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年表トップ > 乃木希典と森鴎外の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

乃木希典(のぎまれすけ)

 

森鴎外(もりおうがい)

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乃木希典(のぎまれすけ)と森鴎外(もりおうがい)に関する本・DVD

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乃木希典   森鴎外
年月日 できごと   年月日 できごと
1849 現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地情報源のサイトへ      
1849/11/11 乃木希典が誕生します。情報源のサイトへ      
      1862/1/19 1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。情報源のサイトへ
      1862/1/19 石見国津和野(現島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子[2]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった情報源のサイトへ
      1862/2/17 森鴎外(1862年2月17日〜情報源のサイトへ
      1865 設立)の第13回総集会を傍聴していた。情報源のサイトへ
      1867 6歳) -情報源のサイトへ
      1867/11 村田久兵衛に論語を学ぶ。情報源のサイトへ
      1868 7歳) -情報源のサイトへ
      1868/3 米原綱善に孟子を学ぶ。情報源のサイトへ
      1869 8歳) - 藩校の養老館で、四書を一から読み直す。情報源のサイトへ
      1869 版籍奉還に及ぶ。情報源のサイトへ
      1870 9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。情報源のサイトへ
1871 陸軍少佐に任官。情報源のサイトへ   1871 10歳) - 藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。情報源のサイトへ
1871 23歳の若さで陸軍少佐として入隊する。情報源のサイトへ      
      1872 11歳) -情報源のサイトへ
      1872 廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し情報源のサイトへ
      1872/6 父とともに津和野を発ち情報源のサイトへ
      1872/8 東京入り(向島小梅村)。その後、向島曳舟通りに転居情報源のサイトへ
      1872/10 ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学。情報源のサイトへ
      1872/10 私塾の進文学社[4]に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族西周(にし・あまね)の邸宅に寄食した情報源のサイトへ
      1872/11/30 住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため情報源のサイトへ
      1873/11 入学)。情報源のサイトへ
      1873/11 第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。同校は、のちに東京医学校に改称情報源のサイトへ
      1873/11 入校試問を受け、第一大学区医学校予科(現東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学(のちに首席で卒業する同級生の三浦守治も情報源のサイトへ
      1873/11 入校試問を受け、第一大学区医学校予科(現東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学(のちに首席で卒業する同級生の三浦守治も情報源のサイトへ
1877 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。連隊旗を薩摩軍に奪われた情報源のサイトへ   1877 16歳) - 東京医学校は、東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。情報源のサイトへ
1877 西南戦争において、官軍と薩摩の軍とが熊本県下に火蓋を切ったのが、1877年情報源のサイトへ      
1877 西南戦争にて大隊長として従軍するも、部隊を無駄に分散し敗退、軍旗を奪われると言う失態をする。情報源のサイトへ      
1877 2月21日で、その翌情報源のサイトへ      
1877/22 乃木希典にとって一代の悲憤ともいうべき連隊旗を敵に奪われるという事件が起ります。情報源のサイトへ      
1877/1 間に廃兵院に何度も足を運んだそうです。廃兵とは戦争により手や足を失ったとか、失明した兵士のことであり、乃木は御所や宮殿下からお菓子を頂戴したり、または知人から何か贈物があると、すぐに廃兵院へ見舞いとして持って行ったそうです情報源のサイトへ      
1877/2/22 乃木希典連隊が敗退した植木町付近情報源のサイトへ      
1877/10/17 東京神田町に学習院が開校します。明治天皇、皇后が臨席して開校式が催されました情報源のサイトへ      
1878 頃、乃木希典が歩兵第一連隊長の時、佐倉の歩兵第二連隊長の児玉源太郎と習志野で対抗演習を行いました。情報源のサイトへ      
      1880 19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。情報源のサイトへ
      1881 19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務情報源のサイトへ
      1881 (1881)東京大学医学部を卒業後軍医となり情報源のサイトへ
      1881/3 下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。情報源のサイトへ
