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上杉謙信(うえすぎけんしん)

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上杉謙信(うえすぎけんしん)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1530 山内上杉氏の上杉憲房(のりふさ,1467-1525)の後室を側室としていますが、子の武田晴信(信玄)も扇谷上杉氏の上杉朝興(ともおき,1488-1537)の娘と 情報源のサイトへ
1530 「天文の大乱」に長尾為景と対立。その後、長尾晴景とは和解 情報源のサイトへ
1530 再び上条定憲が蜂起。宇佐美定満・大熊秀、上田の長尾房長、北衆の中条藤資・黒川清実・色部清長・本庄房長・新発田綱貞・鮎川清長・竹俣清綱らが支持する 情報源のサイトへ
1530 越後守護代長尾為景の子として生まれる。出家前は長尾景虎、上杉家を継いでからは上杉政虎、輝虎と名乗った 情報源のサイトへ
1530 上条定憲との対立に譜代の山吉政久・福王寺孝重、国衆の安田長秀・安田景元・北条光広の支持を得る。 情報源のサイトへ
1530/1/21 越後守護代・長尾為景(ためかげ)の四男(又は三男)・虎千代として生まれた長尾景虎は、元服すると周囲の国人から擁立されて家督を継いだ兄の長尾晴景(はるかげ,1509-1553)と対立することになり、最終的に主君の上杉定実の仲介で晴景の養子となった景虎が長尾氏の家督を継承することになります。19歳で家督を継いだ長尾景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入りますが 情報源のサイトへ
1531 上条の乱」で長尾為景を支援するが 情報源のサイトへ /01.jpg
1533 上条定憲・長尾房長・中条藤資・新発田綱貞・本庄房長・色部清長との対立。 情報源のサイトへ
1533 婚姻関係を結んで関東との結びつきを強めています。武田晴信の『晴』の文字は、12代将軍・足利義晴から偏諱を賜ったもので幼名は勝千代(かつちよ)といいました 情報源のサイトへ
1535 守山崩れと呼ばれる内紛で阿部弥七郎正豊に突如斬殺されてしまいます。三河の内部分裂に勝機を見出した織田信秀(1510-1551)は、三河に進軍して 情報源のサイトへ /02_01daiju.jpg /02_01daiju.jpg
1535 離反する。 情報源のサイトへ
1535 氏輝は相模の北条氏綱と連携して再び甲斐の武田信虎を攻めてきました。今川氏輝は武勇に優れた武将でしたが 情報源のサイトへ
1536 長尾景虎(ながおかげとら)が長尾家を継ぎ、守護代(しゅごだい)になる。 情報源のサイトへ
1536 息・晴景とは講和する。晴景を後援し長尾景虎(のち上杉謙信と称す)と対立 情報源のサイトへ
1536 兄の長尾晴景が家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたこととされている 情報源のサイトへ
1536 24歳の若さで死去します。氏輝には嗣子が無かったため、弟の今川義元と玄広恵探(げんこうえたん,良真)の間で後継者争い(花倉の乱)が生じましたが、信虎は義元を支援して駿河守護・今川氏の家督を継がせました 情報源のサイトへ /imagawa_yoshimoto.jpg /img013.jpg /ujiyasu.jpg /IMG_245511.jpg
1536 (1536)に病死してしまう。長男・晴景が跡を継ぐが、父・為景でさえ苦戦した越後国内の統制に苦労することとなる 情報源のサイトへ /20060915-001.jpg /tosyokannairan.jpg
1536 「三分一原合戦」に宇佐美定満・柿崎景家を撃退。生涯百余度の合戦を経験、「戦鬼」と称される 情報源のサイトへ
1536 越後守護代就任。足利義晴の「晴」字を拝領 情報源のサイトへ
1537 死去して幼少の上杉定(ともさだ,1525-1546)が家督を継ぐと、そのチャンスを逃さずに川越城も陥落させます。 情報源のサイトへ
1539 伊達家「天文の大乱」では弟・小川長資とともに反為景。のち小川長資と一門・鮎川清長に所領を簒奪される 情報源のサイトへ
1540 拠点の安祥城が落とされて矢作川以西を信秀に奪われます。 情報源のサイトへ
1541 海野平合戦による滋野一族の打倒など)。 情報源のサイトへ /96b0e790d1aa885ff08d_ll.JPG
1541/6/14 板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)、飯富虎昌(おぶとらまさ)など譜代家臣からの支持を取り付けた武田晴信(武田信玄)が父親の信虎を甲州から追放したのでした。故国の甲斐を追放された武田信虎は駿河の今川義元を頼って落ちていき、武田晴信が武田氏の家督と甲斐守護の官職を継承しました 情報源のサイトへ /080614.jpg /hirashiogenji.jpg
1542 信濃・諏訪に攻め込んだ晴信(信玄)は、諏訪頼重を謀略にかけて降伏させその後に自害に追い込みます。諏訪上社大祝(すわかみしゃおおほふり)の諏訪氏を滅亡させ、拠点の上原城を取った晴信は、上原城に家臣の板垣信方を諏訪郡代として送り込みます 情報源のサイトへ
1543 元服して長尾景虎と名乗り栃尾城主になる。この頃、越後では守護職上杉定実に対する反乱が起こっていた 情報源のサイトへ
