あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 観光地 > 京都

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

京都(きょうと)

/a-gion.jpg

京都(きょうと)に関する本・DVD

Ads by Google

年月日 できごと 写真
1862 京都守護職設置。 情報源のサイトへ
1862 江戸幕府,新撰組の前身である浪士組を結成 情報源のサイトへ
1863 以後勤皇の密使として京都長州を往復。 情報源のサイトへ
1863 新選組結成。 情報源のサイトへ
1864 池田屋事件  蛤御門の変禁門の変情報源のサイトへ /06.05s%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%E9%A8%92%E5%8B%95s%E7%9F%B3%E7%A2%91.JPG /img02.jpg
1867 大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた 情報源のサイトへ /100-rekishi1120-s.jpg /ryu002.jpg
1867 王政復古、京都奉行所、京都守護職廃止。 情報源のサイトへ
1868 以後京都で制作。 情報源のサイトへ
1868/8 9 京都府が町組を改正し、大年寄・中年寄・添年寄を置く。 情報源のサイトへ
1868/12 60 八代府学務課長が学区合併協議について府知事に報告する。 情報源のサイトへ
1869 太政官が東京に移り,事実上の東京遷都 情報源のサイトへ
1869 創設された64校の京都の番組小学校である。これらの小学校のうち多くは統廃合されたが、22校は現在も残っている 情報源のサイトへ
1869 をもって首都は移転したと認識されている。しかし、当時の行幸時に東西両京とした事や 情報源のサイトへ /1000040605.jpg /1000040549.jpg
1869/1/30 10 京都市中・伏見の町組が番組から区に改称される。 情報源のサイトへ
1869/9/10 2 北垣国道府知事が、区部周辺吏員を集めて談話会を組織する。 情報源のサイトへ
1871 廃藩置県。これにともない京都府は従来の山城国域に加え丹波国域の桑田郡船井郡、何鹿郡を併合 情報源のサイトへ
1872 ,西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会を開催。外国人観光客もたくさん訪れました 情報源のサイトへ
1872 先立ち 情報源のサイトへ
1872/2/1 七条停車場(京都駅)と伏見間が開業。 情報源のサイトへ
1872/4 51 府が道幅確保のため、町家に一間引き下げを命じる。 情報源のサイトへ
1872/4/1 から4か月の会期中113万人をこえる盛況でした。 情報源のサイトへ
1872/4/1 七条停車場から博覧会場を経て,疏水ほとりの南禅寺船溜りを結ぶ約7キロメートルが開業。この区間を時速10キロメートルで走り,博覧会場への足となりました 情報源のサイトへ
1872/5/3 11 京都府郡区の経済を分離し、三部制経済を実施する。 情報源のサイトへ
1872/10/30 紀念祭にあわせて,明治28(1895)年の第四回内国勧業博覧会の開催地が京都に決定しました。 情報源のサイトへ
1872/11 大正天皇即位大礼を記念して, 情報源のサイトへ /musasi12.jpg /ryuuzann.jpg
1872/11/30 までの会期中に45万人余りの入場者を記録しました。 情報源のサイトへ
1872/12/19 80日間,岡崎公園を中心に,大典記念京都博覧会が催されました。主な内容は,京都の生産品展観と文部省主催の美術展覧会でした 情報源のサイトへ
1873 文部省は総人口の調査、全国の開業医数、薬 情報源のサイトへ
1873 京都府薬剤師会の沿革  明治6年 情報源のサイトへ
1873/12/27 店名、数等々、医、薬についての諸般の調査を行い、同年12月27日 情報源のサイトへ
1874/3/12 裁可の指示を得、薬舗開業試験実施通達を先ず東京へ、次いで 情報源のサイトへ