      1881/7 東京大学医学部を卒業。父 森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居情報源のサイトへ
      1882 21歳) -情報源のサイトへ
      1882/2 第一軍管区徴兵副医官(中尉相当)になり、従七位の勲等を授かる。情報源のサイトへ
      1884/6 衛生学を修め、かつドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。情報源のサイトへ
      1884/8 横浜を出航。情報源のサイトへ
      1884/8/24 陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し情報源のサイトへ
      1884/10 ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ情報源のサイトへ
      1884/10/7 フランスのマルセイユ港に到着。情報源のサイトへ
      1884/10/11 首都ベルリンに入った。最初の情報源のサイトへ
      1885/2 ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を執筆。情報源のサイトへ
      1885/5 陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進。情報源のサイトへ
      1885/9 また、金子幸代『鴎外と〈女性〉』には、鴎外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、鴎外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の鴎外は、1885年9月28・情報源のサイトへ
      1885/9/29 ライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」情報源のサイトへ
      1885/10 ドレスデンに移る。情報源のサイトへ
      1885/10/11 次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日-情報源のサイトへ
      1885/10/11 で、生活に慣れていない鴎外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちであった[7]。また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた情報源のサイトへ
      1886 25歳) -情報源のサイトへ
      1886/3 ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ情報源のサイトへ
      1886/3/6 ナウマンの講演に反論しており、のちにミュンヘンの一流紙で論争が起こった。情報源のサイトへ
      1886/3/7 では、主として軍医学講習会に参加するため、5ケ月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした情報源のサイトへ
      1886/3/8 ミュンヘン(1886年3月8日-情報源のサイトへ
      1887/4 ベルリンに移る。情報源のサイトへ
      1887/4/15 では、ミュンヘン大学のペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと違って同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と多く交際し、また、よく観劇していた情報源のサイトへ
      1887/4/15 では、ミュンヘン大学のペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと違って原田直次郎など名士の子息と多く交際し、また、よく観劇していた情報源のサイトへ
      1887/4/16 次のベルリン(1887年4月16日-情報源のサイトへ
      1887/5 北里柴三郎とともにコッホを訪ね、衛生試験所に入る。情報源のサイトへ
      1888 27歳) -情報源のサイトへ
      1888/1 ほどで離日する出来事があり、小説『舞姫』の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる[11][12]情報源のサイトへ
      1888/1 大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており情報源のサイトへ
      1888/1/18 から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。なお、留学を一年延長した代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第二連隊の医務)も経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった情報源のサイトへ
      1888/3 プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務につく。情報源のサイトへ
      1888/7/5 石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を4首おくった)やパリに立ち寄りながら情報源のサイトへ
      1888/7/5 石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を4首おくった)やパリに立ち寄りながら情報源のサイトへ
      1888/7/5 でも、早速北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った[9]。また、カールスルーエで開催される第四回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳軍医監に随行し情報源のサイトへ
      1888/7/5 でも、早速北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った[9]。情報源のサイトへ