1543/7/30 病弱な晴景を侮り反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った。 情報源のサイトへ
1544 初陣。栃尾城主 情報源のサイトへ
1545 扇谷上杉家の上杉定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の『北条包囲網』を切り崩して、定を討死させて晴氏に古河公方を引退させましたが、上杉憲政(のりまさ,1523-1579)は越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を求めて落ち延びていきました 情報源のサイトへ /sunakubo.JPG
1545 府中に乱入し、景虎兄の景康を討ち取る。守護上杉定実の仲介で講和するが違約したため景虎に討たれる 情報源のサイトへ
1546 黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった 情報源のサイトへ
1546 奇襲により敗走、扇谷定は戦死し家系断絶。 情報源のサイトへ
1546 北条氏康(うじやす,1515-1571)と河の戦いを戦った上杉定は22歳の若さで討死しました(扇谷上杉氏の滅亡)。氏康に敗れた古河公方・足利晴氏も強引に子の足利義氏(よしうじ,1541-1583)に譲位させられ、古河公方は実質的に北条氏の傀儡の地位に落ちていきます 情報源のサイトへ /spc_blue.jpg /middle_1195819632.jpg /Pa003767.jpg /image68.jpg
1547 分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めています。武田晴信は怒涛の勢いで信州の諏訪地方に続いて佐久地方も占領しますが 情報源のサイトへ
1547 信濃にて武田軍に敗北。 情報源のサイトへ
1548 守護・上杉定実の調停で隠居。42歳 情報源のサイトへ
1548 (1548)晴景は結局、隠居し謙信に家督を譲る。この時、謙信は栃尾城から春日山城へ移っている 情報源のサイトへ
1548/2 信濃の有力国人である村上義清と『上田原の戦い』で衝突して大敗を喫してしまい、重臣の板垣信方や甘利虎康などを失ってしまいました。 情報源のサイトへ /021ueda.jpg /b05.jpg
1549 上田長尾氏反抗の際に、輝虎に忠節尽くす。 情報源のサイトへ
1549 輝虎に叛す。 情報源のサイトへ
1549 平子孫太郎とともに関東管領・上杉憲政を迎える。 情報源のサイトへ
1549 今川義元が織田信秀方の安祥城を攻め落として信秀の子・織田信広(のぶひろ,生年不詳-1574)を人質にし、信広と竹千代を交換して竹千代は本来の今川義元方の人質になりました。松平広忠が死去すると三河地方も今川義元の勢力下に組み入れられ、信秀が死んで『大うつけ』と呼ばれた織田信長が家督を継ぐと、義元は今が好機とばかりに尾張制覇(信長打倒)の野心を持ち始めます 情報源のサイトへ
1550 以降の出生。  上杉謙信の軍団その2 景勝・景虎の頁のTOP 情報源のサイトへ
1550 信州の国人の小笠原長時を打ち破って拠点の林城を奪い取り、長時は村上義清の元へと落ち延びていきますが、村上義清の支城である砥石城(といしじょう)を攻めた晴信は再び義清に敗北してしまいます。しかし、真田幸隆(幸綱)の策略によって砥石城を陥落させると武田晴信の優勢が確定し 情報源のサイトへ
1550 長尾景虎(ながおかげとら)が長尾家をまとめ、守護(しゅご)になる。 情報源のサイトへ
1550 実子がいなかった主君の上杉定実が死去すると、将軍・足利義輝の指示で長尾景虎が越後守護の官職に任命されました。 情報源のサイトへ
1550 定実が遺児を残さず死亡し、守護代の謙信が守護職を継ぐ。しかしこれに不満を持った長尾政景が反乱を起こすが謙信は鎮圧する 情報源のサイトへ
1551 父と共に輝虎に叛いたが、のち降服。輝虎の姉(桃院)婿となる 情報源のサイトへ
1551 本庄を奪回。<為景の代、本庄時長は色部・竹俣とともに反乱 情報源のサイトへ
1551 本庄景通の後見で本庄城を奪取。 情報源のサイトへ
1551/1 越後国人・発智長討伐。 情報源のサイトへ
1551/2 上野城攻略。1553 情報源のサイトへ
1552 関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)が北条氏に 情報源のサイトへ
1552 北条家の圧力に抗しきれず越後に落ちる。のち 情報源のサイトへ
1552 越後守護の長尾景虎に助けを求めてくると、景虎は北条氏を攻めて平井城を奪還し憲政に返上しました。上杉謙信は 情報源のサイトへ /middle_1190326356.jpg /tama_02.jpg /aoyagijou_kamurikimon-thumb.jpg
1552/11 今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり 情報源のサイトへ
1552/11/30 奈良天皇や将軍足利義輝に拝謁する。また本願寺や朝倉氏と連携をとり 情報源のサイトへ /kawanakajima01.jpg /kenshin02.jpg
1553 謙信について上洛。「鬼」の異名をとる 情報源のサイトへ
1553 信濃国出征 情報源のサイトへ
1553 武田晴信(武田信玄)の信濃侵攻によって領地を奪われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)ら信濃の有力国人が、旧領回復を求めて上杉謙信のもとへ落ちてきます。信濃国人と長年の交流関係があった上杉謙信は、『信玄の不条理な侵略(国人の領地の簒奪)』を許すことはできないとして『川中島の戦い』に出陣します 情報源のサイトへ /39.jpg /ikusima02-thumb.jpg /kuyou.jpg