1874/6/4 京都府、小学校取締所内に小学校教員講習所を設置。 情報源のサイトへ
1874/9/7 京都大阪へ布達され、従来の薬屋は通薬業(後の薬種商)とし 情報源のサイトへ
1875 第4回京都博覧会で水彩画が銅牌受賞。 情報源のサイトへ
1875/2 京都府中学構内に教員仮講習所を設置[1]。 情報源のサイトへ
1875/7 薬舗開業試験 情報源のサイトへ
1876 京都府丹後丹波国域の天田を併合。現在の京都府域がほぼ画定 情報源のサイトへ
1876 創立の京都府師範学校を起源とする。 情報源のサイトへ
1876/2/14 京都府権知事 槇村正直、宮内卿 徳大寺実則に師範学校設立の伺書を提出[2]。 情報源のサイトへ
1877 頃から薬局の将来に期待するものが全国に 情報源のサイトへ
1877 しかし天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年 情報源のサイトへ /%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A1%8C%E5%9C%A8%E6%89%80_edited.JPG /2006ATR%E6%9C%83%E8%AD%B0%E9%A0%86%E9%81%8A%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A1%8C%E5%AE%AE_JPG.jpg
1877 明治天皇京都御所の保存を指示。 情報源のサイトへ /%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A1%8C%E5%9C%A8%E6%89%80_edited.JPG /2006ATR%E6%9C%83%E8%AD%B0%E9%A0%86%E9%81%8A%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A1%8C%E5%AE%AE_JPG.jpg
1878/2/13 52 北垣府知事が内務卿山田顕義に琵琶湖疏水の目的を述べる。 情報源のサイトへ
1878/3 第1回卒業。 情報源のサイトへ
1879 郡区町村編制法により、京都上京区下京区の2区が置かれ、続いて 情報源のサイトへ
1879 浜岡光哲が「商報会社」を設立。 情報源のサイトへ
1879/3 26 府が独自の区会章程を定める。 情報源のサイトへ
1879/3/17 24 塩竈町住民が同町内への下京区役所建設に反対する。 情報源のサイトへ
1879/4/2 20 下京区役所が戸長役場吏員の人数、報酬などについて定める。 情報源のサイトへ
1879/6 京都商事迅報」という経済専門誌を創刊。これが源流となる 情報源のサイトへ
1879/11/1 37 愛宕郡南禅寺など鴨東9かが市域に編入される。 情報源のサイトへ
1879/12 下立売釜座の新校舎に移転。 情報源のサイトへ
1879/12 46 下京区会が独自の社倉積立金穀維持方法規則を定める。 情報源のサイトへ
1880 京都府画学校創立に際し出仕。 情報源のサイトへ
1880/5 44 上下京連合区会が、産業基立金維持仕法を審議する。 情報源のサイトへ
1880/6/7 42 京都府会部会が、市制特例から京都市を除くことを建議する。 情報源のサイトへ
1880/6/16 48 北垣府知事が、半井澄の具申により避病院改良を指示する。 情報源のサイトへ
1880/7 (2)社会福祉     45 上下京伏見区が連合して社倉規則を定める。 情報源のサイトへ
1881 府画学校西宗(西洋画科)担当。第10回博覧会で「三美人図」銅牌受賞 情報源のサイトへ
1881 京都新報」創刊 情報源のサイトへ
1881/3/30 28 市民の願届の取り扱いについて、郡区長と戸長の分担を定める。 情報源のサイトへ
1881/8/1 29 上下京連合区会が連合区会規則を改正し、各区会との連携を強める。 情報源のサイトへ
1881/11/23 3 京都商工会議所会長高木文平が、府に京都復興への取り組みを求める。 情報源のサイトへ /01.jpg /0322.jpg