      1888/7/25 あるドイツ人女性がブレーメン港から日本に向かっていた。情報源のサイトへ
      1888/7/29 マルセイユ港を後にした。その情報源のサイトへ
      1888/7/29 マルセイユ港を後にした。なお情報源のサイトへ
      1888/9 日本(横浜港)に帰国。情報源のサイトへ
      1888/9 下旬、カールスルーエで開催される第四回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳軍医監に随行し、通訳官として同会議に出席。情報源のサイトへ
      1888/9 下旬、通訳官として同会議に出席。情報源のサイトへ
      1888/9 帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。なお帰国直後、そのドイツ人女性が来日して滞在情報源のサイトへ
      1888/9/8 横浜港に着き、午後帰京した。同日、陸軍軍医学舎の教官に補され情報源のサイトへ
      1888/9/27 発言し、とりわけ最終日の情報源のサイトへ
      1888/9/27 「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった[10]。会議を終えた一行は情報源のサイトへ
      1888/9/27 発言し、反響があった[10]。会議を終えた一行は情報源のサイトへ
      1888/9/28 ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、鴎外は恩師や知人と再会した情報源のサイトへ
      1888/10 陸軍大学校教官に就任。情報源のサイトへ
      1888/10/17 ほどで離日する出来事があり、小説『舞姫』の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる[11][12]情報源のサイトへ
      1888/11 陸軍大学校教官の兼補を命じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在情報源のサイトへ
      1888/12 『非日本食論将失其根拠』を自費出版。情報源のサイトへ
      1889 登志子(1889年 -情報源のサイトへ
      1889 ^ たとえば、ドイツから帰国した翌1889年年情報源のサイトへ
      1889 東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を[17]情報源のサイトへ
      1889 『於母影』 (新声社訳『国民之友』夏期付録、1889年)情報源のサイトへ
      1889 ※三木竹二との共訳情報源のサイトへ
      1889 東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を[15]情報源のサイトへ
      1889/1 東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞に『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる情報源のサイトへ
      1889/1/3 読売新聞の付録に『小説論』[13]を発表し、また同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲『調高矣津弦一曲』(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり情報源のサイトへ
      1889/3 写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。情報源のサイトへ
      1889/5 東京美術学校専修科の美術解剖学講師に就任。情報源のサイトへ
      1889/8 発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており情報源のサイトへ
      1889/8 日本近代詩の形成に大きな影響を与えた訳詩集『於母影』(共訳)を発表し、その原稿料をもとに弟の三木竹二など同人たちと評論専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)[13]。外国文学などの翻訳を始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[14]、以後、熱心に評論的蒙活動をつづけた情報源のサイトへ
      1889/8 『国民之友』に訳詩編「於母影」を発表。情報源のサイトへ
      1889/8 蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集『於母影』(署名は「S・S・S」(新声社の略記)[14])を発表した。その『於母影』は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた情報源のサイトへ
      1889/10 刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。情報源のサイトへ
1890 愛知県蒲郡市の三谷温泉には乃木希典が名古屋歩兵第五旅団長時代(明治23年~情報源のサイトへ   1890 29歳) -情報源のサイトへ
      1890/1 『医事新論』を創刊。『国民之友』に「舞姫」を発表情報源のサイトへ
      1890/1 舞姫 (『国民之友』、1890年1月)情報源のサイトへ
      1890/8 『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる情報源のサイトへ
      1890/8 うたかたの記 (『国民之友』、1890年8月)情報源のサイトへ
      1890/9 長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚情報源のサイトへ
      1890/10 本郷駒込千駄木町57に居住を移す。鴎外は、そこを「千朶山房」と呼ぶ情報源のサイトへ
      1891/1 『文づかひ』を刊行。情報源のサイトへ
      1891/1 文づかひ (吉岡書店、1891年1月)情報源のサイトへ