1553 晴信は村上義清を攻撃して打ち破ります。敗れた村上義清は、拠城の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ちていきますが、これが日本史上もっとも有名な戦いである『川中島の戦い』の遠因となります 情報源のサイトへ /39.jpg
1553/4 川中島の戦い(川中島合戦)は、『1553年4月・ 情報源のサイトへ /39.jpg
1553/4 村上義清の要請を受けた上杉謙信(長尾景虎)が5,000の軍勢を率いて信濃川中島に進出。しかし武田信玄も上杉謙信も軍を積極的に動かすことなく 情報源のサイトへ /ikusima02-thumb.jpg /kuyou.jpg
1554 謙信出奔事件の影響か)。 情報源のサイトへ
1554 北条高広の謀反を直江景綱に通報。柿崎景家とともに「北条城攻囲」し降す 情報源のサイトへ
1554 大熊秀と対立し、家中の争いに嫌気がさした輝虎が出奔する事件がおきる。遺領は慶秀の息・秀綱が継承する 情報源のサイトへ
1554 武田信玄に応じて上杉謙信に背き、謙信に北条城を攻められますが降伏。以後は上野国厩橋城代となり関東経営に当たりました 情報源のサイトへ /4-01.JPG /header.jpg
1554/7 北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ 情報源のサイトへ
1554/12 武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことで、三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立しました。 情報源のサイトへ /4-01.JPG /header.jpg /kaiken0806262.jpg /01_03_07_00_c027.jpg
1555 義綱が温井氏を打倒したため越前から能登に帰還する。 情報源のサイトへ
1555 温井総貞が討たれた際、兄とともに加賀に出奔。 情報源のサイトへ
1555/2 「北条城攻略」。 情報源のサイトへ
1555/10 和睦して撤退した。武田信玄上杉軍が越後に撤退すると、かねてから上杉謙信に通じて反抗していた木曽義康、木曽義昌父子を攻め、これを屈服させた 情報源のサイトへ /img009.jpg /cyouhukuji-thumb.jpg
1556 (1556)、謙信は突然、当主を辞め出家しようとする。越後国内の争いに嫌気がさしたなどといわれるが原因は不明である 情報源のサイトへ
1556 「駒返の合戦」。 情報源のサイトへ
1556 黒川清実と所領争いの内紛を起す。北衆 情報源のサイトへ
1556 中条藤資と所領争いの内紛を起す。 情報源のサイトへ
1556 大熊秀と武田家の同盟軍を「駒返しの合戦」に破る。下平修理と所領を争い、謙信が出家出奔する原因をつくる 情報源のサイトへ
1556/3/23 家臣団に出家の意向を伝え 情報源のサイトへ
1556/6 出家すると宣言して高野山(一説に比叡山)に向かう。この頃、武田氏との抗争や家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れきっていたとも言われているが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した 情報源のサイトへ
1556/6 出家すると宣言して、高野山(または比叡山)で隠遁しようとしますが、家臣に引き止められて再び北条氏征伐と武田氏討伐の戦いの日々に明け暮れることになります。 情報源のサイトへ
1556/6/28 春日山城を出奔、高野山を目指した。しかし 情報源のサイトへ
1556/8 武田家に通じる。「駒返の合戦」に敗北し甲斐に落ちる 情報源のサイトへ
1556/8/17 大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている 情報源のサイトへ
1557 関東管領・上杉憲政は長尾景虎を養子としており 情報源のサイトへ
1557 上杉謙信(長尾景虎)が川中島に進出してきたことにより、再び武田軍と上杉軍の対峙が始まる。しかし両軍共に戦果は無く、さらに上杉謙信の留守中に加賀・越中一向一揆が起こったため、上杉軍は撤退した 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1558 以来輝虎の奉行。披露太刀之衆 情報源のサイトへ
1558 上杉謙信に謁見し、上杉軍の精鋭として活躍するようになる。北衆では中条藤資に次ぐ実力者となり 情報源のサイトへ
1558 飯山城に迫った武田軍を迎えて善光寺に布陣したが決戦には至らなかった。 情報源のサイトへ
1559 山浦入道の養子になっていたかと。> 情報源のサイトへ
1559 「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十一位。数々の合戦に先陣を務め、輝虎に「和泉にして分別あらば、七中手に合う者あるまじ」と評される 情報源のサイトへ
1559 上洛した謙信と交流した近衛前久は「この間は度々おいで候て、華奢なる若衆を多く集め候て、大酒までにて、たびたび夜をあかし申し候、少弼(謙信)は若いのが好みとの由承り候」と謙信を観察しており、この書状と謙信が女性と交渉を持たなかったことを結びつけて、謙信は男色を愛好したと見る歴史家もいる。 情報源のサイトへ
