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与謝野晶子(よさのあきこ)

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与謝野晶子(よさのあきこ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1878 与謝野 晶子(よさの あきこ、正字体:與謝野晶子、明治11年 情報源のサイトへ
1878/12/7 与謝野晶子(1878年12月7日〜 情報源のサイトへ
1878/12/7 堺市の和菓子商駿河屋、鳳宗七の三女として生まれる。 情報源のサイトへ
1878/12/7 与謝野晶子 生まれる 情報源のサイトへ
1900 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、明治33年 情報源のサイトへ
1900 浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と親しくなり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。 情報源のサイトへ
1900/11/30 家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚 情報源のサイトへ
1901 情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』明治34年 情報源のサイトへ
1901 日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる 情報源のサイトへ /DSCF2650.JPG /35.JPG
1901/8 処女歌集「乱れ髪」を鳳晶子の名で刊行。 情報源のサイトへ
1901/10 与謝野鉄幹と結婚。鉄幹28歳、晶子23歳 情報源のサイトへ
1902/11 長男、光誕生情報源のサイトへ /1550917042P011_01_1_list_thumb.jpg /img454920a74b4cd.jpg
1904/1 歌集「小扇」を刊行。 情報源のサイトへ
1904/5 鉄幹と共著で歌集「毒草」を刊行。 情報源のサイトへ
1904/6 次男、秀誕生情報源のサイトへ /mlb0806131337006-p1.jpg /JAPAN-322469-reuters_view.jpg
1904/9 半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した 情報源のサイトへ
1904/9 『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。 情報源のサイトへ
1904/9 「君死にたまふことなかれ」を明星に発表。 情報源のサイトへ
1904/11 号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる 情報源のサイトへ /DSCF2650.JPG /35.JPG
1906/5 であった。 情報源のサイトへ
1907/1 選歌集「黒髪」編集刊行。 長女八峰、次女七瀬双生児で誕生 情報源のサイトへ
1907/6 閨秀文学会成立。『源氏物語』『大鏡』『新古今和歌集』の講義等を担当 情報源のサイトへ
1908/11 「明星」が第百号を発行し、廃刊。 情報源のサイトへ
1909/3 三男麟誕生。 新詩社で「源氏物語」の講義を行う 情報源のサイトへ
1909/9 小林政治より 「源氏物語」現代語の依頼を受ける。 情報源のサイトへ
1910 発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し 情報源のサイトへ /ersteweltkrieg.jpg /108gm.jpg
1910 この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、明治43年 情報源のサイトへ
1910/2 三女佐保子誕生情報源のサイトへ
1911 『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。 情報源のサイトへ
1911 日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言した。ただし、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を明治44年 情報源のサイトへ /DSCF2650.JPG /35.JPG /070422headline06.jpg /070430bozensai.jpg
1911 史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。 情報源のサイトへ
1911/2 四女宇智子誕生情報源のサイトへ
1911/3/7 『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった菅野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している 情報源のサイトへ
1911/6/11 桂月は57歳で病没するが『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。 情報源のサイトへ
1912 晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[2]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった 情報源のサイトへ /ganbook2.jpg
1912 与謝野晶子が「新訳源氏物語」を刊行 情報源のサイトへ
1912/2 「新訳源氏物語」4冊本の刊行開始。 情報源のサイトへ
1912/5/5 読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌 情報源のサイトへ
1912/5/6 晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌 情報源のサイトへ
1912/5/19 シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は 情報源のサイトへ
1912/6 『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[3]。 情報源のサイトへ
1912/9/21 フランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4ケ月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから 情報源のサイトへ
1913/4 四男アウギュスト誕生情報源のサイトへ
1913/12 「スバル」終刊。 情報源のサイトへ
1914/12 『新訳源氏物語』縮刷版(四冊)を刊行。 情報源のサイトへ
1915 読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている 情報源のサイトへ
1916/3 五男健誕生情報源のサイトへ
1916/7 「新訳紫式部日記・新訳和泉式部日記」を刊行。 情報源のサイトへ
1916/11 「『新訳徒然草」刊行。 情報源のサイトへ
1917/9 六男寸が誕生するが 情報源のサイトへ
1917/9/2 死去。 情報源のサイトへ
1919 晶子は『中央公論』大正8年 情報源のサイトへ
1919/3 六女 藤子誕生情報源のサイトへ /e527.jpg /w04-01.jpg
1919/5 号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している 情報源のサイトへ
1921/4 文化学院開校、学監に就任。 情報源のサイトへ
1921/11 第二期「明星」創刊。 情報源のサイトへ
1922/1 「源氏物語礼賛」54首を「明星」に発表。 情報源のサイトへ
1923/9 関東大震災、文化学院に預けてあった『新新訳源氏物語』の原稿を焼失。 情報源のサイトへ
1925 大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、大正14年 情報源のサイトへ
1927/4 第二期「明星」終刊。 情報源のサイトへ
1928/2 評論「紫式部新考」を「太陽」に発表 1〜 情報源のサイトへ
1928/3 「和泉式部新考」を「女性」に発表。 情報源のサイトへ
1930/4 文化学院女学部長に就任。 情報源のサイトへ
1935 刊のもの。 情報源のサイトへ
1935/3 寛死去、享年63才。 情報源のサイトへ
1935/3/26 与謝野鉄幹(歌人,与謝野晶子の夫)[1935年3月26日没] 情報源のサイトへ
1935/5 「与謝野寛遺稿集」刊行 「源氏物語」現代語訳に再び着手 情報源のサイトへ
1938/10 『新新訳源氏物語』6巻刊行開始。 情報源のサイトへ
1938/10 より刊行し 情報源のサイトへ
1939/9 完結した。 情報源のサイトへ
1939/10 完成祝賀会を上野精養軒で開催。 情報源のサイトへ
1940/5 脳溢血で倒れる。 情報源のサイトへ
1942 発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など 情報源のサイトへ
1942 カテゴリ: 歌人 | フェミニスト | 明治時代の文学 | 明治時代の人物 | 堺市出身の人物 | 1878年生 | 1942年没 情報源のサイトへ
1942/5/29 死去。享年64歳 情報源のサイトへ
1942/5/29 与謝野晶子(歌人『みだれ髪』)[1942年5月29日没] 情報源のサイトへ
1942/5/29 明治時代から昭和時代にかけて活躍した歌人、作家、思想家。大阪府堺市(現在の堺区)出身 情報源のサイトへ

あしたね年表について

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