      1891/9 『しからみ草紙』に「山房論文」を発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす情報源のサイトへ
1892 日清戦争では猛将として果敢な突撃(無謀とも言う)によって旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。情報源のサイトへ   1892 講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である情報源のサイトへ
1892 伊勢神宮逢拝の際、蒲郡に寄ったのを記念し大正以降に地元の有志で建立したという像があるというので温ねてみました。情報源のサイトへ      
      1892/4/18 同期の谷口謙とともに乃木希典、川上操六の両少将を訪問したとき、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう情報源のサイトへ
      1892/4/18 同期の谷口謙とともに乃木希典、川上操六の両少将を訪問したとき、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていなかった極東の発展途上国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう情報源のサイトへ
      1892/7 翻訳小説集『美奈和集』(春陽堂)を刊行。情報源のサイトへ
      1892/8 医学と文学の論争から離れて休息を取るため、自宅(観潮楼)を建設。情報源のサイトへ
      1892/9 慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)[16]講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱))。情報源のサイトへ
      1892/9 慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)[18]講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱))。情報源のサイトへ
1892/9/13 乃木祭(乃木希典の命日)情報源のサイトへ      
      1892/9/26 オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒(そうそつ)の問いなり。」と発言情報源のサイトへ
      1892/9/27 最終日は、石黒の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は情報源のサイトへ
      1892/11 『しからみ草紙』にアンデルセンの「即興詩人」を連載。情報源のサイトへ
      1892/11 から掲載され、『めさまし草』情報源のサイトへ
      1892/12/30 さらに滞在をすすめる人たちに別れを告げた。金子(1992)、15-18頁情報源のサイトへ
      1893/11 陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。情報源のサイトへ
1894 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった情報源のサイトへ      
      1894/8 日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)に上陸情報源のサイトへ
      1894/8 日清戦争に軍医部長として出征。戦後、東京に戻ることなく、台湾に転征し情報源のサイトへ
      1894/10 大本営のある広島市で執務をし情報源のサイトへ
      1894/11 大連に上陸。情報源のサイトへ
1894/11/21 払暁、寒気をついて開始され、主力諸隊が前進した。この間秋山支隊は主力の右側の援護に任じ、椅子山の西方に位置し、一方、鳩湾まで進入してきた艦艇と連絡しつつ、優勢な敵を釘づけにした情報源のサイトへ      
1894/11/21 大山巌大将率いる第二軍は旅順攻撃を開始します。情報源のサイトへ      
      1895 34歳) -情報源のサイトへ
      1895/5 日清講和条約の調印後、帰国(帰京することなく広島市にとどまる)。情報源のサイトへ
      1895/8 台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾に赴任。情報源のサイトへ
      1895/9 帰国の途につく。情報源のサイトへ
      1895/10 帰京。翌情報源のサイトへ
1896 台湾総督に就任。情報源のサイトへ   1896 35歳) -情報源のサイトへ
1896 台湾総督となります。日露戦争では第三軍司令官として旅順攻略戦や奉天会戦に参加しました情報源のサイトへ      
1896 第3代:1896年 -情報源のサイトへ      
      1896/1 『めさまし草』を創刊。情報源のサイトへ
      1896/3 幸田露伴、斎藤緑雨らとともに『めさまし草』に「三人冗語」を連載。情報源のサイトへ
      1897 36歳) -情報源のサイトへ
      1897/1 中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに公衆医事会を設立、『公衆医事』を創刊。情報源のサイトへ
1897/6/26 勲一等瑞宝章情報源のサイトへ      
1898 台湾統治失敗の責任をとって台湾総督辞職。情報源のサイトへ   1898 37歳) -情報源のサイトへ
1898 (1898)に日清戦争後の財政的要請で「葉煙草専売法」が施行されましたが、葉たばこの密売が横行し、目標の税収を得ることはできませんでした。しかし、日露戦争の戦費を調達する必要があり、政府はたばこの製造専売にふみ切り情報源のサイトへ      
      1898/10 近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。情報源のサイトへ
      1899 陸軍内で対ロシア戦の準備が進む中、1899年情報源のサイトへ
1899/1/5 象頭山上新年宴会開催の事は、既に師団長より将校一同へ予告されていましたが、あたかも元日以来珍しい大雪が降り続いて、この分では登山は見合わせとなって、恐らく宴会会場も変更になるだろう、というのが将校一同の予想でした。情報源のサイトへ      