1559 輝虎養子。 情報源のサイトへ
1559 『諸国衆御太刀之次第』記載、披露太刀之衆、登場人物は実在武将。> 情報源のサイトへ
1559 上杉景虎(うえすぎかげとら)が京都へ上洛(じょうらく)する。 情報源のサイトへ
1559 「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十七位。第2期・謙信七手組④‘ 情報源のサイトへ
1559 披露太刀、入道之衆六人のひとり。<同じ入道衆の直江実綱と同世代とすれば、1500年代生まれか?上杉憲政の息、山浦憲重とも 情報源のサイトへ
1559 「披露太刀之次第」披露太刀之衆第三十位。武田信玄本陣に突入して、信玄に三太刀を浴びせるという<謙信にとって一騎打ちで武田信玄を討ち漏らした事は不名誉であるから、荒川長実が斬りかかった事になったのかも・・、といっても謙信の代役を勤める程ですから武勇は轟いていたのでしょう> 情報源のサイトへ
1559 謙信二回目の上洛の際に召しだされる。 情報源のサイトへ
1559 直太刀之三人衆②。1545・ 情報源のサイトへ
1559 上洛に先駆けて京都に潜入。 情報源のサイトへ
1559/4 京都に上洛して奈良天皇と13代将軍・足利義輝に謁見を果たしており、北条氏を牽制するための関東進出と、北信の国人(村上・高梨ら)の旧領復帰・信玄討伐に対する大義名分を得ようとしたようです。上杉謙信は13代将軍・義輝に忠誠を誓い、関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)に認められることで、三管領家(斯波・細川・畠山)に次ぐ身分上の特権を得ることにも成功しました 情報源のサイトへ
1559/10/30 関東出兵は、北条方の城を次々落としていき、さらに上杉憲政を擁した謙信の元にも続々と関東諸将が集まり、ほぼ順調に遠征が進んでいく。謙信は関東で越年し 情報源のサイトへ
1559/11/30 ついに上杉憲政を擁して関東へ出陣する。この時、三国峠を超えるがこの後10回以上もこの峠を越える事になろうとは謙信自身も想像していなかったに違いない 情報源のサイトへ
1560 北陸経営、越中・椎名氏に加勢。 情報源のサイトへ
1560 から輝虎の奉行。 情報源のサイトへ
1560 関東出征」に従う。 情報源のサイトへ
1560 前の関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を追い出した北条氏康 情報源のサイトへ /kataba1.jpg
1560 桶狭間の戦い』で今川義元はあっけなく織田信長に敗れて首級を挙げられますが、大名としての格・領土の広さ・集められる軍勢の数では圧倒的に義元のほうが有利な状況にありました。 情報源のサイトへ /oke1.jpg /C2E7C0BBBBFB.jpg /poster.jpg
1560 じめ親上杉派のち転じて武田派となり、謙信に討伐される。長尾景虎は1560年 情報源のサイトへ
1560 (1560)になると、越中に出陣し神保長職を打ち破り 情報源のサイトへ
1560 関東出征に春日山城留守居役。越中国の豪族・椎名康胤の養子となる 情報源のサイトへ
1560 関東出陣」には春日山城下府内奉行。 情報源のサイトへ
1560/3 富山城を攻略される。増山城に退却するが 情報源のサイトへ
1560/5 三国峠を越え関東へ出陣する。 情報源のサイトへ
1560/9 関東遠征「岩下城攻略」、上野国「沼田城攻略」北条孫次郎を討取る。 情報源のサイトへ
1561 小田原城下に入った長尾景虎(上杉謙信)に対して、北条方は籠城作戦に出、長尾景虎(上杉謙信)は苦戦します。そんな中、長尾景虎(上杉謙信)は鶴岡八幡宮で山内上杉憲政から「関東管領」と「上杉」の名を継ぐ拝賀式を行い、上杉政虎を名乗ります 情報源のサイトへ
1561 第27代:1561年 - 情報源のサイトへ
1561 「信濃出兵」には春日山城留守居情報源のサイトへ
1561 上杉景虎(うえすぎかげとら)が北条氏康の立てこもる小田原城(おだわらじょう) 情報源のサイトへ /houzyou2.png
1561 「第四次川中島の合戦」に戦死。<山吉・松本家と肩を並べる初期の有力武将のようです 情報源のサイトへ
1561 上杉氏に改姓して、憲政より関東管領職を譲られた。一方北陸方面にも勢力を拡大して加賀能登を制し 情報源のサイトへ
1561 4回目だけだったとも言われます。川中島の戦いで有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの場面も、この4回目の川中島の戦いで起こった出来事だと言われますが、謙信が単騎で駆け込んで太刀で信玄に斬りかかり、信玄がこれを軍配で受け止めたというエピソードが史実か否かは不明です 情報源のサイトへ /39.jpg /kansuke-mini.jpg /sp_24_takeda_2.jpg
1561 「第四次川中島の合戦」に旗本左備<父と事績が混同されるか?>。「御館の乱」では親子共に景勝の与党 情報源のサイトへ /0704151_082.jpg /02.jpg
1561 川中島参戦という経歴に作為的なものを感じますが・・。> 情報源のサイトへ
1561 「第四次川中島の合戦」に従軍。息子、宮内少輔・秀能は越後国黒滝城主 情報源のサイトへ
1561 上野国沼田城に在番し関東方面の旗頭北城の与力となる。 情報源のサイトへ
1561 第四次川中島合戦に武田義信隊におくれをとり討死。19歳 情報源のサイトへ
