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中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

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中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
626 舒明天皇(じょめいてんのう)の長男として生まれる。 情報源のサイトへ /p028.jpg /zu014.jpg
626 飛鳥で生まれる。即位前は中大兄皇子 情報源のサイトへ
641 父の舒明天皇がなくなる。 情報源のサイトへ /yamadaji-3.jpg /yamadaji-1.jpg
642 母が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として天皇になる。 情報源のサイトへ /yamadaji-3.jpg /0000004159_0000009402_000000064788.jpg
644 中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂の遠智娘(持統天皇の母)と姪姫(元明天皇の母)を妃としました。 情報源のサイトへ /harusugite.jpg /tenmujitou.jpg /p031221d.jpg /p031221c.jpg
644 中臣鎌足蘇我本宗家を倒す為に蘇我庶流の石川麻呂の長女を中大兄皇子の妃にしようとした。しかし、これを石川麻呂の異母弟日向が奪い邪魔した 情報源のサイトへ /dannzannmitudann2.jpg /1-26.jpg
644/6/8 蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)に石川麻呂が上表文(使者の書)を読む役であることと,読み上げ始めるときが実行の合図であることを伝えた。 情報源のサイトへ
645 大化の改新の際の政変(「乙巳の変(いっしのへん)」)のときに吉野へ逃れ出家したがのちに謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺された。中大兄皇子にとって蘇我本宗家の蘇我入鹿の暗殺に次ぎ、皇位継承の最大のライバルを葬ったことになる 情報源のサイトへ /P1010873.JPG /P1020794s.jpg /148_03.JPG /P1010871.JPG
645 よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、天皇家の力を伸ばしていった可能性が高い 情報源のサイトへ
645/6/12 飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺 情報源のサイトへ /dannzannmitudann2.jpg /1-26.jpg /middle_1108382310.jpg /0000002644_0000006705_000000041205.jpg /tachibana.jpg /soganiimasu.jpg
645/6/12 中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺しました。これを乙巳の変といいます 情報源のサイトへ /P1020794s.jpg /148_03.JPG /middle_1108382310.jpg /0000002644_0000006705_000000041205.jpg
645/6/13 ,蝦夷についていた兵たちは中大兄皇子の使者巨瀬臣徳太の説得で武装解除した。こうして蝦夷は孤立した 情報源のサイトへ
645/6/14 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子で政治の実権を握っていたことを模したものであると推定されている 情報源のサイトへ /taishijukkei04b.jpg /rekishi01b.jpg /P1020794s.jpg /148_03.JPG
645/6/19 孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った 情報源のサイトへ /yamadaji-3.jpg /yamadaji-4.jpg
645/9 吉備笠垂らが古人大兄皇子の謀叛を密告します。古人大兄皇子は、中大兄皇子の異母兄です 情報源のサイトへ
646 発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある) 情報源のサイトへ /0,,656982_1,00.jpg /0,,803436_1,00.jpg /P1010873.JPG /P1010871.JPG
646 中大兄皇子は、任那の滅亡を認めず、新羅から「任那の調」を取り立てていたのをやめて、新羅の任那領有権を認める代わりに、国王の身代わりとして人質を出させました。その人が金春秋でした 情報源のサイトへ /071020ride_164.jpg /rekisi-minananihonfu.jpg
646/3/20 中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた 情報源のサイトへ
649 異母弟蘇我日向の讒言(中大兄皇子への)「異母兄石川麻呂が、あなたを殺害する機会を狙っている。」36孝徳は、これを信じた 情報源のサイトへ
649/3/25 石川麻呂は、難波の長柄豊崎宮から大和に脱出して、山田寺に入り、妻子8人とともに自害しました。中大兄皇子は、無実を密告したとして、蘇我日向を筑紫大宰帥に左遷しました 情報源のサイトへ