1899/1/5 琴平宮の鎮座する雪深い象頭山上で新年宴会を催したというお話があります。情報源のサイトへ      
      1899/6 軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第十二師団軍医部長に「左遷」[19]された(このとき『小倉日記』が書かれる)。世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた情報源のサイトへ
      1899/6 軍医監(少将相当)に昇任し、第十二師団軍医部長として福岡県の小倉に赴任。情報源のサイトへ
      1899/6 軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第十二師団軍医部長に「左遷」[21]された(このとき『小倉日記』が書かれる)。世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた情報源のサイトへ
      1900/5 末、小池医務局長の推薦にもとづく軍医の叙勲が行われ、鴎外は小池と同等に勲四等に叙せられた。日露戦争後、第一軍~第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは鴎外だけであり、会議などでも鴎外がNo.2の地位にあることが明確にされた情報源のサイトへ
      1902 廃刊)[17]。また、このころより、評論的蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった[18]情報源のサイトへ
      1902 志け(1902年 -情報源のサイトへ
      1902 廃刊)[19]。また、このころより、評論的蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった[20]情報源のサイトへ
      1902/1 大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。情報源のサイトへ
      1902/3 まで在任することとなった。情報源のサイトへ
      1902/3 東京に転勤。情報源のサイトへ
1904 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典、保典が戦死する情報源のサイトへ      
1904 日露戦争の旅順攻略戦では、日清戦争でのそれを買われ最高司令官に抜擢され、3日で落とすと豪語するも、過去のそれとは違いロシア軍は堅固な要塞を築いており150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の犠牲者を出すも未だ落とせずにいた。情報源のサイトへ      
      1904/4 第二軍軍医部長として、広島市の宇品港をたつ。『うた日記』を書く情報源のサイトへ
1904/6/26 剣山攻撃、旅順攻略戦開始情報源のサイトへ      
1904/7 「煙草専売法」を施行します。情報源のサイトへ      
1904/7/1 明治政府は専売たばこを売り出しました。情報源のサイトへ      
1904/7/26 前進陣地への攻撃開始情報源のサイトへ      
1904/8/19 第一回旅順総攻撃情報源のサイトへ      
1904/9/19 前進堡塁群への攻撃開始情報源のサイトへ      
1904/10/26 第二回旅順総攻撃情報源のサイトへ      
1904/10/26 を好む傾向がありました。情報源のサイトへ      
1904/11/26 乃木大将率いる第三軍は第三回目の旅順総攻撃を行います。情報源のサイトへ      
1904/11/30 強行軍の末、遂に二百三高地を占領しました。情報源のサイトへ      
1904/11/30 結局援軍として参戦した参謀の児玉源太郎の作戦により旅順は陥落するが、児玉源太郎は親友であった乃木にその功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、海軍の東郷平八郎と並び世界的に名を知らしめることになる。情報源のサイトへ      
1904/12/5 乃木第三軍がついに旅順要塞攻略戦の帰趨を決するニ〇三高地を占領しました。情報源のサイトへ      
1905 日露戦争に武勲たる乃木希典将軍が、寒風吹荒ぶ満州の法庫門を出発、部下の将卒を率いて凱旋の途に就いたのが、1905年情報源のサイトへ      
1905/1/2 乃木軍は旅順において入城式をおこなった。翌情報源のサイトへ      
1905/1/4 水師営南方の丘陵上において戦没者の招魂祭がおこなわれ、乃木は飛雪のなかに立ち、みずから起草した祭文を朗読した。参列した士卒はことごとく泣き、外国の観戦武官や新聞特派員も、祭文のことばはわからないながら目をぬぐった情報源のサイトへ      
1905/1/13 乃木希典率いる第三軍の旅順城入城式が行われました。情報源のサイトへ      
1905/1/14 乃木希典は水師営南方の丘陵上において招魂祭を行いました。情報源のサイトへ      
1905/12/29 事でした。情報源のサイトへ      
1906 第10代:1906年 -情報源のサイトへ   1906 45歳) -情報源のサイトへ
      1906/1 まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征[23]。情報源のサイトへ
      1906/1 帰国。情報源のサイトへ
      1906/1 まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征。情報源のサイトへ
      1906/1/12 親族のほか、佐佐木信綱や上田敏、小山内薫など一同で祝宴が催された。情報源のサイトへ
      1906/6 賀古鶴所らとともに歌会「常磐会」を設立(のちに山県有朋などが参加)。情報源のサイトへ
      1906/6 賀古鶴所らとともに歌会「常磐会」を設立(山県有朋などが参加)。情報源のサイトへ
      1906/6/10 鴎外と賀古が佐佐木信綱と井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山県に話のついでに告げたところ、山県も力をそえることとなった(山﨑情報源のサイトへ
1906/11/30 限っては一人も出なかったといいます。聞けば、遊泳中に落伍しそうなものが出ると、仲間の者が手を引いて助け情報源のサイトへ      