1882 4 岩倉具視京都皇宮保存に関する意見書を提出する。 情報源のサイトへ /iwakuratomomi.JPG /26103af2170019453_1.jpg
1882 京都新報を「京都滋賀新報」と改題、関西で初めて紙面に見出しを付ける 情報源のサイトへ
1882/2 附属小学校を開設。 情報源のサイトへ
1882/4/16 53 府が府会議員の建議により、町並一間引下令を廃止する。 情報源のサイトへ /img003094.jpg /lcl0807031214001-p1.jpg
1882/6/13 付)     32 北垣府知事と浜岡光哲が、改進党の動向について談ずる。 情報源のサイトへ
1882/7 師範学校教則大綱に準拠し教則・校則改正。 情報源のサイトへ
1882/9 校長: 利根川浩 (1882年9月 - 情報源のサイトへ
1882/11/4 54 琵琶湖疏水事業の実施をめぐり、勧業諮問会を開催する。 情報源のサイトへ
1882/12/3 33 上下京両区内の戸長役場が統合され、連合戸長役場となる。 情報源のサイトへ
1883/1 5 京都の実業家有志らが第三回内国勧業博覧会の誘致を求める。 情報源のサイトへ
1883/3/7 (3)市民との関係     30 上京第十七組で連合町会が開かれ、協議費について決議される。 情報源のサイトへ
1883/3/20 付)     14 連合区会が区町村会法改正による定数削減に反対する。 情報源のサイトへ
1883/4 (3)環境衛生     47 上下京両区が郊外の寺院内に避病院を仮設する。 情報源のサイトへ
1883/7/9 6 京都府属湯本文彦が市制施行にあたっての意見をまとめる。 情報源のサイトへ
1883/9 55 浜岡光哲が琵琶湖疏水事業について区会有力者と協議する。 情報源のサイトへ
1883/9/27 56 上京区会議員富田半兵衛らが、琵琶湖疏水をめぐり府知事と会談する。 情報源のサイトへ /plc0806261857012-p1.jpg /plc0806261857012-p3.jpg
1883/11 58 北垣府知事が琵琶湖疏水に疑問を持つ市民と直接対話する。 情報源のサイトへ
1884 京都滋賀新報を「中外電報」と改題 情報源のサイトへ
1884/7/21 15 高台寺境内に号砲が設置される。 情報源のサイトへ
1884/11 兵式体操を導入。 情報源のサイトへ
1885 中外電報の姉妹紙として「日出新聞」を発行 情報源のサイトへ
1885/3/6 (2)区役所     23 区役所開設に伴い、学区を組と表示することにする。 情報源のサイトへ
1885/5 校長: 坪井仙次郎 (1885年5月 - 情報源のサイトへ
1886 京都青年、絵画研究会会長。 情報源のサイトへ
1886 京都師範学校の教師として招かれるとともに 情報源のサイトへ
1886/1/23 京都府女学校師範科を移管、京都府師範学校女子部とする。 情報源のサイトへ
1886/9/5 61 上下京両区にそれぞれ高等小学校が設置される。 情報源のサイトへ
1886/10/31 付)     34 府が失火消防規則を改正し、区費による防火体制を定める。 情報源のサイトへ
1886/11 校長: 八代規 (1886年11月 - 情報源のサイトへ
1887/4/1 師範学校令に準拠し京都府尋常師範学校と改称[4]。 情報源のサイトへ
1887/4/25 35 連合戸長の不祥事で、住民の戸長役場に対する不信感が高まる。 情報源のサイトへ
1887/6/18 付)     16 市制施行に向けての準備作業の日程が決まる。 情報源のサイトへ
1887/6/29 付) 以下,詳細省略  第2章 市政誕生期(1889~1898) Ⅱ 市政の定着と停滞 第1章 三大事業期(1898~1918) 第2章 市域拡大期(1918~1937) 第3章 戦時体制期(1937~1945) Ⅲ 市政の再生 第1章 復興期(1945~1950)    情報源のサイトへ /photo162285.jpg /0806032_2.jpg
1887/7 府女学校校内から上京区寺町荒神口上ルの旧知事邸に移転。 情報源のサイトへ
