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ジョン万次郎(じょんまんじろう)

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ジョン万次郎(じょんまんじろう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1827 土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。死亡した父や病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った 情報源のサイトへ
1827/1/1 ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日 情報源のサイトへ
1841 ジョン万次郎、漂流。のちにゴールドラッシュに加わる 情報源のサイトへ
1841 15歳の時に漁師の手伝いで漁に出て漁師仲間と共に遭難し 情報源のサイトへ
1841/5 足摺岬でのアジ、サバ漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえる。 情報源のサイトへ
1841/5 半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される 情報源のサイトへ
1848/7 一等航海士副船長となる。 情報源のサイトへ
1851 ジョン万次郎、米国から帰国。島津斉彬精錬所設立(機械工業の始まり) 情報源のサイトへ /02176terukuni_sh.jpg /terukuni32.jpg
1851 ジョン万次郎、アメリカ船で帰国 情報源のサイトへ
1851 25歳の時に共に薩摩藩領の琉球に小船で上陸を計り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受けるが、その際に薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した 情報源のサイトへ /02176terukuni_sh.jpg /terukuni32.jpg
1852 土佐藩の絵師河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』がまとめられた。 情報源のサイトへ
1853 帰国から約 情報源のサイトへ
1855 (1855)わが国最初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書し、つづいて 情報源のサイトへ
1857/4 軍艦教授所教授を拝任 情報源のサイトへ
1857/10 捕鯨術教授のため箱館へ出発(箱館奉行所与力次席) 情報源のサイトへ
1859 英会話書(英米対話捷径)を編集する。 情報源のサイトへ
1860 日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いだったため、万次郎は彼に代って船内の秩序保持に努めた 情報源のサイトへ /pic37_45_793.jpg /clif.jpg
1860 木村摂津守喜毅、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など百余名を乗せ、日米修好通商条約批准書交換目的で渡米する幕府遣米使節護衛目的の随伴艦として太平洋を渡る偉業を成し遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍しました。 情報源のサイトへ /pic37_45_793.jpg /clif.jpg
1862/7 (1862)妻鉄病死(病死) 情報源のサイトへ
1868 後 - 開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。 情報源のサイトへ
1870 中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。 情報源のサイトへ
1870 普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。帰国後に脳溢血を起こし、以後は静かに暮らす 情報源のサイトへ /nuern2-117.jpg /P1010042.JPG
1879 86才で病死)を見舞った。 情報源のサイトへ
1880 ジョン万次郎、1880年頃 情報源のサイトへ
1898 71歳に死去。今は雑司ヶ谷霊園で眠る 情報源のサイトへ
1898 没 | 江戸時代の外交 | 日米関係 情報源のサイトへ
1898/11/12 幕末の日本で、黒船来航でもしられる日米和親条約に締結に尽力し、その後、通訳・教師などで活躍したジョン・マン(John Mung)こと、本名は中濱 万次郎(なかはま まんじろう)。 情報源のサイトへ

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