1907 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという情報源のサイトへ   1907 りわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年情報源のサイトへ
1907 乃木希典大将は華族学校である学習院長となります。初めての出仕の日、紅顔の生徒を引見して乃木大将は潸然とします情報源のサイトへ   1907 46歳) -情報源のサイトへ
1907 日露戦争の第三軍司令官として、旅順の堅塁に又は奉天会戦に殆んど辛酸を嘗め尽さざるを得なかった乃木希典将軍も、遂に強敵を倒して赫々たる勲功をあらはし、東京に凱旋すると間もなく、59歳の老齢でありながらも矍鑠(かくしゃく)たるものがあり、1907年情報源のサイトへ      
1907 日露戦争後の1907年情報源のサイトへ      
1907 学習院の院長に就任した乃木希典大将は剣道と水泳に力を注ぎます。剣道、水泳ともに精神を養うのにとても重視したといいます情報源のサイトへ      
1907/1 うち数回しか自邸に帰る事は無かったという熱誠振りでした。情報源のサイトへ      
1907/1/31 乃木希典は学習院院長に就任します。情報源のサイトへ      
1907/1/31 明治天皇の御思召により学習院院長を拝命しました。情報源のサイトへ      
      1907/3 与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと自宅で「観潮楼歌会」を開く。情報源のサイトへ
      1907/9 美術審査員に任じられ、第一回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任になった[25]。このころまでは翻訳が多かったが情報源のサイトへ
      1907/9 美術審査員に任じられ、第一回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任になった[22]。このころまでは翻訳が多かったが情報源のサイトへ
      1907/10 陸軍軍医総監、陸軍省医務局長となる。情報源のサイトへ
      1907/10 陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した[24]。なお情報源のサイトへ
      1907/10 陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した[21]。なお情報源のサイトへ
1908 日本初の美人コンテストで見事1位に輝いた末弘ヒロ子さん(当時16歳)です。情報源のサイトへ   1908 47歳) -情報源のサイトへ
1908 写真は1908年情報源のサイトへ   1908 である。脚気病の原因究明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた情報源のサイトへ
      1908/2 次男不律死去。情報源のサイトへ
      1908/9 書いた。日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5ケ月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の鴎外を訪ねており(初対面)、二人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた情報源のサイトへ
      1909 48歳) -情報源のサイトへ
      1909/3 『スバル』に口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する情報源のサイトへ
      1909/3 半日 (『スバル』、1909年3月)情報源のサイトへ
      1909/6 魔睡 (『スバル』、1909年6月)情報源のサイトへ
      1909/7 ヰタ・セクスアリス (『スバル』、1909年7月)情報源のサイトへ
      1909/7 号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた情報源のサイトへ
      1909/7 鴎外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に『ヰタ・セクスアリス』(『スバル』情報源のサイトへ
      1909/7 文学博士の学位を授与され、また『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。情報源のサイトへ
      1909/8 鶏 (『スバル』、1909年8月)情報源のサイトへ
      1909/8 鴎外は石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。情報源のサイトへ
      1909/9 金貨 (『スバル』、1909年9月)情報源のサイトへ
      1909/11 当時の鴎外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、鴎外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている情報源のサイトへ
      1909/11/28 ()、東京美術学校校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭をとっていた鴎外が発起人に黒田清輝をまきこみ、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した情報源のサイトへ
      1909/12 「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。情報源のサイトへ
      1910 慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)した1910年情報源のサイトへ
      1910/1 杯 (『中央公論』、1910年1月)情報源のサイトへ
1910/1/31 九段偕行社で加藤清正情報源のサイトへ      
      1910/3 青年 (『スバル』、1910年3月 -情報源のサイトへ
      1910/4 までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)[42]情報源のサイトへ
