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井伊直政(いいなおまさ)

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年月日 できごと 写真
1561 生年:1561-1602(永禄四年〜 情報源のサイトへ
1561/2/19 今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。井伊氏は先祖代々、遠江国井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した 情報源のサイトへ /oke1.jpg /poster.jpg /akazonae-2005-10-26T16:04:55-1.jpg
1562 父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年 情報源のサイトへ
1562 謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。直親の死によって、遺児直政(当時の名は虎松)は僅か2歳であったため、新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった 情報源のサイトへ
1562 第24代:1562年 - 情報源のサイトへ
1575 ある日、家康は鷹狩りに出かけた。すると、家康はそこにいた少年のあまりの美しさに本気で惚れ込んでしまった 情報源のサイトへ
1575 徳川家康に見出され、井伊の姓に復帰を命じられるとともに虎松を万千代と改めて、井伊万千代と名乗るようになる。さらにかつての井伊氏の旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた 情報源のサイトへ /hi.jpg /small_0014-1.jpg
1581/10/30 本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先のから三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、後北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕としての実力を発揮し、家康が武田氏の旧領である信濃、甲斐を併合すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)と呼ばれる精鋭部隊の大将となった 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /hon-hieizan.jpg
1581/11/30 家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝榊原康政の同僚となる 情報源のサイトへ
1582 22歳の時にようやく元服を終え、万千代を直政に改めて、井伊直政と名乗るようになる。また 情報源のサイトへ
1582 後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた 情報源のサイトへ
1582 (天正10) 情報源のサイトへ
1584 小牧・長久手の戦いでは初めて井伊の赤備えを率いて池田恒興を討ち取るなどの武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。直政の武力・政治的手腕は、豊臣秀吉にも高く評価され、家康と秀吉が和解すると、従五位下侍従・兵部少輔に叙任される 情報源のサイトへ /kosenjoukouen.jpg /nagakute.jpg /matsuzaka_02.jpg /PICT20071.jpg
1584 (天正12) 情報源のサイトへ
1585 で、この事件が起こったのはその 情報源のサイトへ
1585 真田攻めにも出陣する。この後、井伊谷6万石に加増される 情報源のサイトへ
1585 秀吉自身は直政が数正に対してどのような態度を見せるのかを知りたくて数正を同席させたと言われている。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年 情報源のサイトへ
1586 である。 情報源のサイトへ
1588 (天正16) 情報源のサイトへ
1590 直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年 情報源のサイトへ
1590 小田原の役では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる。その後、後北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪12万石(群馬県高崎市)を与えられる 情報源のサイトへ /im00121.jpg
1598 家康の命によって、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎とし、和田を高崎と改めて高崎に移る(地名の由来に関しては群馬県高崎市の項目を参照)。この時、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている 情報源のサイトへ
1598 (慶長3) 情報源のサイトへ
1600 (慶長5) 情報源のサイトへ
1600 関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、また合戦においても家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)をよく補佐して忠吉と共に当初、東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いて先鋒を務めた(本来ならば、直政も忠吉も軍令違反で処罰の対象になるが、家康は直政の駆け抜けを認めたため、処罰を命じなかった) 情報源のサイトへ /20071122_02.jpg /nakasen58c.jpg /sekigahara-soutyou.png
1600/9/15 決戦では忠吉は舅の井伊直政と共に開戦の口火を切った。この時、秀忠軍の未着と、後方の大垣城南宮山に押えの兵力を配置した事により、家康には主戦場に投入できる直属兵力が極端に不足していた 情報源のサイトへ
1602 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 井伊氏 | 戦国武将 | 江戸の大名 | 江戸時代の人物 | 譜代大名 | 静岡県の歴史 | 群馬県の歴史 | 滋賀県の歴史 | 1561年生 | 1602年没 情報源のサイトへ
1602/2/1 おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と島津義弘の軍を追撃していた際に義弘の軍の鉄砲隊が撃った銃弾による鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去した。直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した 情報源のサイトへ

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