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できごと |
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年月日 |
できごと |
| 614 |
藤原氏賜姓 |
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| 614 |
藤原鎌足(中臣鎌足)(614年 - |
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| 629 |
している。更に『日本書紀』・『藤氏家伝』両方とも誤記による誤りとして後崗本天皇( 皇極天皇)即位時(同天皇元年・ |
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631 |
説採用。 |
| 642 |
する説もある。 |
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| 644 |
中臣鎌足は 蘇我本宗家を倒す為に 蘇我庶流の石川麻呂の長女を 中大兄皇子の妃にしようとした。しかし、これを石川麻呂の異母弟日向が奪い邪魔した |
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| 644 |
( 皇極天皇 |
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| 645 |
中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた 蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の 蘇我蝦夷を自殺に追いやった( 乙巳の変)。この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った |
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| 645 |
大化の改新を皮切りに次々に 国政改革に内臣(天皇家の大番頭的存在)として活躍した。但し、リーダーとしてではなく、常に番頭であった |
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| 645 |
大化改新 中大兄皇子・中臣鎌足vs 蘇我蝦夷 |
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| 645/6/12 |
三 韓来貢の儀式が行われている 飛鳥板蓋宮[あすかいたぶきのみや]の大極殿[だいごくでん]にて 蘇我入鹿を誅殺し、翌日には甘橿岡の 蘇我邸を包囲して 蘇我蝦夷を自殺させ、 蘇我氏本宗家を滅ぼした。政変後、 皇極天皇は退位し、その弟の軽皇子[かるのみこ]が践祚して 孝徳天皇となり、 中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣[うちつおみ]、豪族の長老的存在であった阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)が左大臣、 蘇我石川麻呂が右大臣、 旻と高向玄理が国博士にそれぞれ就任した |
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| 647 |
新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。 |
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| 649 |
梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし |
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| 654/1/5 |
孝徳(軽)、中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した |
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| 668 |
中大兄皇子が 天智天皇として即位。このころ中臣鎌足が近江令を作る |
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668 |
大津 京 で即位するまで、実力者でありながら、何故真のトップにならなかったのは、未だ謎である。天皇が真の政治の中心になるべきであるとした、天武天皇とほぼ同一思想を持っていたことは間違いなかろう |
| 668 |
唐の法律を参考として 日本史上初の体系的法典たる 近江令[ おうみりょう]を中臣鎌足と共に作成し |
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| 669 |
死の直前に 天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである |
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| 669 |
大織冠・内大臣を賜う、藤原賜姓) |
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| 669 |
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| 669/11/14 |
飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。大化の改新以降に 中大兄皇子( 天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた |
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672 |
壬申の乱で 天智天皇の息子である大友皇子( 弘文天皇)を破る。 |
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672 |
天智天皇の崩御後、大海人皇子は鵜野讃良皇女、 草壁皇子、 高市皇子、 大津皇子らと 吉野を脱出して、 天智天皇( 中大兄皇子)の子の大友皇子( 弘文天皇)の 近江 朝廷側と対立した。この対立は、大海人皇子の 吉野側が大友皇子( 弘文天皇)の 近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで 吉野側の勝利に終わった(「 壬申の乱」という) |
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673 |
飛鳥浄御原宮で即位した。以後48 称徳天皇まで天武系の王 朝が続いたが、49 光仁天皇は 天智天皇の孫にあたり、血脈は再び天智系に戻った |
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673 |
即位して天武天皇となった。天武天皇は、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」をめざし、律令制による中央集権国家の建設に力を注いだ |
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673/5 |
官僚機構の整備として畿内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった |
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675/5/19 |
いわゆる肉食禁止令で |
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676 |
畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は 兵衛として 宮城の 警護の役目を与えた。また天武 |
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678 |
(天武天皇 |
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679 |
吉野に行幸する。皇后、 草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる( 吉野の盟約) |
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680 |
創建された。天武天皇が皇后の病気治癒のために発願したことに始まる |
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681 |
それまでの 日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった |
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681 |
皇后以下の臣に「飛鳥浄御原律令」の編纂を命じ、さらに「定紀」「旧辞」の再検討を命じた。その一方外交では、新羅との国交は保持したが、唐との国交は断絶した |
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681 |
飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。 草壁皇子を皇太子に立てる |
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684 |
八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し 新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した |
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684 |
「八色の姓」を定めて 朝廷における身分秩序を確立した。さらに、天武 朝に至って天皇の地位の絶対化、神格化がはかられ、「大君は神にし坐せば」で始まる歌が万葉集に収められたが、次第に「現人神(あらひとがみ)」となっていった |
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684/10 |
条に「 伊勢王等を遣して、諸国の 堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。 |
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686 |
病を得て、改元や誓願のかいもなく没した。 |
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686 |
天武天皇死 |
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686/2/4 |
役行者は53歳の時、熊野に参詣したが、その際、雄山、紀の川、藤代、 逆川、塩屋、切目等で中臣祓や般若心経等によって魔物や穢れを祓って熊野に達し、また、天武天皇の病気平癒を祈って、僧 道明(どうみょう)が西の岡(本 長谷寺、現在五重塔がある辺り)に 三重塔を建立し、法華説相銅板を安置しましたが |
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686/9/9 |
天武天皇が崩御して |
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686/10/1 |
漢風諡号、天武天皇は代々の天皇とともに淡海三船により「天は武王を立てて悪しき王( 紂王)を滅ぼした」から名付けられたとされる |