      1910/4 までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)[45]情報源のサイトへ
      1910/5 大逆事件の検挙がはじまり[26]情報源のサイトへ
      1910/5 大逆事件の検挙がはじまり[23]情報源のサイトへ
      1910/6 普請中 (『三田文学』、1910年6月)情報源のサイトへ
      1910/7 花子 (『三田文学』、1910年7月)情報源のサイトへ
      1910/8 あそび (『三田文学』、1910年8月)情報源のサイトへ
      1910/9 東京朝日新聞が「危険なる洋書」という連載を開始して6回目に鴎外と妻の名が掲載され、さらに南北朝教科書問題が大きくなった。そうした閉塞感がただよう年に『ファスチェス』(発禁問題)、『沈黙の塔』(学問と芸術)、『食堂』(クロポトキンや無政府主義等を記述)などを発表情報源のサイトへ
      1910/12 食堂 (『三田文学』、1910年12月)情報源のサイトへ
      1910/12/10 被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたという説がある。なお情報源のサイトへ
      1910/12/14 与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、鷗外から一週間にわたって無政府主義・社会主義に関する講義を受けたと伝えられている情報源のサイトへ
1911 刊)より情報源のサイトへ   1911 懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、件(くだん)の石本次官と医務局長の鴎外とが激しく対立し、鴎外が石本に辞意を告げる事態にまでなった。結局のところ、医学優先の人事が鴎外の退官後もつづいた情報源のサイトへ
      1911 も『カズイスチカ』『妄想』を発表し、『青年』の完結後、『雁』と『灰燼』の2長編の同時連載を開始。情報源のサイトへ
      1911 森鷗外(1911年)情報源のサイトへ
      1911/1 蛇 (『中央公論』、1911年1月)情報源のサイトへ
      1911/4 「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、次のように記述した。冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う情報源のサイトへ
      1911/4 妄想 (『三田文学』、1911年4月)情報源のサイトへ
      1911/9 『スバル』に「雁」を連載。情報源のサイトへ
      1911/9 雁 (『スバル』、1911年9月 -情報源のサイトへ
      1911/10 灰燼 (『三田文学』、1911年10月 -情報源のサイトへ
      1911/10 百物語 (『中央公論』、1911年10月)情報源のサイトへ
1912 イギリス・バス勲章情報源のサイトへ   1912 森鴎外「かのやうに」(1912年)情報源のサイトへ
1912 明治天皇大葬の情報源のサイトへ      
1912 (大正元)年情報源のサイトへ      
1912 カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 日本の華族 | 台湾総督 | 山口県出身の人物 | 西南戦争 | 日露戦争 | スカウト関係者 | 自殺した人物 | 1849年生 | 1912年没情報源のサイトへ      
1912 本日情報源のサイトへ      
1912 1912年)情報源のサイトへ      
1912 乃木は明治天皇の崩御した際に妻とともに切腹し殉死する。情報源のサイトへ      
1912/13 明治天皇大葬の日、乃木希典、静子夫妻が殉死しました。 (乃木夫妻が殉死に使用した刀) (乃木夫妻のお墓)情報源のサイトへ      
      1912/1 かのように (『中央公論』、1912年1月)情報源のサイトへ
1912/7/30 崩御した明治天皇の葬儀が行われた今日、陸軍大将乃木希典が静子夫人とともに自殺しました。赤坂新町の自宅で発見された遺体の側には明治天皇の写真が置かれ、その前に遺書がありました情報源のサイトへ      
      1912/8 「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外独自の小説作品の最初のもの」[27]である『羽鳥千尋』を発表。翌情報源のサイトへ
      1912/8 「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外独自の小説作品の最初のもの」[30]である『羽鳥千尋』を発表。翌情報源のサイトへ
      1912/9/5 『興津弥五右衛門の遺書』(初稿)を書き終えた[31]。これを機に歴史小説[32]に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実した情報源のサイトへ
      1912/9/5 『興津弥五右衛門の遺書』(初稿)を書き終えた[28]。これを機に歴史小説[29]に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実した情報源のサイトへ
1912/9/13 東京の赤坂を始め、京都、栃木県の西那須野町、山口県の長府町など各地に鎮座する乃木神社で例祭が執行されます。情報源のサイトへ      
1912/9/13 夜、妻静子とともに自刃。享年62情報源のサイトへ      
1912/9/13 乃木祭(乃木希典の命日)情報源のサイトへ      
1912/9/13 明治天皇の御大葬の日に、乃木希典将軍夫妻が、天皇の御跡を慕って殉死された命日を例祭としています。情報源のサイトへ      
1912/9/13 乃木祭(乃木希典の命日)”情報源のサイトへ      
      1912/10 鴎外にとって初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。情報源のサイトへ
      1912/10 『中央公論』)情報源のサイトへ
      1913 ^ すでに臨時宮内省御用係として1913年情報源のサイトへ
      1913/1 第二部:情報源のサイトへ