1887/7/2 (4)都市整備     50 府が道幅確保のため、町家に一間引き下げを命じる。 情報源のサイトへ
1888/3 7 市制施行に向けて、様々な市政団体が活動を始める。 情報源のサイトへ
1888/4 男子部が上京区第二二番組荒神口松蔭町の旧尋常中学校校舎に移転。 情報源のサイトへ
1888/6/25 38 愛宕郡柳原の区部編入に反対論強く、紀伊郡に編入される。 情報源のサイトへ
1888/7 (5)文教観光     59 府の奨励により、市中に小学校が設置される。 情報源のサイトへ
1888/10/28 付)   (4)周辺市町村との合併     36 鉄道開通に伴い、京都駅周辺部を市域に編入する。 情報源のサイトへ
1888/11/30 から、有志56名により京都薬舗会が結成された。この集まりが 情報源のサイトへ
1889 薬律が制定される 情報源のサイトへ
1889 上京区下京区は府管轄下の「京都市」となった。現在の京都市は、伏見市をはじめとする周辺の市町村を編入したため、江戸時代以前からの伝統的な「京都」の範囲は、現在の京都市内の一部に過ぎない(京北地域に至ってはかつては丹波国桑田郡の一部であった) 情報源のサイトへ
1889 京区四条裏寺町25番戸の西林寺内に設けられた。以上が明治22年に 情報源のサイトへ
1889/2 17 制施行にあたり、京都など3に特例を設ける。 情報源のサイトへ
1889/2/24 付)   (2)制度の変遷     8 京都府が町組を改正し、大年寄・中年寄・添年寄を置く。 情報源のサイトへ /s1184138328.jpg /gutai_image01.gif
1889/2/27 付)     39 愛宕郡田中村葛野郡の各村に市部編入の動きが起こる。 情報源のサイトへ
1889/3/13 付)   (5)他の行政機関との関係     40 上下京両区の財政を他の郡区から分離するよう請願する。 情報源のサイトへ
1889/3/23 付)     18 北垣府知事が市制施行に際し、戸長役場吏員らの意見を聞く。 情報源のサイトへ
1889/3/30 第3節 政 策   (1)経 済     43 上下京連合区会が、博覧会場の新築について議論する。 情報源のサイトへ
1889/4/10 第2節 しくみと環境   (1)組織編成     19 下京区役所が戸長役場の用・筆生などについて定員を定める。 情報源のサイトへ
1889/9 校長: 加藤正矩 (1889年9月 - 情報源のサイトへ
1889/12/9 臨時総会をもって京都府薬剤師会 情報源のサイトへ
1890 までの合格者は50数名であった。 情報源のサイトへ
1890 中央へ設立経過報 情報源のサイトへ
1892 綾部で大本(大本教)が創始された。 情報源のサイトへ
1892 中外電報を廃刊、日出新聞のみとする。 情報源のサイトへ
1894/1 校長: 清水誠吾 (1894年1月 - 情報源のサイトへ
1895 平安遷都 情報源のサイトへ
1895 琵琶湖疏水蹴上発電所の電気により日本初の路面電車(京都電気鉄道)運行。平安神宮開創 情報源のサイトへ
1898 が分割され、広域自治体として京都府が、基礎自治体として京都市が発足。 情報源のサイトへ
1898 が発足。天皇の東京行幸 情報源のサイトへ
1898 までは知事が市長を兼任した。東舞鶴に海軍第四鎮守舞鶴鎮守)が設置された 情報源のサイトへ
1898/4/1 師範教育令に準拠し京都府師範学校と改称。 情報源のサイトへ
1899/4 京都府教育会が師範学校予備科を開設 情報源のサイトへ
1899/4 愛宕郡上賀茂村字小山に新築移転。 情報源のサイトへ
1902/10 校長: 柴崎鐵吉 (1902年10月 - 情報源のサイトへ
1906/5 校長: 鈴木光愛 (1906年5月 - 情報源のサイトへ
1907 深草に第16師団新設。(以前から第4師団) 情報源のサイトへ
1908/4/1 京都府師範学校女子部が分離独立し京都府女子師範学校開校 (京都府告示第72号)。 情報源のサイトへ
1908/6 校長: 武井悌四郎 (1908年6月 - 情報源のサイトへ
1909/5 校歌制定。『紫野辺の暑さにも』 (黒本 作詞、吉田恒三 作曲) 情報源のサイトへ