1561/3 北条氏康の本拠・小田原城を取り囲む。その数、10万を超えたといわれている 情報源のサイトへ /houzyou2.png
1561/3 長尾景虎は関東管領・上杉憲政を擁して総勢10万人の兵力で攻め寄せる大規模な『小田原城包囲』を行いますが、北条氏康の難攻不落の拠点・小田原城を落とすことは出来ませんでした。しかし、その途中で足利義氏が守る古河御所を落としており、義氏を追放して元々古河公方となる資格のあった足利藤氏(ふじうじ, 生年不詳-1566)を古河公方に復活させています 情報源のサイトへ /houzyou2.png
1561/9 「第四次川中島の合戦」<川中島で武田晴信(信玄)と総力戦、一騎打ちがあったとも>。 情報源のサイトへ
1561/9 「第四次川中島の合戦」に軍功。謙信「血染めの感状」七人の一人<松本大学が貰ったとも> 情報源のサイトへ
1561/9/10 武田信玄の軍20,000と上杉謙信の軍13,000との間で、4度目の川中島の戦いが行われる。今までの川中島の戦いで最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われている 情報源のサイトへ /39.jpg /kansuke-mini.jpg /sp_24_takeda_2.jpg
1561/11 再び関東に出て氏康と戦う(生野山合戦)。しかし川中島における軍勢の被害が甚大であり積極的に戦うことができず撤退する(内閣文庫所蔵・小幡家文書) 情報源のサイトへ
1562 輝虎から景の字を拝領。 情報源のサイトへ
1562 北条・武田連合軍の攻撃を受け降伏、北条氏康に属した。 情報源のサイトへ
1562 再び敗北し、能登守護・畠山義綱の仲介により上杉家に降服し臣従。増山城に復帰する 情報源のサイトへ
1562 2度に亘り椎名家の為に出動する。 情報源のサイトへ
1562 上杉軍撃退に武功。のちに上杉家に属し 情報源のサイトへ
1562 から父とともに上野国軍監、関東侵略に活躍。 情報源のサイトへ
1562/2/30 輝虎と名乗るようになる。しかし、関東管領職を継いだことにより、これ以後、慢性的に関東の北条氏と甲信の武田氏という二方面の強敵に対して戦いを展開することとなる 情報源のサイトへ
1562/4 信濃国「飯山城防衛戦」。 情報源のサイトへ
1563 上野佐野城主となる。 情報源のサイトへ
1563 三河一向一揆では蜂屋貞次と 情報源のサイトへ /image.cgi?src=4179e0cc4d168.jpg&wi=200&color=0&ex=1 /121.jpg
1563/2 松山城北条軍に攻囲され降服する。北条氏邦に仕え上野国金山城を攻撃 情報源のサイトへ
1564 「第二次国府台合戦」が勃発。氏康は嫡男・氏政とともに2万余の兵を率いて、上杉政虎(上杉謙信)と連合する安房・上総の里見義尭・義弘と下総国府台で対陣します 情報源のサイトへ
1564 信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄が信濃野尻城を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した(第5次川中島の戦い) 情報源のサイトへ /mushanobori_teien2.jpg /mushanobori_image_s.jpg
1564 頃から外様ながら部隊長として頭角を現す様です。 情報源のサイトへ
1564 宇佐美定満と野尻池で事故死。越後坂戸城主 情報源のサイトへ
1564 長尾政景とともに溺死。琵琶島城主 情報源のサイトへ
1564 謙信から「顕」の字を拝領。 情報源のサイトへ
1564/2 下野国「唐沢山城攻略」に軍功、謙信に感状を与えられる。 情報源のサイトへ
1564/6 「唐沢山城の攻防」。 情報源のサイトへ
1564/8 』の計五回行われたとされますが、実際に武田軍と上杉軍が全面衝突したのは 情報源のサイトへ
1564/10 「第五次川中島の合戦」に両軍の勝敗を決するため、武田軍の安間弘重と一騎打ちを行い勝利する。 情報源のサイトへ
1564/10 「第五次川中島の合戦」に遊撃軍の将。子息・景資が戦死し跡職は吉江景資の次男が養子になり中条と名乗る 情報源のサイトへ
1564/11 佐野昌綱の逆襲により撤退。 情報源のサイトへ
1565 上野国沼田城に在番。 情報源のサイトへ
1565/2 倉賀野城防衛戦」。 情報源のサイトへ
1565/5 戦死、弟があとを継ぎ同じく両者の和睦を進めます。しかし、両者は応じず、上杉謙信は北条と武田を滅ぼし関東・信濃を平定することを神に誓っています 情報源のサイトへ
1566 兄・顕長から名を与えられる。 情報源のサイトへ
1566 常陸の小田氏を再び降伏させ、下総の千葉氏の拠点である臼井城へ攻め寄せた。だが、城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの結果的には撤退することとなった 情報源のサイトへ
1566 義綱嫡子・畠山義慶(次郎・修理)が重臣に擁立されるが変死。> 情報源のサイトへ
1566 一向一揆の勝満城を攻撃。 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1566 政権を畠山七人衆から取り戻すため本願寺証如と通じた守護畠山義続・義綱親子を追放する。 情報源のサイトへ
1566 義綱が近江に追放され、能登に帰還する。加賀一向一揆と結び 情報源のサイトへ /ikko.jpg /info2_photo1.jpg
