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フランシスコ・ザビエル

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フランシスコ・ザビエルに関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1506 スペインで生まれました。 情報源のサイトへ /20080407-image15.jpg /099-6.jpg
1506/4/7 生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ地方、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ヤス、母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった 情報源のサイトへ /20080407-image15.jpg /099-6.jpg
1515 ついにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った 情報源のサイトへ /ig_saofrancisco_interior_0.jpg /41004962.jpg
1525 キリスト教を勉強するためにパリにいく。 情報源のサイトへ
1534 (28歳) 情報源のサイトへ
1534/8/15 イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあった 情報源のサイトへ /blog0612161.jpg
1537 ローマで教皇(きょうこう)(キリスト教で最高位の僧)に会う。 情報源のサイトへ
1537/6 ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルはイグナチオら5人と共に司祭に叙階される。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった 情報源のサイトへ
1540 キリスト教を広めるために、インドに向かうことが決まる。 情報源のサイトへ
1541/4 リスボンを出発した。 情報源のサイトへ /xavier.jpg /16apr042.jpg
1541/8 アフリカモザンビークに到着、秋と冬を過して 情報源のサイトへ
1542/5/6 ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し 情報源のサイトへ
1545/9 マラッカに、さらに 情報源のサイトへ
1546/1 モルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に改宗させた。 情報源のサイトへ
1547 マラッカで、日本人のヤジローにあい、日本へ向かう決心をする。 情報源のサイトへ
1547/12 出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなった 情報源のサイトへ /sabi02.jpg /sabi01.jpg
1549 鹿児島にフランシスコ・ザビエルが上陸しました。 情報源のサイトへ /image.jpg /zabieru32.jpg
1549 日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている 情報源のサイトへ
1549 キリスト教がフランシスコ・ザビエルによって伝えられ、日本人の目は外に向かって大きく開かれた。 情報源のサイトへ /image.jpg /zabieru32.jpg
1549 松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第1巻(1549年- 情報源のサイトへ
1549/4/15 イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。 情報源のサイトへ
1549/8 フランシスコ・ザビエルが、中国人倭寇・王直の船に乗り、鹿児島に上陸します。ザビエル鹿児島に上陸してわずか3ヵ月後、「の港に倉庫を建て、金や銀と交換する貿易ができる 情報源のサイトへ /image.jpg /zabieru32.jpg
1549/8/15 (カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島祇園之洲)に上陸した。 情報源のサイトへ
1549/9 伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た[4]。ザビエル鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ 情報源のサイトへ /image.jpg /zabieru32.jpg
1549/12/1 本国内の教会 情報源のサイトへ
1549/12/3 本を目指し、そして到着 情報源のサイトへ
1550 山口県の大名の大内義隆(おおうちよしたか)に会う。 情報源のサイトへ
1550/8 かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエル平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した 情報源のサイトへ /1550.jpg /zabieru01.jpg
1550/11 頃にザビエル下関に上陸したことを記念している。 情報源のサイトへ /1550.jpg /zabieru01.jpg
1550/11 山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路へと赴いた 情報源のサイトへ
1551 日本にキリスト教を広めるには、まず、中国にキリスト教を広める必要があると考え 情報源のサイトへ
1551/1 一行は念願のに到着した。都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた 情報源のサイトへ
1551/4 山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した 情報源のサイトへ /tanegashima-020.jpg /01xavier.JPG
1551/9 ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している 情報源のサイトへ /tanegashima-020.jpg /01xavier.JPG /ohtomo.jpg
1552 マカオで病死(47才) 情報源のサイトへ
1552 没隠しカテゴリ: 書きかけの節のある項目 情報源のサイトへ
1552/4 日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して 情報源のサイトへ /sabi02.jpg /sabi01.jpg
1552/9 上川島に到着した(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て 情報源のサイトへ /sabi02.jpg /sabi01.jpg
1552/12/2 カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。 情報源のサイトへ
1552/12/3 の午前2時頃のことであった. 情報源のサイトへ /sabi02.jpg /sabi01.jpg
1553/2 マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経てなお、腐敗した様子がなかったという。さらにゴアに移され 情報源のサイトへ
1554/3/16 から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した 情報源のサイトへ
1554/3/16 1554年3月16日 情報源のサイトへ
1561 同朋舎 情報源のサイトへ
1594 イタリア人トルセリーニによって著された『フランシスコ・ザビエルの生涯』に描かれたザビエルの肖像画は、ザビエルが天を仰ぎつつ、胸に手を置いて言葉を発しているという構図であり、これは以後のザビエル像の1スタイルとして定着しました。この肖像画に添えて記されたザビエルの言葉は、彼がゴアで祈っている時に発せられたものと伝えられていますが、その言葉の意味は? 情報源のサイトへ
1614 ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されている。なお、この右腕は 情報源のサイトへ
1619/10/25 1619年10月25日 情報源のサイトへ
1622 以降に日本で作成されたと推定。大阪府茨木市の隠れキリシタンであった家で 情報源のサイトへ /Q048L101.jpg /saverio_map.gif
1622/3/12 盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。 情報源のサイトへ
1622/3/12 1622年3月12日 情報源のサイトへ

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