1909/9 校長: 堀義太郎 (1909年9月 - 情報源のサイトへ
1910/4 愛宕郡大宮村字紫竹 (現・京都市北区) の新校舎に移転。 情報源のサイトへ
1911/4 入学試験事件」 発生[5]。 情報源のサイトへ /img_vigny.jpg /02-12.JPG
1912 京都夕刊新聞」創刊 情報源のサイトへ
1913/5 校長: 角谷源之助 (1913年5月 - 情報源のサイトへ
1914/2 校長: 小豆沢英男 (1914年2月 - 情報源のサイトへ
1916 京都夕刊新聞を「関西新聞」と改題 情報源のサイトへ
1916/9 校長: 龍山義亮 (1916年9月 - 情報源のサイトへ
1917/7 校長: 木下竹次 (1917年7月 - 情報源のサイトへ
1917/12 紀伊郡伏見町堀内村の農事試験場跡へ移転 (移転告示は 情報源のサイトへ
1918/1 1918年1月)。 情報源のサイトへ
1918/4 伏見住吉幼稚園伏見第三尋常小学校を附属校に充当。 情報源のサイトへ
1918/4 府立桃山高等女学校 (現・京都府立桃山高等学校) を併設。 情報源のサイトへ
1919/3 校長: 西山績 (1919年3月 - 情報源のサイトへ
1920 関西新聞を「京都新聞」と改題 情報源のサイトへ
1920/3 学則改正。予備科を新設 情報源のサイトへ
1921/2 本科第二部の修業年限を 情報源のサイトへ
1921/9 校長: 高柳竹四郎 (1921年9月 - 情報源のサイトへ
1923/3 校長: 川面松衛 (1923年3月 - 情報源のサイトへ
1925/4 本科第一部を 情報源のサイトへ
1930/9 校長: 山崎良平 (1930年9月 - 情報源のサイトへ
1931 神戸大阪時事・日日の3社が合併、三合同新聞社発足 情報源のサイトへ
1931/1 本科第二部を 情報源のサイトへ
1931/4 校長: 越川弥栄 (1931年4月 - 情報源のサイトへ
1932 巨椋池干拓事業開始。 情報源のサイトへ
1932 日本最初のトロリーバスを運行 情報源のサイトへ
1932/3 校長: 三国谷三四郎 (1932年3月 - 情報源のサイトへ
1933 巨椋池干拓工事完工(着工は昭和8年)。 情報源のサイトへ
1933 新聞社が三合同新聞社から独立 情報源のサイトへ
1934 祇園囃子(1934年) 情報源のサイトへ
1938/4 校長: 立川伊三郎 (1938年4月 - 情報源のサイトへ
1939/5 傷痍軍人京都小学校教員養成所を併設[6]。 情報源のサイトへ
1942 戦時報道統制により、京都新聞と京都出新聞が合併「京都新聞」を創刊 情報源のサイトへ
1942/4 傷痍軍人国民学校訓導京都養成所と改称 情報源のサイトへ
1942/6 校長: 富田規矩一 (1942年6月 - 情報源のサイトへ
1943 移動: ナビゲーション, 検索 京都師範学校 (きょうとしはんがっこう) は第二次世界大戦中の1943年 情報源のサイトへ /10053587.jpg /History05.jpg
1943/4 校長: 北川久五郎 (1943年4月 - 情報源のサイトへ
1943/4/1 京都府師範学校・京都府女子師範学校を統合・官立移管し、京都師範学校設置。 情報源のサイトへ
1943/6/6 開講式を挙行。 情報源のサイトへ
1944 第16師団、レイテ島の戦いで全滅。 情報源のサイトへ /20080916_481901.jpg
1945 第二次世界大戦の終結後の京都府薬剤師会 情報源のサイトへ /10053587.jpg /History05.jpg
1945 昭和20年 情報源のサイトへ
1945 米第六軍司令官クルーガー大将入洛。 情報源のサイトへ
1945/1 校長: 長岡弥一郎 (1945年1月 - 情報源のサイトへ
1946/5 夕刊京都創刊 情報源のサイトへ
1946/11 校長事務取扱: 三谷甚治郎 (1946年11月 - 情報源のサイトへ
1947/4 校長: 横田純太 (1947年4月 - 情報源のサイトへ
1948/2 校長、文部省の一一大学方針により、京都大学事務局長と折衝。 情報源のサイトへ
1948/4 昇格準備委員会発足。 情報源のサイトへ