1566 以降は捕虜になっていた藤氏の消息が分からなくなっています(一説には北条氏に処刑されたと言われます)。 情報源のサイトへ /minowa_jo2.jpg
1566/2 上杉謙信は関東に出兵、佐野城に入りますが 情報源のサイトへ
1566/9 上野国「箕輪城防衛戦」。 情報源のサイトへ
1567 武田氏に内通するが赦免される。 情報源のサイトへ
1567 父の叛乱後、家督を継承し関東経略の中心となる。第2期・謙信七手組⑤‘ 情報源のサイトへ
1567 以来、旗本衆。披露太刀、御馬年寄分之衆 情報源のサイトへ
1567 相模北条氏の誘いでまたも上杉謙信に背きますが、相同盟が成ると許され帰参しました。謙信の死後 情報源のサイトへ
1567 北条高広の謀反鎮圧に出動。<軍役は免除される身分か、関東方面担当の為はずされたか 情報源のサイトへ
1567 関東遠征に従軍し、下野国佐野城主。その後、越中にも転戦 情報源のサイトへ
1567/4 北条高広の謀反により、兄に替わり鎮圧軍として出動。唐沢山城に入り対陣 情報源のサイトへ
1568 長尾為景の死により、息・晴景と和解。長尾景虎に家督を譲り病死 情報源のサイトへ
1568 謙信は矛先を変えて越中侵攻を計画するが、家臣本庄繁長の反乱にあい断念する。 情報源のサイトへ
1568 本庄繁長の謀反では一時本庄の謀反に加担したが、すぐに息子義氏を人質に出し、和睦した。最上川を遡って内陸地方への進出も図っており 情報源のサイトへ
1568 実父・本荘(本庄)繁長が謙信に叛き、降服の際、春日山城に人質にだされる。 情報源のサイトへ
1568 越中一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために松倉城守山城を攻撃したが 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg /surugori.jpg /koyamajo.jpg
1568 一向一揆と提携し、武田信玄と結ぶ。能登国の守護畠山氏と温井総貞との対立では畠山義綱を後援する 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg /surugori.jpg /koyamajo.jpg
1568 本庄繁長攻囲中に陣没。<為景の代、色部昌長は関東管領軍に参加 情報源のサイトへ
1568/7 信濃国「飯山城防衛戦」に武田軍を撃退。 情報源のサイトへ
1568/11 本庄繁長謀反により「本庄城攻囲」に軍功。 情報源のサイトへ
1569 蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた出羽大宝寺義増も輝虎に降伏し、出羽庄内地方を手にする 情報源のサイトへ
1569 時、脳血管障害(と思われる)を発症、左下肢を動かしにくくなった、と言われる。 情報源のサイトへ
1569 武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました 情報源のサイトへ
1569 中に死亡カ。<川中島に先陣を勤めた加地知綱と同一人物か?> 情報源のサイトへ
1569 上杉謙信の攻撃を受け滅亡。松倉城主 情報源のサイトへ
1569/3/15 執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。 情報源のサイトへ /nagasima-p.jpg /sannomaru.jpg
1569/5/3 上杉謙信との相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。 情報源のサイトへ /koga_kubou3.jpg /004.jpg
1569/6/9 氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることを決めました。(しかし実際には氏康の八男・三郎が養子となります) 情報源のサイトへ
1569/8 越中「金山城攻略」に軍功。越中魚津城主となり、越中・能登方面の旗頭となる 情報源のサイトへ
1569/12 法号「不識庵謙信」を称すようになり、正式にはここで初めて上杉謙信という呼称が生まれたということになります。 情報源のサイトへ
1570 義氏と反目して上杉謙信が仲介に入った。しかし 情報源のサイトへ
1570 出家(しゅっけ 僧になること)して上杉謙信(うえすぎけんしん)と名のる。 情報源のサイトへ
1570 相講和の際に北条氏秀を謙信の元に送る。 情報源のサイトへ
1570 北条氏秀(のち上杉景虎)と交換に北条家に人質に送られるが無事生還。 情報源のサイトへ
1570 北条氏政の仲介で帰参。隠居し大胡城主 情報源のサイトへ
1570/10 入ってようやく上杉謙信が援軍を送りこれにより武田信玄は兵を引きます。武田信玄下総関宿城の簗田氏や安房の里見氏などに北条を攻めることを働きかけ、暮れには深沢城、興国寺城を攻め、深沢城は翌 情報源のサイトへ /akazonae-2005-07-10T15:44:22-1.jpg /imgp2878_.jpg
1571 本庄繁長討伐に活躍。 情報源のサイトへ
1571 なると北条氏康が死去し北条氏政(うじまさ,1538-1590)が武田信玄と同盟を結んで『相同盟』が破棄されますが、これは氏康の『信玄と同盟を結べ』という遺言に基づいた行動だったようです。謙信のライバルであった武田信玄は15代将軍・足利義昭の『信長討伐令』を受けて 情報源のサイトへ /dorui.jpg /nishikubo_chobo.jpg /busetsusct.jpg /yasu2.jpg /hie-3.JPG