      1913/1 阿部一族 (『中央公論』、1913年1月)情報源のサイトへ
      1913/1 『中央公論』に「阿部一族」を発表。情報源のサイトへ
      1913/2 から、勅語や令旨など、特別な文章の起草、執筆にかかわっていた。情報源のサイトへ
      1913/3 冨山房)情報源のサイトへ
      1914/1 大塩平八郎 (『中央公論』、1914年1月)情報源のサイトへ
      1914/1 『中央公論』に「大塩平八郎」を発表。情報源のサイトへ
      1914/2 『新小説』に「堺事件」を発表。情報源のサイトへ
      1914/2 堺事件 (『新小説』、1914年2月)情報源のサイトへ
      1914/3 まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。『安井夫人』情報源のサイトへ
      1914/4 安井夫人 (『太陽』、1914年4月)情報源のサイトへ
      1914/4 以来、『山椒大夫』、『じいさんばあさん』、『最後の一句』、『高瀬舟』など家族の情を主体としたものが多くなっていく。山﨑(2007)、655頁情報源のサイトへ
      1914/7/2 上演を予定し、鴎外に訳を委嘱した。ただし、第一稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わず、その後、第二稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった情報源のサイトへ
      1915 渋江抽斎の調査研究を始める。情報源のサイトへ
      1915 ただし、1915年情報源のサイトへ
      1915 54歳) -情報源のサイトへ
      1915 頃まで、現代小説も並行して執筆していた。情報源のサイトへ
      1915/1 『中央公論』に「山椒大夫」を、『心の花』に「歴史其儘と歴史離れ」を発表。情報源のサイトへ
      1915/5 即位式前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」をつくった。なお、御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章へのかかわりは情報源のサイトへ
      1915/9 じいさんばあさん (『新小説』、1915年9月)情報源のサイトへ
      1915/11 山椒大夫 (『中央公論』、1915年11月)情報源のサイトへ
      1915/11 大嶋陸軍次官に辞意を表明。情報源のサイトへ
      1916 後世の鴎外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を[30]、ロシア革命の情報源のサイトへ
      1916 後世の鴎外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を[33]、ロシア革命の情報源のサイトへ
      1916 (1916)予備役となり情報源のサイトへ
      1916/1 『中央公論』に「高瀬舟」を、『新小説』に「寒山拾得」を発表。東京日日新聞と大阪毎日新聞に「渋江抽斎」を連載情報源のサイトへ
      1916/1 高瀬舟 (『中央公論』、1916年1月)情報源のサイトへ
      1916/1 寒山拾得 (『新小説』、1916年1月)情報源のサイトへ
      1916/1 澁江抽斎 (東京日日新聞・大阪毎日新聞、1916年1月 -情報源のサイトへ
      1916/1 渋江抽斎 (東京日日新聞・大阪毎日新聞、1916年1月 -情報源のサイトへ
      1916/4 任官時の年齢が低いこともあり、軍医総監・医務局長を情報源のサイトへ
      1917/12 帝室博物館総長に就任し、高等官一等に叙せられる。情報源のサイトへ
      1918 57歳) -情報源のサイトへ
      1918/1 随筆「礼儀小言」を著した[34]。情報源のサイトへ
      1918/1 随筆「礼儀小言」を著した[31]。情報源のサイトへ
      1918/12 帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ) に[35]情報源のサイトへ
      1918/12 帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ) に[32]情報源のサイトへ
      1919 58歳) -情報源のサイトへ
      1919/1 帝室制度審議会御用掛に就任した[36]。さらに情報源のサイトへ
      1919/1 帝室制度審議会御用掛に就任した[33]。さらに情報源のサイトへ
      1919/9 帝国美術院の初代院長に就任。情報源のサイトへ
      1919/9 帝国美術院(現日本芸術院)初代院長となった。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編纂に着手した情報源のサイトへ
      1920 59歳) -情報源のサイトへ
      1921 頃までつづいた。山﨑(2007)、625、702-703頁情報源のサイトへ
      1921 60歳) -情報源のサイトへ
      1922 没 | 森鴎外 | 日独関係情報源のサイトへ
      1922/7/6 友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。情報源のサイトへ
      1922/7/9 (満60歳没)情報源のサイトへ
      1922/7/9 明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚(高等官一等)。陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士情報源のサイトへ
      1922/7/9 午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される情報源のサイトへ
      1922/7/9 森鴎外 (小説家,戯曲家,軍医『舞姫』『山椒大夫』) [1922年7月9日歿]情報源のサイトへ
      1922/7/9 (1862~1922)情報源のサイトへ

あしたね年表について

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