1948/6 青師の京大農学部ブランチ案が流れ、青師と合同での昇格に変更。 情報源のサイトへ
1949 新年号紙面に戦後、関西では初のカラー印刷。 情報源のサイトへ
1949/11 戦後創刊の夕刊「京都新聞」を合併し「夕刊・京都新聞」として発行、朝夕刊制復活の口火を切る 情報源のサイトへ
1950 松竹ロビンス(1950年- 情報源のサイトへ
1950 京都府知事選で蜷川虎三当選、革新府政。( - 情報源のサイトへ
1950 金閣寺が放火によれ焼失 情報源のサイトへ
1951 京都放送を開局(ラジオ) 情報源のサイトへ
1951/3 京都学芸大学京都師範学校 (旧制)、廃止。 情報源のサイトへ
1952 衣笠球場を本拠としたが、実質的には大阪球場を使う。) 情報源のサイトへ
1953 祇園囃子(1953年) 情報源のサイトへ
1955 金閣寺を再建 情報源のサイトへ
1955 西京極市営球場を準本拠として使用。) 情報源のサイトへ
1956 滋賀新聞の経営に参加 情報源のサイトへ
1957 陸上自衛隊大久保駐屯地を設置。 情報源のサイトへ
1957/9 現在の伏見区深草藤森町 (旧陸軍歩兵第9連隊跡 → アメリカ軍キャンプ・フィッシャー跡) に移転するまで使用された。 情報源のサイトへ
1958 関西テレビ放送を開局 情報源のサイトへ
1965 頃から亀岡及び旧園部町、旧八木町など南丹地区は大阪府との結びつきが強くなり、行政では府を南北のみで区分する場合は、船井郡以南を南部とする(ただし、行政では亀岡及び南丹船井郡丹波町を中部と区分する場合が多い)。 情報源のサイトへ
1965 近鉄バファローズ(1965年- 情報源のサイトへ
1965 ごろの気象台 情報源のサイトへ
1965 頃から薬剤師の公衆衛生活動が活発となり 情報源のサイトへ
1965/1 京都府が京都御苑内に観象台(京都地方気象台の前身)を設立 情報源のサイトへ
1965/11/1 京都府測候所”から”京都測候所”と改称(国営移管) 情報源のサイトへ
1965/12/1 現在地(京都市中京区西ノ京笠殿町38)に移転 情報源のサイトへ
1966 京都学芸大学から改称) 附属京都中学校の校地となっている。隣接する附属京都小学校は、引き続き紫野東御所田町の校地を使用し続けている 情報源のサイトへ
1966 京都国際会議場(後に「国立京都国際会館」に改称)開館。 情報源のサイトへ /s1200838574187.jpg /thumb.jpg?20071215103828
1968 非開催:西京極市営球場を準本拠として使用。) 情報源のサイトへ /0090.jpg /hot1030-3.jpg
1969/6/1 発行、575ページ。 情報源のサイトへ
1970 府行政とタイアップして「薬と暮らしの 情報源のサイトへ
1970/11/30 嵐山女子寮で「京都バス嵐山レディースホテル」開業(〜11月30日) 情報源のサイトへ
1974/3 発行、230ページ。 情報源のサイトへ
1975 ファックス: 情報源のサイトへ
1975 FAX: 情報源のサイトへ
1975 e-mail:webmaster@pref.kyoto.lg.jp 情報源のサイトへ
1978 京都の市電が全面廃止になる。 情報源のサイトへ
1978/4/16 3代 林田悠紀夫(はやしだゆきお)(1978年4月16日 - 情報源のサイトへ
1979 同紙休刊後、滋賀本社に継承) 情報源のサイトへ
1979/12 発行、661ページ。 情報源のサイトへ
1982 多色印刷システム完成 情報源のサイトへ
1983 新刷版システムに紙面移行完了、鉛版 情報源のサイトへ
1984/6 発行、203ページ。 情報源のサイトへ
1986/4/16 4代 荒巻禎一(あらまきていいち)(1986年4月16日 - 情報源のサイトへ
1988 西京極市営球場を準本拠として使用。) 情報源のサイトへ
1988/5 本沈没 情報源のサイトへ
1989 元年(1989年) 情報源のサイトへ
1989/10 発行、488ページ。 情報源のサイトへ
1994 古都京都の文化財、ユネスコ世界遺産に登録。 情報源のサイトへ
1994 神戸新聞社と「緊急事態発生時における新聞発行援助協定」を締結。 情報源のサイトへ