1571/8 北国に矛先を転じ、越中一向一揆勢力らと戦い富山城を奪う。 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1572 越中国新庄城主。離反した椎名康胤・長尾景直と戦う 情報源のサイトへ
1572 長職の嫡男・長住を追放し、長城を後見する。 情報源のサイトへ
1572 中火宮城を守備する。その後長城の弟・神保長国の煽動する一揆に攻略され、石動山城に退く 情報源のサイトへ
1572/10 春日山城留守居。のち直江信綱とともに毛利秀広に討たれる 情報源のサイトへ
1572/10/3 一挙に京都上洛を目指し怒涛の進軍を開始しますが、あっという間に徳川家康の諸城を陥落させます。 情報源のサイトへ /pho_003.jpg /pic-his21.jpg
1573 16歳で加賀国朝日城攻略に軍功。 情報源のサイトへ
1573 上杉謙信(うえすぎけんしん)が中(えっちゅう とやまけん)を平定する。 情報源のサイトへ
1573 上杉謙信に従い「富山城攻囲」に従軍。 情報源のサイトへ
1573 関東出征」に従軍。 情報源のサイトへ
1573 武田信玄は持病を悪化させて進軍を続けられなくなり、甲斐に引き返す三河の街道で突然死去しました。信玄が死去して後方の憂いがなくなった謙信は 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg /1195195236_sub1.jpg /10062963.jpg
1573/8 越中国加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1573/8 加賀遠征に従軍。「朝日山城攻囲」に一揆勢に足を撃ち抜かれる 情報源のサイトへ
1574 主・畠山義慶を毒殺したともいわれる。 情報源のサイトへ
1574 上野国沼田城主。披露太刀之衆 情報源のサイトへ
1575 兄・守の病死後、家督。三条城神余親綱に与えられる 情報源のサイトへ
1575 以降、謙信の侍大将。鮫ヶ尾城情報源のサイトへ
1575 軍役長作成時には既に死亡?。信州表での謙信の采配を侮り、謙信の命で本庄繁長に討たれるとも 情報源のサイトへ
1575 動員名簿は養子の(畠山)政繁ではなく、景義が登録されるか。> 情報源のサイトへ
1575 軍役帳に記載されない武将は、北衆の本庄・鮎川・大川のように、軍役を免除される特別な地位ということも考えられます。><為景の代、桃井讃岐守は関東管領軍に参加 情報源のサイトへ /0704151_082.jpg /02.jpg
1575 軍役帳に名を連ねる。 情報源のサイトへ
1575 軍役帳16番。 情報源のサイトへ
1575 河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。のち上杉謙信に臣従 情報源のサイトへ
1575/7 再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し 情報源のサイトへ
1575/9/15 遊佐続光(能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である畠山春王丸も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った 情報源のサイトへ /1117yukituri.jpg /P1010003.JPG
1575/9/23 柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、さらに松任城に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したとされる(手取川の戦い情報源のサイトへ /siro_matutou_zu.jpg /t17.jpg
1575/11/30 奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏 情報源のサイトへ
1576 甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。 情報源のサイトへ /DSCN26481.jpg /DSCN26581.jpg
1576 能登国石動城主。のち信濃国不動山城主 情報源のサイトへ
1576 隠居、弟・長実に家督を譲る。佐渡の代官 情報源のサイトへ
1576 上杉勢が奪回する。 情報源のサイトへ
1576 兄・畠山義隆が家老・長連に謀殺される。第2期・謙信七手組のひとり①‘ 情報源のサイトへ
1576/2 一向一揆をある程度制御できる本願寺顕如(けんにょ,1543-1592)と武田勝頼(かつより,1546-1582)と和解して同盟を結びます。 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1576/6 「能登侵攻」に従い、能登国石動山城に在蕃。 情報源のサイトへ
1576/9 名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中に侵攻して一向一揆支配下の富山城、増山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、騒乱の越中を平定した 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg
1577 長続連一族を討ち上杉家に臣従。 情報源のサイトへ
