特別会議情報源のサイトへ
2008/8/29 於:大阪市立大学文化交流センター 情報源のサイトへ
2008/11/3 敏英 名誉教授 基礎物理学研究所教授 物理学 情報源のサイトへ
2009 より、東京大学との間で、京都大学東京大学総合対校戦を開催している。 情報源のサイトへ
2009 〜現在 情報源のサイトへ
2009 更新 管理人 情報源のサイトへ
2009 より改編) 情報源のサイトへ
2009 入学式は防災上の理由[要出典]によりみやこメッセで行われた。 情報源のサイトへ
2009 13.「中立国スイスの多国籍企業とナチズム・第二次大戦(1)——国境経済圏の企業ゲオルク・フィッシャー社の事例から」『経済論叢』(京都大学経済学会)第181巻第5・6号(2009年5/ 情報源のサイトへ
2009/1 ,106-108頁。 情報源のサイトへ
2009/1/26 ,14:00-17:00 情報源のサイトへ
2009/2 ,54-57頁。 情報源のサイトへ
2009/6 ,47-72頁。 情報源のサイトへ
2009/11/3 日沼 頼夫 名誉教授 ウィルス研究所教授 微生物学 情報源のサイトへ
2009/11/13 更新:武田五一・関連本、出典、関連資料● 情報源のサイトへ

あしたね年表について

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