1994/10 発行、261ページ。 情報源のサイトへ
1995 神戸新聞との共同企画「生きる」で新聞協会賞を受賞。インターネットに情報発信開始 情報源のサイトへ
1995/1/17 阪神・淡路大震災で神戸新聞の本社屋が全壊した際、この協定をもとに京都新聞社で神戸新聞の紙面を制作・発行した 情報源のサイトへ
1996 清水寺など17社寺が世界遺産に登録される。 情報源のサイトへ
1997 京田辺市成立。 情報源のサイトへ /chimei-nanbu3.JPG /chi-yamashiro1.JPG
1997 京都駅ビルが完成する。 情報源のサイトへ
1999/10 発行、303ページ。 情報源のサイトへ
2000 頃にようやく掲載されるようになった。 情報源のサイトへ
2001/6 京都教育大学120周年記念誌編集委員会(編) 『京都教育大学百二十年史』 京都教育大学、2001年6月。 情報源のサイトへ
2002 京都府女子師範学校 情報源のサイトへ
2002/1 京都ホテル(おいけ本館)OHRに 情報源のサイトへ
2002/2 京都ホテルオークラへ名称変更) 情報源のサイトへ
2002/4/16 2期目) 情報源のサイトへ /30401_thumb.jpg /0208140201.jpg
2004 滋賀プレスビル内 情報源のサイトへ
2004 南北に長い京都府では従来、京都市を除く12の地域に地方振興局を設置し、地域にあった振興策を策定していたが、社会情勢の大きな変化により、2004年 情報源のサイトへ
2004/1 論調は左派・革新的 情報源のサイトへ
2004/5 地域の中核都市(宇治亀岡舞鶴・京丹後)に地方振興局を集約、4の広域振興局体制に再編した。また今までの権限を強化するとともに、特定非営利活動法人(NPO法人)の認証や大規模小売店舗の届出確認など府から新たな権限を委譲するなど機能強化が図られている 情報源のサイトへ
2004/10/1 現在推計人口 情報源のサイトへ
2005 丹波町成立。京都迎賓館開館 情報源のサイトへ /tanba_3.jpg
2005 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) 情報源のサイトへ
2006 経営基盤の強化を目的に、グループ経営に移行。株式会社京都新聞社(グループ統括・編集・製作)、株式会社京都新聞COM(広告営業・新聞販売)、株式会社京都新聞印刷(新聞印刷)の3社に分割 情報源のサイトへ
2006 南丹、与謝野成立。 情報源のサイトへ /stt0809191031002-p6.jpg
2006/1/1 付は、京都テレビ、びわ湖テレビのテレビ欄は京都滋賀ともフルサイズで掲載。そのためテレビ大阪は第2テレビ面で掲載される 情報源のサイトへ
2006/10/1 推計人口[1]。 情報源のサイトへ
2006/11/1 から京都滋賀の両方を掲載するようになった) 情報源のサイトへ
2006/11/30 閉館) 情報源のサイトへ /10photo22.jpg /10photo21.jpg
2007 漁業・水運業 情報源のサイトへ
2007 神戸新聞社の機器故障により 情報源のサイトへ
2007/8 合併協議会は解散した 情報源のサイトへ
2007/8/30 史(京都新聞社史編さん委員会 編) 情報源のサイトへ
2007/9/23 朝刊の神戸新聞について、紙面制作を京都新聞社で行う。 情報源のサイトへ
2007/12 京都中井酒造・明治(H.FUKが撮影、2007年12月) 情報源のサイトへ
2008 現在、日本の首都を直接定めた法令が無いことから、現在も京都(府)が日本の首都であるという議論も存在する。 情報源のサイトへ
2009 高速自動車国道 情報源のサイトへ
2009 版 大学入試シリーズ]    教学社京都府 (新・分県登ガイド)  内田 嘉弘, 木之下 繁, 大槻 雅弘(著)  と溪谷社京都府 (新・分県登ガイド)  内田 嘉弘, 木之下 繁, 大槻 雅弘(著)  と溪谷社 情報源のサイトへ
2009/2/30 記念館完成<設計:谷口吉夫> 情報源のサイトへ

あしたね年表について

このページのトップに戻る