1577 「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが赦免されず越後に出奔、変後能登に侵入するが佐久間盛政に討たれる 情報源のサイトへ
1577 上杉謙信(うえすぎけんしん)が加賀(かが 石川県)で織田信長と戦う。 情報源のサイトへ /osakatera01-6.jpg /osakatera01-7.jpg
1577 上杉謙信の命で甘粕家を相続。護摩堂城主田上町)、五泉城主(五泉市)を経て 情報源のサイトへ
1577 家督継承。景勝の家老として重きをなす 情報源のサイトへ
1577 山吉豊守の死後に三条城主となるが、「御館の乱」では景虎を支持し、旧山吉家中の者に討ち取られる。 情報源のサイトへ /0704151_082.jpg /02.jpg
1577 織田信長軍を加賀・手取川に敗っている。兵の総動員を発して上洛を図るが、出陣を前にして49歳で急死 情報源のサイトへ /osakatera01-6.jpg /osakatera01-7.jpg
1577 軍事動員名簿に記載される上野国膳城主・河田九郎三郎(備前守?)は息子か。> 情報源のサイトへ
1577 和歌口伝一巻を贈られている。<上杉謙信と親交を深める細川藤孝の行動、千利休からも茶道を学ぶ 情報源のサイトへ /kokura-photo.jpg
1577/3 退却する。 情報源のサイトへ
1577/9 織田家、「手取川の合戦」勝利。長岡(細川)藤孝と歌道を通じて昵懇 情報源のサイトへ
1577/12/18 春日山城に帰還した上杉謙信は、翌 情報源のサイトへ
1577/12/23 次なる遠征に向けての大動員令を発した。 情報源のサイトへ
1578 御館の乱」では、上田(坂戸)長尾の勢力の増長を嫌い景虎を支持し、山浦国清に討たれる。栖吉城主 情報源のサイトへ /0704151_082.jpg /02.jpg
1578 計画していたという大遠征を前にして 情報源のサイトへ
1578 景勝相続後は中枢から外れる。柴田勝家と対陣し 情報源のサイトへ
1578 (1578)に謙信が没すると上杉謙信と上杉景勝の家督争いの 情報源のサイトへ
1578 上杉謙信の死後、佐々成政与力として中に出陣。 情報源のサイトへ
1578 上杉謙信の死により一時織田家を頼る。 情報源のサイトへ
1578 (1578)、謙信は関東出兵の準備を進めていた(上洛説もあり)が春日山城内で急死する。享年49歳 情報源のサイトへ
1578 (1576)になると織田信長に苦しめられていた一向一揆を指揮する本願寺顕如と和睦する。これを期に越中、能登、加賀へ進出し 情報源のサイトへ /ikko.jpg /matojo-thumb.jpg /mikijo640a.jpg /honinbou-sansa.jpg
1578 謙信死後、混乱に乗じた本庄繁長に攻撃される。 情報源のサイトへ
1578 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 上杉氏 | 長尾氏 | 戦国大名 | 日本の僧 | 還俗した人物 | 新潟県の歴史 | 新潟県出身の人物 | 越後国の人物 | 1530年生 | 1578年没 情報源のサイトへ
1578 上杉謙信の死去で武藤氏の影響力が低下すると、一時離反したが武藤義氏は知行を与えて懐柔した。鮭延城(真室川町)の鮭延秀綱(愛綱)から書状を受け、武藤vs最上の戦いでは日和見的立場をとり、上杉vs最上の戦いになると上杉方についた 情報源のサイトへ /A0403980a.jpg /A0403980a.jpg
1578 兄の越中侵攻により逃走。 情報源のサイトへ
1578 から家督。景勝に重用され「会津三奉行」のひとり 情報源のサイトへ
1578 御館の乱」に顕長は上杉景虎を支援するが、父・繁長は景勝側で尽力する。 情報源のサイトへ /0704151_082.jpg /02.jpg
1578 遺領は景勝の命で大国実頼(直江兼続の弟、樋口与七)が継承する。 情報源のサイトへ
1578/3/13 死去しました。大遠征計画は、古河公方・関東管領の威令に従わない関東の北条氏政の征伐を目的にしていたとも、京都で朝廷・幕府の権威を否定する織田信長を討伐するためだったとも推測されていますが……『義の将軍』として天皇・将軍・鎌倉公方(古河公方)の旧来的な社会秩序を復古するために戦い続けた上杉謙信は、その目的を達成することなく歴史の波濤の狭間に消えたのでした 情報源のサイトへ /mikijo640a.jpg /honinbou-sansa.jpg
1578/4/19 戦国時代の武将で越後の戦国大名。周辺の武田信玄北条氏康織田信長らと合戦を繰り広げ、後世になって越後の虎と呼ばれる 情報源のサイトへ /kenshin.jpg /mikijo640a.jpg /honinbou-sansa.jpg /%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%B8%85%E3%81%AE%E5%A2%93-thumb.jpg /kensin.gif
1578/5 人形 鎧飾り 飾り よろい 上杉謙信 10号 黒竹虎 s-20 情報源のサイトへ
1578/11/30 北陸きっての堅城である能登・七尾城(畠山氏・本拠)を苦労しながらも計略によって落城させる。その勢いに乗って、七尾城の後詰に来ていた柴田勝家を総大将とする織田軍を加賀・手取川で打ち破る(手取川の戦い情報源のサイトへ /siro_matutou_zu.jpg /t17.jpg

あしたね年表について

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