652 班田収授の法(はんでんしゅじゅのほう)が実行される。 情報源のサイトへ
653 中大兄皇子は役人たちをしたがえて、難波宮から再び飛鳥へと強引に遷都します。ひとり難波宮にとり残された形になってしまった孝徳天皇情報源のサイトへ /no55_13.jpg /kotoku-ryo01.jpg
653 中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は全く孤立して 情報源のサイトへ /no55_13.jpg /kotoku-ryo01.jpg
653/11/30 憤死する事件が起きている。皇太子の中大兄皇子は即位せず、皇極天皇が重祚して明天となった 情報源のサイトへ /1104-3.jpg /1104-4.jpg /saimei10.jpg /saimei03.jpg
654/10/1 皇極(斉明)、中大兄皇子とともに、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴く 情報源のサイトへ /yamadaji-3.jpg /yamadaji-4.jpg
655 孝徳天皇の姉で、中大兄皇子の母である皇極上皇が飛鳥板蓋宮で再び即位して、明天となりました。時に62歳でした 情報源のサイトへ /no55_13.jpg /kotoku-ryo01.jpg /OSK200902120115.jpg /OSK200902120114.jpg
658/11/5 夜、赤兄は物部朴井鮪を派遣して、有間皇子邸を包囲させるとともに、中大兄皇子のもとへ使者を派遣しました。 情報源のサイトへ /arima.jpg /arima.jpg
658/11/9 有間皇子は捕らえられ、裸足で紀の湯まで連れて行かれました。中大兄皇子は有間皇子に対して、謀反の理由を訊問しました 情報源のサイトへ /arima.jpg /arima.jpg
660 朝鮮の新羅(しらぎ)が百済(くだら)に攻めこむ。 情報源のサイトへ
660 中大兄皇子が造った日本最古の水時計−漏刻:ろうこくの跡) 情報源のサイトへ
660/5 中大兄皇子は、初めて漏剋(水時計)を作りました。 情報源のサイトへ
661 明天がみずから九州におもむいたのですが、福岡県の朝倉宮(あさくらのみや)で亡くなってしまいます。中大兄皇子は、皇太子の身分のまま、天皇の後継者となり、集めた軍勢を朝鮮半島へと派遣(はけん)しました 情報源のサイトへ /OSK200902120115.jpg /x20.jpg
661 百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、明天とともに自ら筑紫へ赴くが、天皇はこの地で没する。 情報源のサイトへ /OSK200902120115.jpg /x20.jpg
661/1/6 中大兄皇子は、百済救援のため、母である明天・弟大海人皇子・大田皇女らと共に、難波津を出兵しました。 情報源のサイトへ /OSK200902120115.jpg /x20.jpg
661/7/24 中大兄皇子は、皇太子として喪に服したまま、長津宮で戦いの指揮をしました。これを中大兄皇子の称制といいます 情報源のサイトへ
661/10 中大兄皇子は、いったん母である明天の遺体を大和まで運びました。その後、中大兄皇子は、大宰府に明天を追悼するため観世音寺の建立を発願しました 情報源のサイトへ /OSK200902120115.jpg /x20.jpg
663 白村江の戦い—唐・新羅の連合軍に大敗→中大兄皇子の朝鮮半島経営断念→国防強化・国内整備 情報源のサイトへ /hakusuki_war.jpg /img07.jpg
664 復活(中大兄皇子) 情報源のサイトへ
667 大和の飛鳥から近江大津に遷都し 情報源のサイトへ
667 中大兄皇子は、都を近江(おうみ)の国、つまり現在の滋賀県に移します。大津宮(おおつのみや)あるいは大津京(おおつきょう)といいます 情報源のサイトへ
668 中大兄皇子は正式に即位し、天智天皇(てんじてんのう)となりました。記録によれば、即位の年、中臣鎌足に命じて編修(へんしゅう)させていた近江令(おうみりょう)が完成したと言われています 情報源のサイトへ /dannzannmitudann2.jpg /1-26.jpg /2008_9_12_1.jpg /m0409440.jpg
668 高句麗も滅亡)。中大兄皇子は筑前対馬など各地に水城を築き、防人や烽を設置し、大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて豪族との融和を図るなど国土防衛を中心とした国内制度の整備に力を注ぐことになる 情報源のサイトへ
669 中臣鎌足(なかとみの かまたり)が死ぬ。 情報源のサイトへ /dannzannmitudann2.jpg /1-26.jpg
669 中大兄皇子の補佐をし政策全般にわたって関与し、「白村江の戦い」で敗れて緊迫した国内情勢を引締め、大化の改新を推進し律令制の基礎を築いた中臣鎌足が死去した。この臨終のとき天智天皇は大織冠を賜え藤原姓を名乗ることを許した 情報源のサイトへ /hakusuki_war.jpg /img07.jpg /P1010873.JPG /P1010871.JPG
670 庚午年籍(こうごねんじゃく)(国の人民の帳簿)がつくられる。 情報源のサイトへ
671 近江令(おうみりょう)(国の法律)がつくられる。 情報源のサイトへ
672 天智天皇のあとつぎをめぐり、壬申の乱(じんしんのらん)がおこる。 情報源のサイトへ /P1010873.JPG /P1010871.JPG /asukaderanishi.jpg /nakasendo_fuwa0505_04.jpg

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